お稲荷様を考察する

「お稲荷さま」を考察する

安城市 山田 裕

はじめに

 国の神社の中で最も多いと言われているのが稲荷神社です。総本社は京都の伏見稲荷大社で、ご祭神は御魂(みたま)神(かみ)で、大宜津比売(おおげつひめ)・保食(うけもちの)神(かみ)とも称されています。

 本来は一座の神と思われるのですが、総本社の伏見稲荷大社では以下の五座の神が祀られています。

 本殿

  下社 宇迦之(うかの)御魂(みたま)神(かみ)

  中社 佐田彦大神

  上社 大宮能売(おおみやのめ)大神

 摂社

    田中社(田中(たなかの)大神(おおかみ))・四(しの)大神(おおかみ)

 どのような経緯で一座から五座に至ったかを同社に関わる文献史料から辿ってみると共に五座の神々について検証を試みたい。

文献史料

(1)奈良時代前

○『山城國風土記』逸文

 「“伊奈利”と称する所以は、秦中家伊忌(はたなかついむき)寸などの遠い祖先の秦氏族“伊呂具”は稲作で裕福であった。餅を的にして矢を射ったところ、餅が白鳥に変貌して飛び立ち、この山(稲荷山)に降りて稲が成ったことから社名とした。」

○「稲荷神鮭神主家大西(秦)系図」

 『秦(はた)公(きみ)、賀茂(かも)建(たけ)角(づぬ)身命(みのみこと)二十四世賀茂縣主、久治良ノ末子、和銅四年(704)二月壬午稲荷明神鎮座時禰宜トナル、天平神護元年(765)八月八日卒。』

 賀茂建角身命を秦公の祖先神としていますが、賀茂建角身命は賀茂御祖(みおや)神社(通称下賀茂社)で玉依姫と共に主祭神として祀られ、山代の賀茂氏の(賀茂縣主)の始祖とするのが通説で、秦公の祖先神であるとは考えられません。

 『新撰姓氏録』によれば、「賀茂建角身命は神魂(かもすの)命(みこと)の孫で、神武東征の際、髙木神・天照大神の命を承けて日向の錐の峰に天降り、大和の葛城山に到り、八咫烏に化身して神武天皇を先導し、金鵄(きんし)として勝利に貢献したとある。」茲で重要な点は賀茂建角身命=八咫烏.と云う伝承が存在した点にあります。

 『出雲国風土記』が記す神魂命は『古事記。以下『記』と略す』が記す神産日神、『日本書紀、以下『紀』と略す』では神皇産霊神と同一神であるとの通説が敷衍し、神魂命=神皇産霊神となります。また、上記二史料から秦氏と稲荷神との関連はうかがえず、秦氏が和銅四年から稲荷社の社家として禰宜に就任したことが確認できます。

(2)平安時代

○「延喜式」神明帳

 延喜五年(924)にまとめられた「延喜式」神明帳頭註に「稲荷」山城国紀伊郡とある。

 本社 倉稲魂神(うかのみたまかみ)也 此神素盞鳴女(むすめ)也 母大山祇神女大市姫(おちひめ)也

 ご祭神は、父スサノオ母大市姫との御子倉稲魂神一座と認識されていたようです。倉稲魂神の読みについて『紀-神代上第五段一書第七』に「倉稲魂神此れを宇介能美陀磨(うかのうみたま)と云う」と記しています。

 博多の櫛田神社の元宮とされる佐賀県神埼市神崎の「櫛田宮」の摂社櫛守稲荷神社のご祭神は以下の通りです。

 倉稲魂命・大宮女命・猿田彦命

 社伝によれば、「景行天皇が当地に巡行した折に、不幸が続き、住民が苦しんでいると聞き、当社を建て、神を祀り鎮めたのが発祥』としているので、古代から倉稲魂命は「稲荷さま」として崇めていたようです.倉稲魂命・大宮女命・猿田彦命との関係は不明ですが、おそらく血縁関係であったと推測されます。

