謎の女神シリーズ 第十三話「天之御中主」

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キーワード

○天之御中主とは

○鉄を求めて

○天之御中主と出雲大社との関わり

○天之御中主は単独行動へ

○天之御中主の別名白山姫を祀る神社

 

はじめに

 天之御中主は『紀』には登場しませんが、『記』では造化三神”の筆頭神”としています。

また別(こと)天つ神では、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこちのかみ)と天常立神をそれぞれ独り神とことわっています。

『紀-神代上 第一段』一書第六で天常立尊として登場します。

『先代旧事本紀』巻第一“神代本紀”では、「天之御中主と天常立神は同一神」としています。

おそらく『紀』が記す“天神七代”よりも古い神様と推測されます。

『記紀』は同神に関する事跡の記述は全くありません。

不思議とは思いませんか。

 

表1.『古事記』

神名 百嶋神社考古学」説
造化三神

 

天之御中主(あめのみなかぬし)  女神

高御産巣日神(たかみむすひかみ)    男神

神産巣日神(かみむすひかみ)  男神

別名白山姫・菊理姫(くくりひめ)など

 

高木大神(ニニギノミコトの父)

 

大幡主別名思兼神

別天つ神 宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこちかみ)

男神

天常立尊(あめのとこだちのみこと)    女神

金越智(きんおち)

 

 

天之御中主

 

表2.『日本書紀』

神名 「百嶋神社考古学」説
天神七代 第一代 國常立尊(くにとこだちのみこと) 男神

第二代 國狭槌尊(くさづちのみこと)   男神

 

第三代 豊斟渟尊(とよくむのみこと)   男神

第四代 泥土煮尊(うへぢにのみこと)  陽神

沙土煮尊(さへぢにのみこと)  陰神

 

第五代 大戸之道尊(おおとのじのみこと) 陽神

大戸門辺尊(おおとまべのみこと) 陰神

第六代 面足尊(おもたるのみこと)   陽神

偟根尊(かしこねのみこと)   陰神

第七代 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)  陽神

伊弉冉尊(いざなみのみこと)  陰神

 

 

大幡主(おおはたぬし)またの名大若子命

金山彦またの名軻遇突智神・事解之男

神・火産霊神・気吹戸主など

豊玉彦またの名小若彦・八咫烏など

 

素戔嗚尊

櫛稲田姫またの名瀬織津姫

 

 

素戔嗚尊

櫛稲田姫

 

 

金山彦

埴安姫別名草野(かやの)姫

新羅第九代伐休尼師今

熊野夫須美神(くまのふすびのかみ)

 

1.天之御中主とは

歴史学会では同神を日本の神ではなく、朝鮮半島から渡来した神とする指摘がありますが、『三国史記』や『三国遺事』を何度読み込んでも、彼らの主張に繋がる記述は見当たりません。神道学会も同様に同神の研究論文は管見に見当たらないのが現状です。

「百嶋神社考古学」説では、何代目かは不明ですが父は先代白川伯王、母は不明です。夫は金海伽耶(学術用語では金官伽耶)国王“金越智”日本名は宇摩志阿斯訶備比古遅、御子は月読命後の大山祇命(おおやまづみのみこと)と越智姫としています。

当代の白川伯王は天之御中主の実弟で奴国王でもあります。

出生地は古代の“奴(ぬ)国”、現在の福岡県福岡市南区周辺と推測されます。

故百嶋氏が作成された「神々の系図-平成12年考」を熟視すると当代の白川伯王を刺国大神(太政大臣)とあります。

手元の『新漢和中辞典―三省堂』によると、「刺国の刺は“察”の意で、転じて国をよく観察する大神」という意味と推測します。

Wikipediaによると太政大臣の初見は天智10年(671年)、天智天皇が後継者大友皇子を任命したのが嚆矢(こうし)とするのが通説です。

律令政治以前から「太政大臣」という官職が倭国には存在したようです。

おそらく当代の奴国王白川伯王が大率姫氏“師升”に政権を禅譲し、補佐役として太政大臣に就任したと推測されます。

当代の白川伯王は、天之御中主を狗耶官国(以下、任那と記す))に派遣します。目的は友好国の金官伽耶国王金越智(日本名は宇摩志阿斯訶備比古遅)との政略結婚です。その時期は西暦119年頃と推測します。

