第百十七話  「欽明天皇 和風諡号天國排開廣庭天皇」

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写真 キャッチコピー「日本初の舟ホタル」

山口県下関市豊田町は、日本でも有数のホタルの里。毎年ホタルが見頃を迎える六月にホタ

ルの乱舞を両眼に眺めながら木屋川の川下りが楽しめます。およそ800㍍の川下りはとても

幻想的でロマテイックです。      出典:山口県観光サイト

私の発想は、「梅雨入り」→「ホタル」→「ホタルの里」→「舟ホタル」となり、それを思い

出したのが、令和四年六月九日午前二時三〇分、NHK第二放送のニュースです。

 

○古代史上、最も不思議な「欽明天皇」

○『日本書紀』編纂者は、今は現存していない『百済本紀』を引用したのか。

○百済国が任那諸国の盟主!!

 

1.古代史上、最も不思議な「欽明天皇」

私は『日本書紀-欽明天皇紀』を読んでいて、異常な記述姿勢に何度も驚きました。

不十分な点は重々認識していますが、驚いた点を列挙し、検証してみましょう。

(1)即位前期

①「天皇の側には常に敬愛する手白香皇后がいた。」

おそらく、即位前は手のかかる幼児であったことを物語ります。

「三十二年四月、天皇、遂に内寝で崩御された。時に年若干(そこはか)」とあります。

「年若干」とは、一般的には成人に達しない年齢で、治世32年は明らかに矛盾する記述で

す。

加えて、皇后や妃を娶り、多くのみ子に恵まれたとする記述も不思議です。

第百十五話で、継体天皇崩御時、欽明天皇は三才と言う私見を紹介しました。安閑・宣

化天皇の在位期間が合計六年間ですから、欽明天皇として即位した時の年齢は九才と云う

ことになります。

九才では、政治を行えません。おそらく手白香皇后が後見していたと推測します。実質

「磐井王朝の復活」と云うことになります

②「天皇、秦大津父(はたのおほつち)と云う者を寵愛すれば、志(こころざし)が壮大で必

ず治世は名君と呼ばれるであろう。」との夢をみる。

秦大津父とは、第七十七話「贈応神天皇(5)」で紹介した「弓月君(ゆづきのきみ)」

を指します。

弓月君は、越智族を盟主とする「金官伽耶国」の族長の一人です。したがって、百済から

渡来したのではなく、金官伽耶国に見切りを付け、一族郎党を従え、越智族統領大国主を頼

って倭国に帰化し、当初は白族統領豊玉彦が支配する山背国(やましろのくに)に入植した

と推測します。

この推測の根拠は、越智・白族の両統領は「擬神体“田神様(タノカンサー)”」という関

係にあり、山背国へ入植したようです。

元年二月には、勢力を広げた秦氏は、戸数が7053戸となり、正式に「秦伴造」の姓(かば

ね)が与えられました。

このような背景を持つ秦氏の祖“弓月君」”が天皇の夢に現われるはずがありません。『日本

書紀』編纂者は、どのような意図を持って記述したのでしょうか。

  • 生きた亡霊山田皇后の登場

「余、幼年で知識も浅く、未だ政治向きのことはわからない.(春日)山田皇后が欽明天皇の後見

人となり、政治を補佐した。」とあります。

『日本書紀』によると、「山田皇后は安閑天皇の皇后で、安閑天皇陵に妹神前(かみさき)皇

女と共に合葬されたとあります。

死亡したはずの山田皇后が復活し、欽明天皇を後見することなどあり得ましょうか。

   写真 京都市伏見区深草藪之内 「伏見稲荷大社」

出典:京都の旅行情報

「秦氏の祖霊として創建」縁起を持つ

主祭神:宇迦之御魂大神・佐田彦大神・大宮能売大神・田中大神・四大神

詳しくは「古代史山ちゃんブログ」掲載の「お稲荷様を考察する」を閲覧してください。

写真 伏見稲荷大社「千本鳥居」  出典:京都の旅 旅行情報

2.『日本書紀』編纂者は、今は現存していない『百済本紀』を引用したのか。

『日本書紀』は、今は現存していない百済三書と呼ばれる『百済記・百済本紀・百済新撰』記

事を引用しています。

『日本書紀-欽明天皇紀』は『百済本紀』から多くの記事を引用しています。同書は「百済国の

歴史観」に立った書です。したがって、朝鮮半島・倭国情勢についても自国を中心に置いていま

す。

『日本書紀』編纂者は、その点を配慮して記事を取捨選択する立場と考えますが、そのような

配慮が見えないのです。

何故でしょうか。

理由をいろいろと考えてみましたが、『日本書紀-欽明天皇紀』は編纂者による「作り話」とい

う疑念が妥当と推測しています。

逐条的な百済との濃密な通交記事であふれ、欽明天皇の存在感が見えないのです。

3.百済国が任那諸国の盟主!!