○「延喜式」大殿(おおとの)祭(ほがい)祝詞(忌部氏)

 同祭は「屋船久久遅命木の霊、屋船豊宇気姫命の霊属に宇賀能美多麻・大宮賣」の三神を祀って皇御孫命の住居である宮殿の平安を願い、大御身の平安と御代の繁栄を希求する祭です。」

 後代の注記では、「これ船の霊なり。世に宇迦之と云う」とあり、屋船豊宇気姫=宇迦之御魂神とする認識があったようです。

 屋船豊宇気姫が尿から派生した御子神と『記紀』は記していますが、格式の高い伊勢神宮外宮・廣瀬大社のご祭神として祀られ、また伊勢神道の渡会氏は外宮の「豊受大神」を内宮の「天照大神」よりも上位に置いていた事実から照らし合わせると.豊受姫に関する『記紀』の記述は重要なレトリックが隠されているようです。また、神道界の勢力地図の変遷が、本来の神を移座したとも考えられます。

 忌部神道は奈良時代以降、藤原氏による中臣神道によって、その勢力が衰え、伊勢神道の渡会氏は朝廷が南北朝に分立した際に南朝側についたことにより躓き、室町時代になると吉田兼倶(よしだかねとも)ガ興した吉田神道に圧迫され、その勢力が衰微した経緯があります。

 屋船久久遅命について、『記-神々の生成』で、「伊弉諾と伊弉冉との間に生まれた木の神・久久能遅の神」と記され、『紀-神代上第五段一書』では、「木神等を句句廻馳(くくのち)」と記していますが、豊受姫と関連する記述はありません。

 久久能遅神を祀る西宮市山口町の公智神社のご祭神は主祭神:健速須佐之男神 配祀神:久久能智神・櫛稲田姫命スサノオと櫛稲田姫について、『記紀』夫婦神と記しており、同社の配置は平仄が合いません。本来は「主祭神:久久能智神 配祀神:健速須佐之男神・櫛稲田姫命」と考えられます。大宮女

 神については後述します。

○『伊呂波字類抄-稲荷条』 平安時代末期に橘忠兼が表わした国語辞典

 下宮:田中 名宮:命婦(みょうぶ) 上宮:小薄(おすすき)

 小薄神の「小薄は狐」の意と解釈されていますが、本当のところはわかりません。

(3)鎌倉時代

○『古事類苑-神祇部六十八』

 稲荷神社 山城国紀伊郡深草村稲荷山山麓ニアリテ倉稲魂命素盞鳴命大市媛ヲ祀ル

○『神祇拾遺-稲荷社本縁』

 本殿  宇迦御魂神父大地主素盞鳴 母大山祇女大市姫又豊受 傳有此

 第二殿 素盞鳴命

 第三殿 大市姫 已上秘秘中甚深事也

 中社  大己貴命

 四大臣五十猛命・大家姫・枛津姫・客人(まろうど)大歳(おおとし)神(かみ)

○『神祇拾遺-稲荷社本縁』(鈴鹿本)

 本殿  宇迦御魂父大地主素盞鳴母大山祇女大市姫 又豊宇気 傳有此

 第二殿 素盞鳴命

 第三殿 大市姫亦大宮命婦ト云ウ

 田中社 大己貴命

 四大神 五十猛命・大屋姫・枛津姫・客人大歳神

 同書には、弘長三年(1263)田中社・四大神の二坐を加え五坐とされたとあり、いかなる経緯で祀られたかは不明です。

 同書で特に興味深いのが「大市姫を秘中の秘」としている点です。伏見稲荷他社の伝承では「本来の稲荷神が大市姫」であったことがうかがえます。

 命婦とは、天平元年(747)に施行された「養老律令職員令-中務条」に五位以上の官人の妻のことを外命婦というとある。ただし、命婦は官職ではなく所属官司の職掌に奉仕する地位でした。命婦の奉仕する対象は内侍司(ないしつかさ)の務めで、天皇の儀式或いは神事に限定されていました。