この政略結婚により、両国の往来は頻繁になっていきます。

金越智は妻天之御中主がもたらす倭国の諸情報から倭国への関心が募っていきます。

金海伽耶国王金越智には、憂鬱がありました。

それは、同国の経済基盤である鉄の産出に陰りが見え、それに伴って鉄器生産も減少、木材の乱伐により熱源の木材は供給不足に陥っていました。

この状況を克服するために、金越智は新たに倭国での鉱山開発を進めるため、国王の座を退位し、御子の月読命を現地に遺し、妻天之御中主と多くの部下を連れて倭国に渡来したと推測します。

図 故百嶋氏作成の「神々の系譜-平成12年考」

2.鉄を求めて

日本列島は、ニュージーランド・カナダとならんで世界三大砂鉄の産地ということをご存知で すか。

金越智・天之御中主夫妻は、先ず現在の福岡市を目指します。福岡市は古墳時代~奈良時代まで鉄の一大産地でした。

ところが、現地には先駆者伊都国王金山彦が支配していました。

そこで、金越智・天之御中主夫妻が考えたのが娘越智姫と金山彦を娶せる事でした。すなわち政略結婚です。

砂鉄から鉄を生産する技術を金山彦に学びます。伊都国では砂鉄を採掘することは出来ないので、現在の北九州市八幡東区へと移動します。

その証左が下記の神社です。

高見神社  福岡市八幡東区高見町

ご祭神:天之御中主・高御産巣日神・神産巣日神・可美葦芽彦遅神(ウマシアシカビヒコチ)・天之常立尊(=天之御中主)・国之常立尊(=神産巣日神)・天忍穂耳神・天照大神

当地では、砂鉄の採掘が不適と判明し、日本海側の伯耆国奥日野へと移動します。その証左を示すのが下記の神社です。

金持神社  鳥取県日野郡日野町金持

ご祭神:天之常立命八束水臣津奴命(=孫の大国主)・淤美豆奴命(=天忍穂耳命)

経緯は不明ですが、ウマシアシカビヒコチが抜け落ちています。

当地は砂鉄が豊富で、500箇所以上の「たたら跡」が出土し、最も有名なのが「都合山たたら跡」です。金持の金とは鉄の意味です。

写真 金持神社  出典:同社公式HP

図 日本の主な砂鉄産地   出典:砂鉄産地―wordbook.asia

3.天之御中主と出雲大社との関わり

  天之御中主宇摩志阿斯訶備比古遅夫妻は、実弟の大幢主が新天地を求めて日本海側に進出するための大船団に同行します。

最初の寄港地は出雲東部、現在の島根県松江市と推測します。出雲西部は既にスサノオが進出していました。目的は砂鉄の採掘です。

“出雲“という地名は、故百嶋氏によると白(ぺー)族統領大幢主が支配する土地と講演会で述べています。

天之御中主宇摩志阿斯訶備比古遅夫妻はやむなく大幢主の出雲支配に協力したようです。

大幢主の出雲支配の証左とするのが出雲の神社のヒエラルキーです

    序列第一位

出雲国一宮熊野大社  島根県松江市八雲町熊野

主祭神:熊野大神櫛御気野命/伊邪那伎日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命

「出雲国造神賀詞(かんよごと)」は“伊弉奈枳乃麻奈名子坐熊野加武夫呂乃命とあります。

『先代旧事本紀 巻第一神代本紀』は「出雲国熊野坐建速素戔嗚尊」としています。

一時期は「熊野大神櫛御気野命と素戔嗚尊は同一神」とするのが通説でした。その後、

「素戔嗚尊は熊野大神櫛御気野命と同一神ではない」とする説が有力になりましたが、結局の

ところよくわからないようです。

私見は同社の神紋は“一重亀甲に大”であり、大幢主が主祭神と推測します。因みにスサノオの

神紋は“木瓜紋”です。

同社の「鑽火祭神事」は、火をおこす道具を出雲大社が熊野大社に借りに来るという神事です。

同神事からも熊野大社の優位性が理解できると考えます。

写真:神紋「一重亀甲に大」「大」は大幢主の象徴  出典:玄松子の記憶

序列第二位

出雲大社(旧社名杵築大社)  島根県出雲市杵築東町

    現在のご祭神:大国主命

    Wikipediaによると、創建以来、天照大御神の子天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきたとされます。

