謎の女神シリーズ 第十二話「壱与(2)」

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はじめに

「壱与」の出生地について故百嶋氏は語っていませんが、母は天細女後の豊受姫と述べています。

同氏が作成された「神々の系図-平成12年考」を熟視すると別名に「大目姫」があります。

私は若き頃奈良県橿原市に四年間居住し、近くの神社巡りとヘラブナ釣りを趣味としていました。

偶然、近鉄橿原線新ノ口(にのくち)駅近くの「十市御縣坐(とおちみあがたにます)神社」に参拝しました。

「縣」にわざわざ「御」を冠する神社名に興味を抱き、「ご祭神は豊受大神」と確認しました。

社伝によると『記-孝霊天皇記』にみえる「十市縣主の祖大目をご祭神とする」とあります。

「謎の女神壱与」を記述するにあたり、過去の記憶が鮮明に甦りました。

 

1.壱与の出生地

卑彌呼の「嫁さんの取り替え政策」により、母の天細女は夫の天忍穂耳命(当時の名は級長津彦)と別れ、彦火々出見命を新しい夫に迎えました。

格式は天細女が夫の彦火々出見命より圧倒的に高く、妻の支配する「豊前香春(かわら)」に赴任します。

天細女は名を「大目姫、夫の彦火々出見命は大目彦」に改めました。

「大目」の名の由来は不明ですが、現代でも「大目に見る」という言葉から「夫の寛容性のある広い心」かもしれません。

豊前香原で、大目彦夫婦の第一子宇麻志麻遅命は出生したと推測されますが、大目彦夫婦は多忙です。倭国は基盤の九州だけでは、支配下の豪族達を養うことが出来ません。そのため、倭国の支配地拡大路線にしたがって、大目彦夫婦は東方へと進出します。

向った地は大和の磯城郡(現在の奈良県橿原市)でした。

公益財団法人今西家保存会(橿原市今井町)が保存する「磯城津彦命系譜」には、

「第七代孝霊天皇の皇后細媛命について、十市縣主大目女(=大目姫)の娘」とあります。

『記―孝霊天皇記』は「孝霊天皇、十市縣主の祖、大目の娘、細比売(くわしひめ)を娶る」とあります。

注)磯城津彦(安寧天皇、本当の天皇ではありません。白族統領大幢主です。)

思い出した記憶と以上から、壱与は「磯城の地」で出生したと推測します。

 

2.卑彌呼政権が倒れた理由

最も大きな理由は「倭国大乱」ですが、それだけではありません。

(1)気候の寒冷化

下記の図表をご覧ください。

2世紀半ば頃から寒冷化が始まり、一説では西暦180年頃が寒冷期のピークであったとしています。

寒冷化で最も打撃を受けたのが「稲作栽培」です。

その結果、弥生時代の後期遺跡として知られる三雲南小路・井原鑓溝遺跡は突然放棄されました。

同地は伊都国王金山彦が支配する地域でした。

彼ら一族は新天地を求めて移動を開始し、邪馬壹国の親衛隊は消滅しました。

残ったのは朝鮮半島との交易を担う一族、後の蘇我氏です。

図表 屋久杉が語る日本の気温推移

出典:石谷ら鹿児島県環境情報センター所報 第6号資料49~54頁

(2)大量の樹木伐採による環境破壊

当初容器として用いられた甕は、大型甕棺へと変貌し、火力となる木材の需要は大幅に増えました。

また、鉄器増産により、その火力となる木材を大量に伐採し、はげ山と成り、保水力を失った山は洪水を引き起こし、稲作栽培に被害をもたらしました。

実は、朝鮮半島の南部・中部も鉄器増産によってはげ山だらけになりました。

金山彦は実情を調査するために、被官の爾支(にき)後の彦火々出見命を朝鮮半島に派遣します。

おそらく金山彦は調査結果に驚き、絶望したと推測されます。

この経緯を『紀』が記す「五十猛命(=彦火々出見命)による、朝鮮半島の樹種(こだね)を持ち去った」という伝説です。

五十猛命は林業知識を習得し、後に「林業の神」として称えられ、「紀ノ國一宮伊太祁曾神社の主祭神」として祀られています。

空海は以下の言葉を遺しています。

「森は、人の世はもちろん天上の世界よりも美しい。」

 (3)卑彌呼を含む大率姫氏(きし)一族は邪馬臺国に逼塞

中国史書が記す「暦年主なし」、すなわち無政府状態です。

 