 ところが、古代において命婦は側室の意でした。スサノオの正妃は瀛氏統領金山彦の嫡女櫛稲田姫で、スサノオの娘大市姫は二番目の妃であったようです。したがって、大市姫は側室の意である「命婦」と呼ばれていたと考えられます。

 「田中神」については後述します。

 「四大神」のうち、五十猛神・大屋姫(またのな大屋津姫)は『紀-神代上第八段一書第四』にいずれもスサノオの御子とし、五十猛命を「樹種の神、紀伊国に坐す大神」、大屋姫・枛津姫は「樹種を全国に分布した女神」と記しています。

 「客人神大歳神」について、『記』並びに『出雲国風土記』はスサノオの御子神と記しています。

○『諸社根元記-稲荷条』

 下社  大宮命婦

 中社  大宮 四大神

 上社  客神十禅師

○『神道五部書』

 外宮神道、渡会神道の根本経典。鎌倉時代中期(1186~1333)に成立した書。同書には、内宮と外宮の主な社殿と祭神が記されています。同書の一つである「伊勢二所大神御鎮座伝記」では、内宮について「御倉神の三坐は、素盞鳴の娘宇迦之御魂神なり。また専女(とうめ)とも三(み)狐(つけ)神(かみ)とも名づく。」と記されています。

 外宮についても「調(つきの)御倉(みくら)神(かみ)は、宇迦之御魂神におわす。これ、伊弉諾・伊弉冉二柱の尊の生みし所の神なり。また、大宜(おおげ)都(つ)姫(ひめ)とも号す。また、保食(うけもち)神(かみ)とも名づく。神祇官社内におわす御膳(みつけ)神(かみ)とはこれなり。また、神服機(かんはとりはた)殿(どの)に祝い祀る三狐神とは同坐の神なり。故に専女神とも名づく。斎王専女とはこの縁なり。また、稲の霊をも宇迦之御魂神におわして西北方に敬いて祭り拝するなり。」と記しています。

 「専女」は平安時代の紀貫之による紀行文『土佐日記』では「老女」と記しています。

 以上から、宇迦之御魂神=大宜都姫=保食神=専女=三狐神=御膳神との説を展開しています。

(4)室町時代

○『吉田家神道書』

 神祇次官吉田兼倶(よしだかねとも)が顕わした「神名頭註-伏見稲荷条」で、「本社 宇迦之御魂神也.此の神は素盞鳴の娘なり。母は大市比売なり。宇迦之御魂神は百𧏚を播きし神なり。故に稲荷と名づくか。伊弉諾の御娘にこの名これあり。」と記していますが、『記紀』ともにそのような記述はありません。吉田兼倶は宇軻之御魂神を伊弉諾の御娘と断定した根拠は奈辺にあったのでしょうか。

○『二十二社註式-伏見稲荷条』

 神祇次官吉田兼(よしだかね)右(みぎ)が顕わした書。

 下社 大宮女命 伊弉冉の娘罔象女

 中社 稲倉魂命神 一名豊宇気姫命 廣瀬大明神 伊勢外宮

 上社 猿田彦命

 吉田兼右は大宮女命=罔象女とし、同様に稲倉魂命神=豊宇気姫命としています。

 大宮女は大宮姫・大宮能売とも表記され、大同二年(807)に成立した齋部広成による『古語拾遺』では、天太玉命の御子神としています。

 天太玉命について、『記紀』両書では「アマテラスの岩戸隠れ」と「ニニギノミコトの天孫降臨」に登場しますが、大宮女命との関係は記されていません。

「百嶋神社考古学」

 文献史料を検索すると「倉稲神・大市姫・大宮女」の解釈が錯綜を極めています。また、田中神・四大神の解釈については、匙を投げているようです。

 「稲荷さま」の解釈を巡っては、「神社考古学」に六十年を捧げた故百嶋雄一郎氏が作成された「神々の系図―平成12年考」と同氏の講演採録されたDVDに重要な示唆が含まれているので検証を試みたい。