故百嶋氏は、天穂日命”は大幢主の別名と講演会で述べています。

国譲りを命じられた大国主命をご祭神とする根拠は乏しく、私見は天穂日命で一貫しています。

下記の出雲大社本殿に祀られている神々に注目してください。

御神座:大国主命 正面ではなく西を向いています。

御客坐:天之御中主・高御産巣日神・神産巣日神宇摩志阿斯訶備比古遅神・天之常立神の五神

参拝者に対して正面を向いています。

一目瞭然、主祭神が大国主命でないことが理解できると考えます。

神産巣日神は大幢主別名天穂日命の祭祀におけるハンドルネームと推測します。

『出雲国風土記』が記す国引きの神・出雲創世の神と記される”八束水臣津努命並びに淤美豆奴

命“は金持神社で前述していますので省略します。

おそらく彼らは、大幢主命が出雲を去った後に入植したと推測します。

同社の神紋“二重亀甲”は、おそらく出雲国造家と推測します。

図 出雲大社御本殿内部    出典:出雲大社HP

序列第三位 能義神社(旧社名野城大社) 島根県安来市能義町

主祭神:天穂日命・大己貴命・事代主

本来の主祭神は天穂日命一坐と推測されます。

大己貴命は後に入植し、事代主は潜り込んだと推測されます。

 

4.天之御中主は単独行動へ

   伯耆国以降、天之御中主宇摩志阿斯訶備比古遅夫妻はそれぞれ単独行動をとったようです。

その後の天之御中主の行動をたどってみましょう。

天之御中主を祀る神社を調査すると『記紀』とは違い、事情は一変します。

同神を祀る神社の分布状況は愛媛県が最も多く、次に島根県・京都府・奈良県・福井県・兵庫

県が続きます。最多数の愛媛県における特徴は愛媛県南部に集中し、同神を祀る神社名の最多が

大元(おおもと)神社です。

大元神社は島根県・福岡県・大分県・和歌山県にも分布し、島根県の出雲大社では別天津神

(ことあまつかみ)の祭祀が古くから行われ、本殿に御客座五神の一座として同神と夫ウマシアシ

カビヒコチが祀られています。

岩見国一宮の物部神社  島根県大田市川合町

本殿主祭神:宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)、

相殿の左殿:饒速日命(にぎはやひのみこと)・布都霊神(ふとだまのかみ)

相殿右殿:天之御中主神・天照皇大神

備前国一宮吉備津彦神社 岡山県岡山市北区一宮

主祭神:大吉備津彦命・造化三神・月読大神・スサノオ

社伝によれば古くは天之御中主神一座と伝えられています。

大吉備津彦命は孝霊天皇と妃ハエイロネの御子で、桃太郎のモデルです。

 

5.天之御中主の別名白山姫を祀る神社

白山姫は全国の白山社・妙見宮・水天宮のご祭神として祀られています。

(1)白山社総本社

    白山比咩(はくさんひめ)神社 石川県白山市三宮町

ご祭神:白山比咩神(別名菊理姫)・伊弉諾神・伊弉冉神とされていますが、本来は白山

比咩神一座

別名に菊理媛(くくりひめ)

写真  菊理媛の肖像画   出典:白山比咩神社公式サイト

 

 

 

図   霊峰白山案内板

○別山神社 ご祭神:大山祇命(おおやまづみのみこと)

天之御中主こと白山姫の長男

○大汝神社 ご祭神:大国主命

天之御中主の孫

 

大山祇命の長男大己貴命(おおなむちのみこと)、後に大幡主の入り婿となり、大國主に名を

改めます。天之御中主のお孫さんです。

写真 白山比咩神社 出典:同社HP

全国に3千社もある白山神社の総本宮

(2)妙見宮(みょうけんぐう) 熊本県八代市妙見町

代表的な神社は八代神社。明治以前は妙見宮と呼ばれていました。

ご祭神:天之御中主・国常立尊(=大幢主)

由来は。妙見社実記や社記などによると天武白鳳九年(680年)秋、中国明州(現在の寧波市)から妙見神が目深検校(まぶかけんぎょう)、手長次郎、足長三郎の形と化して亀蛇(きだ)の背に乗って海を渡り、八代郡北郷八千把村竹原津に上陸し、この地に約3年間仮坐したのがはじまりと伝えられています。

写真 八代神社(妙見宮)  出典:同社HP

妙見神が亀と蛇が合体した「亀蛇(きだ)」の背に乗って海を渡ってきたという伝承

(3)水天宮(すいてんぐう)