3.壹与は「鬼道で女王に即位したのか」

倭国大乱が終息したといえ、13歳(満年齢では12歳)の少女が「倭国女王」の座は重すぎます。

高齢の卑彌呼には行動力に限界があり、誰かに頼ったはずです。

おそらく、当時の最大の実力者豊玉彦を頼ったと推測します。

豊玉彦は、「喧嘩をしたけれども、これからも倭国を盛り上げていく」ための方策を思案したと推測します。その思案とは

(1)卑彌呼の後継者を誰にするか。

豊玉彦は父大幢主の隠し子「彦火々出見命こと饒速日命」に注目します。

卑彌呼の隠し子でもある彦火々出見命こと饒速日命を卑彌呼の実子として認めさせる協力者が必要です。最適な人物は豊玉彦の娘豊玉姫です。

豊玉姫らの協力もあり、卑彌呼は彦火々出見命こと饒速日命を実子として認めます。

彦火々出見命こと饒速日命は倭国の実力者である白族・瀛氏・昔氏の各統領に仕え、統治能力に秀で、かつ軍団をまとめる能力にも長けていたので、卑彌呼の孫「稚日女命(わかひるめのみこと)後の壹与」を倭国女王として即位させたと推測します。

この政治的配慮に反対勢力は特になかった推測されます。

(2)首都の移転と防衛体制の強化

①首都「邪馬壹国」から「大宰府」へ移転。

②防衛体制の強化

大乱の度に逼塞しているようでは、民の信頼を得られないことを反省。

ア.防衛力を強化するため「第一次水城の構築」

イ.二つの物部軍の創設と阿蘇族の監視

大水口物部軍  将軍は壹与の実兄宇麻志麻遅命

大矢口物部軍  将軍は味耜高彦根命別名ウガヤフキアエズ

両名の父は彦火々出見命

ウ.阿蘇族の監視

壱与の義兄御年神(父は天忍穂耳命)が就任

図 「水城の構造」   出典;大宰府魅力発見塾

Wikipediaによると水城の構造は三層から成り、最下層は西暦100年頃、次の層は西暦300~500年頃、最上層は西暦510~730年頃。

 

(3)大率姫氏の処遇

神武天皇による皇后下賜、また懿徳天皇皇后簒奪事件を反省し、懿徳天皇の嫡男後の孝霊天

皇を直接壱与の補佐役には就任させず、様子を見たと推測します。

(4)彦火々出見命を凌ぐ海幸彦こと天忍穂耳命への処遇

天忍穂耳命を卑彌呼の養子として迎え入れる。『記紀』が記す瓊瓊杵尊の元ネタと推測しま

す。

天忍穂耳命は軋轢を避けるため九州から転出。

 

4.西暦211年 壱与孝霊天皇の皇后となる。

ようやく統治体制が整ったのを機に、当初の計画通り壱与を孝霊天皇の皇后とし、

女王統治体制から本来の大率姫氏の統治体制」に改めました。

また、「倭国大乱や寒冷化」によって疲弊した農民に対する税制を「「五公五民から四公六民

に改めます。

発案者は彦火々出見命で、伏見稲荷大社が祀る「四大神(しのおおかみ)」として祀られるていま

す。

善政を敷いた孝霊天皇によって「国家安寧・五穀成熟」の世の中となりました。

孝霊天皇は先代の神武・懿徳天皇とは違い、皇后細媛を大切に扱い、また、皇后の実兄・義兄を重

用し、政治の安定化を実現したようです。

 