欽明天皇による「任那諸国への勅命」が、何故か百済国王に送られ、百済国王が任那及び任那諸国に

説明するという構図はあり得ません。

「勅命」を第三者に送るなどおかしいと思いませんか。

『日本書紀』は一貫して、百済を「属国」扱いをしていましたが、何故か「欽明天皇紀」は、百済を

対等な友好国.任那諸国の盟主として記述しています。

「欽明天皇紀」から百済との通交記事を検証してみましょう。

(1)二年夏四月条

安羅の次旱岐(じかんき)夷呑奚(いとんげ)・旱岐散半奚(さんはんげ)の子、多羅の下旱岐(中

略)任那日本府の吉備臣らが天皇の詔書の内容を聞くために百済に向かいます。百済聖明王(在位

524~554年)は任那の旱岐等に語るには、詔書の内容は「専ら任那復興」にありました。

任那の旱岐(王)等は「再三、(伽耶地方を占領していた)新羅と占領地の返還について折衝してい

ますが、新羅からの回答はない。」と聖明王に応えます。

同記事は、新羅の法興王(在位514~540年)の時代、532年に伽耶地方の金官国を降伏させて併呑し

た事件への対応策に関する詔書と考えられます。

したがって、同記事は533年頃と考えられます。

金官国は、故百嶋氏が指摘する「金官伽耶国」を指し、同国内には任那の日本府が置かれていたと考

えられます。

任那国の王「吉備臣」の名を洩らすなど考えられませんが、名を明らかにすると不都合があったので

しょう。

(2)二年秋七月条

百済は「安羅の日本府と新羅が相通じている」との情報を伝えます。

安羅の日本府は、532年新羅によって金官国が併合され、任那日本府は安羅国へ移動せざるを得ませ

んでした。然るに、百済は九州王朝倭国へ偽情報を流し、倭国に阿羅国に対する猜疑心を植え付けた

記事と推測します。

同記事も533年頃の記事と考えられます。

(3)四年冬十一月条

津森連を百済に派遣し、「任那の復興に百済の郡令・城主も協力すべし。任那が滅びて十餘年経過す

るも、百済は天皇の勅命に逆らい、任那復興が遅々として進んでいない。任那は百済にとって統領で

あり、速やかに任那復興に尽力されたい。」と聖明王に伝えます。

同記事は百済を叱責した記事でしょう。

時期は高句麗安原王(在位531~545年)が病に倒れ、八才の陽原王が擁立されたが、丸都城主朱理の

乱を始めとして支配層は動揺し、王権が弱体化した545年頃と考えられます。

(4)七年是歳条

高麗、大いに乱れる。

(3)の記事と連動しています。

百済はこの機会を逃さず、「任那復興問題」は棚上げし、550年頃から百済と高句麗は全面的に衝突

し、聖明王は551年高句麗に奪われた漢城を倭国の救援もあり、奪回します。ところが、翌552年百済

は漢城を放棄したので、新羅が漢城を手に入れます。

(5)八年夏四月条

百済は救援軍を要請します。

同記事も(4)の記事と連動しています。

(6)十一年夏四月条

百済に侍る倭系百済官僚が倭国へ帰還するのを見て、聖明王は慌てます。本心を見透かされたので、

「任那復興の勅命は固く守ります。」との詔書に献上品を添えて倭国に使いを派遣します。

時期は552~553年頃と推測します。

(7)十二年是歳条

百済の聖明王衆(兵)を率いて、高句麗と新羅両国との戦いに入り、高句麗を伐ち、漢城を奪回し、

兵を進めて平壌を征討します。

同事件は551年の出来事です。

記事が混乱しているのが見て取れます。

(8)十三年是歳条

百済、漢城と平壌を棄てる。新羅は漁夫の利を得て漢城に入ります。

同記事は552年の出来事です。

(9)十五年春正月条

百済から救援要請があり、兵一千、馬百頭、舟四十艘を送る。

同記事は、554年の出来事と考えられます。

(10)十五年冬十二月条

新羅の函山城に攻め入る。

同記事は554年新羅の函山城に攻め入るも、伏兵によって聖明王は戦死します。

(11)二十三年春正月条

新羅、任那の宮家を滅亡させる。

同記事は562年の出来事です。

 

次回は「欽明天皇」(2)です。

 

 

 

 

 

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