全国総本宮 水天宮 福岡県久留米市瀬下町

ご祭神:天之御中主・安徳天皇・高倉平中宮・二位の尼

同社の由来は、安徳天皇の母である高倉平中宮に仕えていた按擦(あぜちの)伊勢は寿永四年(1185年)壇ノ浦の戦いの後、千歳川(現筑後川)の辺り鷺野ヶ原に遁れて来て建久元年(1190年)初めて水天宮を祀ったことに始まります。

その後、慶安三年(1650年)久留米藩第二代藩主有馬忠頼公により、現在の社地・社殿の寄進を受け、この地に遷し奉られるとあります。

文政元年(1818年)11月1日には第九代藩主有馬頼徳公が江戸三田藩邸に御分霊(みわけたま)を勧請(かんじょう)し、ご祭神に天之御中主の夫ウマシアシカビヒコチを合祀しました。

写真 東京水天宮 東京都中央区日本橋蛎殻町 出典:東京都神社庁HP

鈴の緒ガランガラン 今日も境内には お参りの鈴の音が響きます。

表 天之御中主(あめのみなかぬし)を中心とした血縁関係

神名 血縁関係 生年             またの名など
白川伯王(しらかわはくおう) AD90年 初代奴(ぬ)国王・刺国大神
白族の娘 ? 不明
天之御中主 本人 AD88年 白山姫・菊理姫・ククリ姫
神産巣日神(かみむすひのかみ) AD110年 大幡主・熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)・思金神・大若子命など
ウマシアシカビヒコチ AD85年 金越智(金閼智とも表記)
月読命(つきよみのみこと) 長男 AD111年 大山祇命(おおやまづみのみこと)
埴安姫(はにやすひめ) 長女 AD108年 草野姫(かやのひめ)・埴土姫

金山彦の正妃

注)生年は故百嶋氏の推定

おわりに

実は天之御中主の一生はよくわかりませんが、夫宇摩志阿斯訶備比古遅は彼女をとても大切に扱い、夫婦円満であったと推測しています。

天之御中主をよくわからない神とした原因に二つの説があります

(1)反本地垂迹説

鎌倉時代後期に盛行していた“本地垂迹説(古代の神々と仏教神との融合)”に、反発した伊勢神宮外宮の神官、渡会行忠・渡会家行によって唱えられた“反本地垂迹説”では、「豊受大神を天之御中主と同一神とし、これを始源神」とする教義を展開しました。

(2)平田篤胤による“復古神道”説

江戸時代後期に活躍した平田篤胤が唱えた“復古神道”説では「天之御中主を最高位の究極神」に位置づけました。

私見は宇摩志阿斯訶備比古遅と別れた後、彼女は祖先霊を祀ることに一生を捧げたのではないかと推測しています。

彼女の後継者は、嫡男月読命後の大山祇神と草野姫(かやのひめ)との御子“神大市姫(かみおちひめ)別名罔象目(みずはのめ)”に引き継がれ、その後は素戔嗚尊との間に生まれた”天細女命(あめのうずめのみこと)別名豊受姫に継承された後、彦火々出見命との間にもうけた“宇麻志麻遅命別名和知津見命(わちつみのみこと)”に継承されたと推測しています。

宇麻志麻遅命の御子、ハエイロネ・ハエイロチ姉妹は孝霊天皇の妃となり、九州王朝で確固たる地位を築き上げたようです。

では、夫宇摩志阿斯訶備比古遅は妻天之御中主と別れた後、どこへ移動したのでしょうか。

ブログ「玄松子の記憶」“物部神社”に驚くべき内容が記されています。

物部神社   島根県太田市川合町

主祭神の宇麻志麻遅命に代えて、物部氏始祖 宇摩志阿斯訶備比古遅とあります。伝承では、宇麻志麻遅命が白鶴に乗って川合の地に天降ったとありますが、宇摩志阿斯訶備比古遅は勅命により、天香具山命(=彦火々出見命)とともに物部氏一族を率いて、美濃・越國を平定し、石見国に入って死去したと伝えられ、また播磨・丹波国を経て石見国へ入ったとも云うとしています。

   つまり、「物部氏集団は宇摩志阿斯訶備比古遅命が朝鮮半島から引き連れてきた集団」ということになります。

私見は「宇摩志阿斯訶備比古遅命と宇麻志麻遅命」の“ウマシ”に共通性があることに

注目していました。“ウマシのウマは馬”かもしれません。

 

次回は未定です。

 

 

 

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