5.孝霊天皇の御子

(1)皇后細媛命との御子

『紀』は大日本根子彦國牽天皇(孝霊天皇)

故百嶋氏説では、他に伊予皇子

(2)妃倭國香媛別名ハエイロネ

『紀』は倭迹々日百襲姫命(やまととひももそひめのみこと 孝元天皇皇后)

彦五十狭芹彦命別名吉備津彦(桃太郎伝説の主人公)・倭迹々稚屋姫命

故百嶋氏説も同様です。

(3)ハエイロチの妹ハエイロネ

『紀』は彦狭嶋命・稚武彦命(吉備臣の祖)

故百嶋氏説では吉備武彦一人としています。

 

6.西暦228年第二次九州王朝御神霊東遷護送船団の実施

故百嶋氏のメモによると孝霊天皇50歳の時で、第一次と同様の経路をたどり、目的地は天理市の新和泉です。船長は49歳の鴨玉依姫(かもたまよりひめ)、梶取は椎根津彦(しいねつひこ)と記しています。

「古代史シリーズ」では、故百嶋氏のメモを尊重して記述しましたが、後に精査すると12年ずれており、孝霊天皇50歳、49歳賀茂玉依姫に訂正します。

併せて、行路は第一次九州王朝御神霊東遷護送船団とは違い、日本海航路に訂正します。

(1)伯耆(ほうき)国への進出

①妻木晩田遺跡(鳥取県西伯郡大山町・米子市の一部を含む)

鳥取県西伯郡大山町に広がる「妻木晩田遺跡(むぎばんたいせき)」は156haにも及ぶ大規模弥生遺跡です。

同遺跡は大山山系孝霊山(標高751㍍)から続く丘陵上(標高90~150㍍)に位置し、美保湾が一望できます。

特徴は「高地性集落」で、機能別(住居・倉庫・広場・祭殿・有力者の館など)に集落が形成されていることが一目でわかります。

居住地域からは、300点を超える鉄器が工具・農機具を中心に発掘され、日本海側では群を抜く多さです。

また、鍛冶炉と考えられる竪穴式住居面の焼土面も存在しています。

②進出目的

伝説に依れば、同遺跡の征服者を孝霊天皇とし、楽々福(ささふく)神社周辺を仮宮とし、11年間とどまったとしています。

この伝説が事実だとすれば、孝霊天皇は伯耆国を直轄領に組み込んだと推測されます。その目的は、山陰地方の「真砂砂鉄」・中国山地の「鉄鉱石及び赤目砂鉄」や大陸からの鉄鉱石の集散地として、美保湾を望む同地を最適地として進出したと推測されます。

伯耆国を完全に統治するためには現地の抵抗勢力を抑える軍事力が必要でした。

この軍事力を構成したのが、孝霊天皇の御子の若建吉備津彦・彦狭島命兄弟と樂々福(ささふく)神社摂社に祀られている「物部宗家大水口ウマシマヂ並びに大矢口ウガヤフキアエズ」軍と推測します。

この武力を背景にして、孝霊天皇が企図したのは「鉄器(工具・農機具・武器)生産」で、円滑な生産力を確保するため機能的な集落を形成していったと推測されます。

写真  樂樂福神社 島根県日野郡日南町宮内 出典:同社HP

ご祭神:孝霊天皇・細媛命・若建吉備津彦命・福媛命ほか

写真 「樂樂福神社」由緒略記

摂社 若宮神社に注目すると皇后細媛の出自を「磯城郡縣主大目命(皇后細媛命の御父神 鬱色雄命・大矢口宿禰命・大矢口宿禰命 孝霊天皇に随従された当地方の開拓に功績を残された大神様)とあります。

(2)近江国へ進出

詳しくは“古代史シリーズ”「第四十八話孝霊天皇(3)」をご覧ください。

(3)目的地「大和(おおやまと)神社」

大和神社 奈良県天理市新泉町星山

ご祭神;中殿 日本大国魂神(神武天皇後に孝霊天皇を追祀)

