謎の女神シリーズ 第十一話 「壱与(1)」

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○卑彌呼宗女とは

○壱与擁立の経緯

 

 

はじめに

 壱与は卑彌呼と同様に『記紀』には一行も記されていません。

『記紀』編纂者にとって、絶対に記述してはならない「対象」だったのでしょう。

その理由は後継王朝にとって認めてはならない存在だったようです。

他方、中国史書では

『魏志』倭人伝

「卑彌呼宗女壹與」

『梁書』倭国伝・「北史」倭国伝

「臺與(台與とも表記)」

とし、三世紀頃の「倭国の女王」として記述されています。

此の謎に満ちた「女王壱与」について「百嶋神社考古学」から検証してみましょう。

 

1.卑彌呼宗女壱与とは

“宗女(そうじょ)”とは直系の娘を指し、「神々の系図-平成12年考」によれば、壹与は天照大神こと卑弥呼の直系の孫娘であることが確認できます。

図 故百嶋氏作成「神々の体系-平成12年考」

 

表  壱与を中心とする家系図

   名前 血縁関係 生年 またの名など
大幢主 父系祖父 AD122年 鹽土老翁・大若子命など
卑彌呼 父系祖母 AD124年 大日孁貴・天照大神
素戔嗚尊 母系祖父 AD139年 天日槍命
神大市姫 母系祖母 AD148年 罔象女(みずはのめ)
彦火々出見命 AD152年 通称山幸彦・饒速日命など
豊受姫 AD166年 辛国息長大姫・伊勢神宮外宮様など
ウガヤフキアエズ 義兄 AD182年 父彦火々出見命・母豊玉姫
御年神 義兄 AD184年 父通称海幸彦・天忍穂耳命・母豊受姫
和知津見命 実兄 AD186年 宇麻志麻遅命・大水口宿禰
壱与 本人 AD192年 細媛、後に孝霊天皇の皇后
孝霊天皇 AD178年 大日本根子彦太瓊尊
孝元天皇 御子 AD212年 大日本根子彦國牽尊
伊豫皇子 御子 AD214年 父孝霊天皇

注)生年は故百嶋氏の推定

この家系図を見れば、「卑彌呼や壱与」を隠したくなるのが頷けます。

2.壱与擁立の経緯

(1)要因

①国内要因

西暦170年前後、女王卑彌呼の統治体制が軌道に乗り、奴国王大幢主は新天地を求めて日本海から東国へ進出、時を同じくして邪馬壱国の親衛隊長であった伊都国王金山彦も中央構造線に沿って鉱山開発のため東へと移動を開始。

金山彦は孫娘市杵島姫の入り婿となった大巳貴命に邪馬壱国の親衛隊長の座を譲りました。

故百嶋氏は『魏志』倭人伝が記す「邪馬壱国の官伊支馬(いきめ)は大巳貴命」と講演会で述べています。

ア.西暦172年 長髄彦の叛

神武天皇による支配地替えを巡って恨みを抱いていたスサノオの嫡男長髄彦は反乱を起こしま

す。身の危険を案じた卑彌呼は宮を離れ、邪馬臺国へ逃れます。

決戦の地は「吉野ヶ里」で、万余の死傷者をだし、長髄彦は降伏します。

詳しくは古代史シリーズ第三十九話「卑彌呼(2)」を閲覧ください。

注)邪馬臺国

故百嶋氏は「この戦いの間、卑弥呼は難を逃れて宮崎県西諸県郡姫原(ひめはる)地区の“耶馬臺國(やまたいこく)”に避難した。」と講演会で述べています。

さらに、「姫原地区は、その後藤原氏によって“高原(たかはる)”に地名変更された。」とも述べています。

 図  宮崎県西諸縣郡の位置 出典;Wikipedia(2021/09/26 14:00)