(1)大市姫

 大山祇神またの名月読命と瀛氏統領金山彦の妹草野(かやの)姫(ひめ)(鹿屋野姫とも表記)との間の御子神で、またの名に水神罔象女・龍神姫・伊和野姫等がります。大市姫ことまたの名罔(みず)象女(はのめ)は全国各地の神社で祀られていますが、『記紀』は伊弉冉が体調を崩した際に尿から生まれた神として矮小化されているのとは対照的です。

 スサノオの妃で命婦とも呼ばれました。二人の間の御子神に辛国息長大姫またの名志那津姫・大目姫・天細女命・豊宇気姫(伊勢外宮祭神)が生まれました。

(2)倉稲魂神

 故百嶋氏は「倉稲魂神は大市姫」であり、またの名を罔象女・龍神姫としています。娘の「豊宇気姫は女鍛冶神」と呼ばれ、稲作増産を可能にした農業鉄器(鋤・鍬など)生産の熟練者であったと故百嶋氏は指摘されています。

 倉稲魂神こと大市姫も娘と同様な側面を有していたのかもしれません。

 大市姫の活躍時期は、弥生時代末期1世紀半ば以降、急速に発展した稲作文化時期に符合します。民は稲作増産による備蓄米や余剰米を貯蔵するための「倉」を建て、「倉」から搬出した余剰米は「物々交換をする場、すなわち市」で交易され、此の市が「交易の中心地」として発展し、終には「大きな市」が形成されたと考えられます。すなわち、「市場経済の萌芽」です。

 倉稲魂神こと大市姫は、「稲作文化の功労者」として後に民から「倉稲魂神であり、商業発展の神」として崇められたと考えられます。

(3)大歳神(大年神とも表記される)

 『記』では、ウカノミタマ神の弟神として、皇統や支配神でもない神ですが、神裔が記される珍しい神です。同神を祀る神社は「平成祭データ」で検索すると全国に734社で、最密集地域は兵庫県で434社あります。同神社の由来については神亀年間(724~729)に伊勢の伊(い)雑宮(ざわのみや)から勧請されたとする神社が多くあるようです。

 故百嶋氏は.草部(かやべ)吉見(よしみ)こと大歳神のまたの名を海幸彦・天児屋根命・天忍穂耳命・志那津彦・安日彦など多くの名で呼ばれていました。スサノオの娘辛国息長大姫の娘婿となり、名を志那津彦に改め、二人の間に生まれたのが御年神で、またの名を拝跪神。『記紀』編纂者によって天皇名を贈られた贈孝昭天皇です。

 大歳神こと海幸彦は、『記紀-海幸彦・山幸彦神話』では、後に山幸彦の従僕になるなど、散々の態ですが、多くの神名を持つ偉大な神として日本各地の神社で篤く崇敬されています。一例を挙げれば、またの名天児屋根命は全国の春日神社で祀られていますが、后の志那津姫こと天細女(伊勢神宮外宮さまこと豊宇気姫)は、何故か名前を秘され、「比賣神」として祀られています。

 皮肉なことに、吉田神道の吉田家は天児屋根命を祖神とし、中臣神道の中臣氏は海幸彦こと武甕槌命を祖神としています。

(4)屋船久久遅命と屋船豊宇気姫

 三重県伊勢市宇治の「猿田彦神社」の主祭神は、猿田彦大神と天宇受賣(あまのうずめ)命です。同社境内には、天宇受賣命を祀る「佐留女(猨女とも表記される)」神社が本殿に向かい合うように建っています。此の配置からもわかるように「猿田彦大神と天宇受賣命(=佐留女)は夫婦神」であることが確認できます。

 『記紀-海幸彦・山幸彦神話』が記す山幸彦と猿田彦は同一神と、故百嶋氏は指摘されています。山幸彦こと猿田彦大神も海幸彦と同様に多くの名で日本各地に祀られています。またの名には饒速日命・彦火々出見命・五十猛神・経津主命などがあり、そのうち五十猛神について、『先代旧事本紀』は「林業の神」、『記』は「木の神 久久能遅の神」、『紀』では「木神等を句句馳」と記しています。