左殿 八千戈大神 右殿 御年大神

社伝によると(藤原氏に贈られた)孝昭天皇(天忍穂耳尊別名大年神)の御代

に創祀されたと伝えています。

 

7.稚日女尊(わかひるめのみこと)の巡幸地

稚日女尊は皇后細媛命の別名です。

女王卑彌呼即位前の名は“大日孁貴(おおひるめむち)”です。

両者の名に共通項が見えますね。「日の女神」です。

壱与を祀る神社を調査すると数社が発見できましたが、いずれもご祭神を壱与と確定できません。

他方、稚日女尊を祀る神社を調査すると以下の三社が該当します。

玉津島神社  和歌山市和歌浦中3丁目

ご祭神:稚日女尊・息長足姫尊・衣通姫尊。

当初は稚日女尊一坐と伝えられています。

香良州(からす)神社 津市香良州町

主祭神:稚日女尊  配祀神:御歳神

義兄の御歳神が護衛のため随伴したのかも知れません。

生田神社  神戸市中央区下山手通

主祭神:稚日女尊

由緒では天照大神の和魂(にぎたま)とも妹神ともと伝えられています。

 

写真 玉津島神社社殿内    出典:玉津島神社・鹽竈神社公式サイト

昭和48年に参拝したことを覚えています。目的は高台から「紀淡海峡」を眺めることでした。当時は民宿が安く料理も豪華だったことを今でも忘れられません。

画像 「稚日女尊」肖像画   出典:生田神社公式サイト

 

おわりに

博多駅には「博多人形の卑彌呼像」が飾られています。

故百嶋氏は「壱与像」と指摘しています。

『紀-神功皇后摂政紀十九~五十二年』の記事に、千熊長彦将軍を朝鮮半島に派遣し、新羅を撃破し、安羅を含む七国を平定したとあります。

故百嶋氏は「千熊長彦とは壱与の実兄宇麻志麻遅命」としています。

『紀―神功皇后摂政紀十九~五十二年』に登場する百済・新羅は『三国史記』の記事とは違い、まだ建国されていません。百済は当時、中国史書では「伯済」と呼ばれていました。

「水城」が博多側に向いている理由は、朝鮮半島を警戒していたからです。

倭国の最大友好国かつ強国の「金官伽耶国」は次第に疲弊化し、他国の侵入に悩まされ、倭国に軍事面の求援を求めました。

この求援要請を受け、西暦209年倭国は「大水口物部軍」を派遣します。将軍は宇麻志麻遅命です。

救援軍が加わり、金官伽耶国軍は劣勢を挽回し、安羅を含む七国を平定します。金官伽耶国は迅速果敢な大水口物部軍の行動に感謝し、重臣久氐を通じて「七支刀・七子鏡」を将軍宇麻志麻遅命に贈りました。

将軍宇麻志麻遅命は帰国後、壱与に金官伽耶国からの献上品として七支刀・七子鏡を渡したと推測します。

したがって、博多駅に飾られているのは卑彌呼ではなく、「七支刀を持つ壱与」と考えられます。

『日本書紀』は、宇摩志麻遅命の名を消し、「神功皇后紀」が記す千熊長彦(ちくまながひこ)に改変しています。

図 三世紀前半の朝鮮半島勢力地図 出典:故百嶋氏作成図に古川清久氏が加筆

 

写真  博多駅の「卑彌呼像」 出典:写真満載「JR博多駅」

制作者 川崎 幸子氏

故百嶋氏は「「卑彌呼像ではなく壱与像」と指摘しています。

左手に 「七子鏡」がないのが残念ですね。Wikipediaによるとボストン美術館に収蔵されている七子鏡には「上部から中央部にかけて七つの突起、学術用語では”乳“と呼ぶそうです。」があります。

 

次回は「第十三話 天之御中主」です。

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