黄色部分は「西諸縣郡」

緑色部分は「高原」地区

イ.西暦175年前後 「狗奴国の乱」

故百嶋氏は「長髄彦の叛からほどなくして狗奴国の乱が勃発した」と講演会で述べてい

ます。

では、「狗奴国王卑弥弓呼(ひみゆか)」とはどのような人物だったのでしょうか。

ヒントは、卑彌呼と不仲で強い軍事力を持った人物です。

浮かんでくるのは、大山祇一族や阿蘇耳族ですが、統領の大山祇命は邪馬壱国の忠臣大

幢主と義兄弟の関係にあり、反乱など考えられません。阿蘇耳族統領の神沼河耳命は既に

大和へ追放されています。後継者と目された草部吉見こと天忍穂耳命は、阿蘇耳族統領の

座を弟建盤龍命(たけいわたつのみこと)に譲り、邪馬壱国の将校として従事したので反

乱を起こすなど考えられません。また、当時少年であった建盤龍命は役不足です。

したがって、「狗奴国の乱」は、故百嶋氏の見解とは違い、もっと後の時代に起こった

事件と推測します。

ウ.西暦180年前後 阿蘇耳族の反乱

成長した建盤龍命(たけいわたつのみこと、『紀』一書では手研と表記)を盟主とする

阿蘇の暴れん坊集団が勝手に“へび神さまこと市杵島姫”を担いで、阿蘇外輪山周辺で暴れ回

ります。

追討軍を差し向けますが、阿蘇外輪山は広く手が回りません。その勢いはますます盛んに

成り、この反乱は五年ほど続き、一時邪馬壱国は危機状態に陥りましたが、所詮寄せ集め集

団で大巳貴命を中心とする反撃軍によって、ようやく終息しました。

その結果、大巳貴命は阿蘇耳族を支配下に収めました。

大巳貴命は、卑彌呼による「嫁さんの取り替え政策」に従い、市杵島姫と別れ、大幢主の孫

娘豊玉姫の入り婿となり、名を大国主に改めました。

エ.西暦205年 建南方(たけみなかた)の乱

歴史上「建南方の乱」とされていますが、実体は「狗奴国の乱」ではないでしょうか。

大率姫氏に次ぐ格式を持つスサノオの孫建南方は熊襲(阿蘇族)にそそのかされ、父(長

髄彦)が果たせなかった失地回復のため、熊襲と呼応し、南九州で反乱の狼煙を上げまし

た。

建南方軍は順調に北上を続けましたが、筑後に集結した政府軍の物部氏始祖の彦火々出見命

と嫡男で大矢口物部軍を率いる味耜高彦根命別名ウガヤフキアエズ(壱与の義兄)、並びに大

山咋といった強力な布陣には抗すべくもなく、建南方軍は多数の死傷者を出し、戦局は一気に

物部軍に傾きます。

写真 決戦の地 福岡県小郡市干潟大字城山 「城山(花立山)丘陵」

出典:九州の古墳遺跡巡り

小郡市の北東部に位置する標高130.6㍍の独立丘陵

花立山は左奥です。

その南西斜面を中心臣に総数300基を越える群集墳

よく見ると田圃の中にも墓標が多数存在します。

田圃廻りには”イタチ”がうろうろしていました。

図  小郡市干潟大字城山周辺図

写真 小郡市七夕(媛社)神社 出典:小郡市観光協会

 

ここで登場したのが、健南方の父天忍穂耳命でした。

父の説得により、建南方軍は降伏します。

ブログ“神社見聞牒”主催者である宮原誠一氏は、「黒幕は阿蘇耳族を支配下に持つ大巳貴命

の可能性を指摘しています。

中国史書が記す「倭国大乱」とは、以上の事件を総称したものと推測します。

建南方軍が降伏した場所は特定されていませんが、「花立山古墳群」周辺と推測します。

②対外要因 後漢の没落と滅亡

後漢は西暦184年苛政に苦しむ農民による「黄巾(こうきん)の乱」が勃発し、その反乱は全国に飛び火し、実質支配者であった10人の大宦官(だいかんがん)の多くが殺され、西暦189年霊帝は没し、その混乱に乗じた董卓(とうたく)が首都洛陽を支配し、霊帝の後継者少帝弁を廃位後殺害。この時点で後漢は事実上統治機能を失いました。

「倭国大乱」は後漢の衰退により、後漢の出張所とも目された倭国はその正当性と後ろ盾を失ったことが遠因と考えられます。

故百嶋氏のメモによれば「後漢が滅びて倭国内は大乱の折、大率家の方々を諸(室・村・群)へお迎えしたのは草香王(くさかおう、仁徳天皇皇子)の御母の先祖諸氏(もろし)でした。諸一族(もろいちぞく)の住する所、すなわち後世の俗称ヤマタイです。」と書き残されています。

諸一族とは、現宮崎県東諸県郡を支配する大山祇の一族と考えられ、“ヤマタイ”とは『後漢書』倭伝が記す「其大倭王居邪馬臺國案今邪摩惟音之訛也(其の大倭王は邪馬臺國に居し、案ずるに今邪摩惟音の訛なり。)」とある“邪馬臺國(やまたいこく)”と考えられます。

(2)西暦205年 壱与女王に即位

故百嶋氏によると中国史書とは違い、「卑彌呼は百歳近くまで存命した。」と講演会で述べて

います。

脆弱だった国家防衛体制が「大水口・大矢口物部軍の創設」並びに「蠢動を諦めない阿蘇族の監視体制の創設」により、強化されました。

いずれの長も、壱与の実兄・義兄で占められていました。

注)大水口・大矢口物部軍

大水口物部軍統領 宇麻志麻遅命 別名和知津見命

大矢口物部軍統領 天稚彦 別名味耜高彦根命 蔑称ウガヤフキアエズ

これを機に存命していた卑彌呼主導により、「壱与は倭国の女王」として即位しましたが、問題がないわけではありません。

それは「倭国の統治体制」です。「鬼道という曖昧な体制」では、いつまでも続きません。卑彌呼がいい例です。

加えて「大率姫氏の正統な後継者の処遇」です。

正統な後継者とは後の孝霊天皇です。

青年期の孝霊天皇は邪馬臺国に逼塞していて,皆目実態は不明なままでした。

故百嶋氏作成の「神々の系図-平成12年考」を精査すると、御子の生年は孝霊天皇34歳以後となっています。

天皇として考えられない年齢の御子です。

おそらく逼塞していた邪馬臺国では夫人が数名存在し、御子も数名いたと推測されます。

この御子たちの存在が後の「別王家」に繋がっていったのではないでしょうか。

 

次回は第十二話「壱与(2)」です。

 

 

 

 

 

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