 したがって、ご神格から「五十猛神=久久能遅の神=句句廻馳が同一神」で有ることが確認できます。

 スサノオの娘天宇受賣命こと豊宇気姫は、海幸彦こと大歳神と別れた後に、山幸彦こと猿田彦大神を入り婿に迎え、二人は「屋船久久遅命と屋船豊宇気姫」として崇められました。

(5)大宮女命

 故百嶋氏は「大宮女命は豊玉姫」と指摘しています。ただし、豊玉姫が何故大宮女命と呼ばれたのかは不明ですが、その元凶となったのが京都府京丹後市大宮町周枳の「大宮売神社」で主祭神は「大宮賣神」です。

 なぜ「稲作とは関わりのない豊玉姫」が稲荷社で祀られたのでしょうか。確かな理由は不明のままですが、故百嶋氏は「伏見大社の中心は豊玉彦」と述べています。つまり、伏見稲荷他社のご神域そのものが豊玉彦であったと考えられます。

 豊玉彦は、古代の山代国の支配者でもありました。

 「神々の系図-平成12年考」によれば、豊玉姫は父豊玉彦、母萬(よろず)幡(はた)豊(とよ)秋津(あきつ)姫(ひめ)との御子神」としています。

(6)田中神

 文献では全く不明な神です。故百嶋氏は「開化天皇」としています。理由として「祇園祭」を初めて行われた方で、伏見稲荷大社の後援者と述べられています。

(7)四大神

 「田中神」と同様に文献では全く不明です。故百嶋氏は「四大神は猿田彦」としています。四大神とは「五公五民の納税政策を四公六民に改めた神、猿田彦」と述べられています。

 民は税負担が軽減されることにより、その効果は「一層、稲作増産に務め」、「民の生活は豊かになり、生産人口増加」に現れ、民はこれを称えて「猿田彦を四大神」として崇めたようです。

(8)小薄神

 同神「老狐=老女」の意と考えられ、「大市姫」が最もふさわしいと思われます。

(9)佐田彦大神

 「佐田彦大神と佐田大神は全く別人の神様」ですが、誤解している人も多くみられます。「佐田彦大神=猿田彦大神」、「佐田大神=大山咋神・日吉さま」です。伏見稲荷大社が祀るにふさわしい神様は「佐田彦大神=猿田彦大神」です。

まとめ

 現在、伏見稲荷大社で祀られている五坐の神々は以下のとおりで、「百嶋神社考古学」からの検証も同様でした。

 本殿 下社 宇迦之御魂神(=大市姫)

   中社 佐田彦大神(=猿田彦大神)

   上社 大宮能女大神(=豊玉姫)

class=”green”> 摂社 田中大神(=開花天皇)

class=”green”>   四大神(=猿田彦大神)

おわりに

 私は、現在住む安城市に腰を落ち着けるようになったのは、つい6年前です。元々、神社に興味があり、地元の神社を巡っていて、聞こえる話は、「昔から○○様を祀っているのに、●●委員会が××様に変えてしまった。」或いは「▲▲庁により本来の神様を伊弉諾・伊弉冉様に変えられてしまった。」の二通りです。その話を聞く度に「神社が建立された地の歴史や全体像を考察すること無く、また『記紀』に一行も記述されていないのにも拘わらず、『記紀』が記すヤマト王朝一元史観に基づく類推を根拠に説明する手法」には驚くばかりです。

 今後は、微力ですが、地元神社のご祭神」の研究を重ね、いつか「発信」できればと思う次第です。

【参考資料】
『古事類苑-神祇部』
『日本書紀上岩波書店』
『古事記-角川書店』
国立国会国図書館デジタルコレクション
故百嶋由一郎氏作成「神々の系図-平成12年考」

タイトルとURLをコピーしました