第百一話  「弘計天皇(顕宗天皇)」

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○清寧天皇の後継者探し

○弘計・億計皇子の逃亡先

○日本海交易を担った政治集団

○白髪天皇の後継者飯豊青尊とは

○播磨國司山辺連の先祖伊豫来目部小楯とは

 1.清寧天皇の後継者探し

『古事記・日本書紀』ともに皇后並びに御子なしとし、後継者探しへと話が展開していきま

す。

(1)『古事記』

白髪大倭根子命崩御後、後継者がなく市邊押歯別王の妹、忍海郎女亦の名を飯豊王(い

いとよのおう)、葛城の忍海の高木の角刺宮(つのさしみや)に坐す時、針間の宰(みこ

ともち)に就任した山部連小楯を歓迎する宴が志自牟の新室で行われ、宴を盛立てるた

め、二人の少年が「舞と名乗り」を披露しました。

名乗りには、重大な言葉が含まれていました。

吾等二人は伊邪本和氣天皇の御子、市邊押歯王奴末(やっこのすえ)

これを聞いた小楯連は大いに驚き、自らの席に二人の少年を座らせ、二人の少年を王子

として遇し、仮宮を造らせ、姨飯豊王のもとへ二人の少年を送ります。

飯豊王は大層お喜びになりましたが、慎重を期すため平群臣の祖志毘臣(しびおみ)に

命じて、歌垣で少年の兄に人定質問を実施したところ、兄意祁命の歌垣に「謀略」の疑念

を抱きました。

ところが、意祁命・袁祁命の兄弟は軍を興して志毘臣の家を囲み、殺してしまいます。

その後、二人の兄弟は天皇位を譲り合いましたが、弟袁祁命が清寧天皇の後継者となり

ました。

同記事の不審な点

①白髪大倭根子命崩御後の後継者は二人の兄弟の姨飯豊女王。

②意祁命・袁祁命兄弟は伊邪本和氣王の御子、市邊押歯王の奴末。

伊邪本和氣王(いざほわけおう)は、贈応神天皇の諱で、正統な天皇ではありません。「

和氣王は別王」を表わします。

市邊押歯王の奴末とは、文字通り読めば、市邊押歯王の下僕の裔と読めます。

すなわち、意祁命・袁祁命兄弟は市邊押歯王の後継者「飯豊女王」を“下克上”でその座を奪

った可能性が窺えるのです。

何故、太安万侶はこのような表現を用いたのでしょうか。

まるで、このトリックに騙されないようにと注意喚起をしているのでかもしれません。

③意祁命・袁祁命兄弟が、不審を唱えた志毘臣に仕返しをするため軍を派遣して殺してしま

うなどの暴挙が出来たのでしょうか。

時間的な経過が不明で、余りにも唐突な話は、胡散臭いと思いませんか。

その通りです。おそらく「諸家の系譜」から盗用した作り話です。

注)針間国の志自牟

現在の兵庫県三木市志染町周辺か。

(2)『日本書紀』

泊瀬天皇(雄略天皇)の為に殺された市邊押磐皇子の御子弘計・億計王子の兄弟は、自

分たちも殺されるとの強迫観念から逃亡を続け、その後、帳内(とねり)日下部連使臣・吾

田彦親子によって丹波國の余社郡に匿われたのですが、追求の目を逃れるため、播磨の縮見山

(ちぢみやま)の石窟に隠れ、一時は自殺さえ考えました。

白髪天皇の二年冬十一月、播磨國司山辺連の先祖伊豫来目部小楯、赤石郡(現在の明石市

周辺)で、新嘗祭を執り行っていた際に弘計王・億計王兄弟に遭遇し、白髪天皇に報告しま

す。

白髪天皇は弟の億計王に「禍を避け長年の逃亡生活に甘んじ、牛飼いをしながらも高貴の

資質を失わなかった」ことをいたく誉めました。

白髪天皇三年春正月、天皇は億計王を随行し、摂津国を経て宮中に迎え入れ、夏四月に億

計王を皇太子に立てます。

五年春正月に白髪天皇崩御後、皇太子億計王と兄弘計王は天皇位を譲り合い、収拾がつ

かなくなります。

その結果、白髪天皇の姉飯豊皇女が天皇位に即位し、忍海角刺宮で「忍海飯豊青尊(おし

ぬみのいひとよのあおのみこと)と名乗ります。

冬十一月、飯豊青尊が崩御。

十二月、百官の推薦を受けて、皇太子億計王は天皇の璽(みしるし)を継承しますが、天皇

位に即位せず、兄弘計王に天皇位を譲ります。

以上の記事から、多くの混乱が見られます。

①白髪天皇三年春正月、天皇は億計王を随行

    白髪天皇が天皇位退位を前提とした表現です。

②弟の億計皇子が皇太子

兄弘計王が排除されています。

③上記①・②の記事と矛盾し、兄弟の姨飯豊青尊が白髪天皇の後継者として天皇に即位。

④何故か、飯豊青尊は天皇即位後、半年足らずで崩御。諡名(おくりな)さえ与えられていませ

ん。

すなわち、『日本書紀』編纂者は飯豊青尊を正統な天皇ではなく、辻褄合わせのために記述

した可能性が濃厚です。

⑤天皇が二人存在。

白髪天皇と飯豊青尊

 

 2.億計・弘計皇子の逃亡経路

(1)丹波国の余社郡(現京都府与謝郡与謝野町周辺)へ逃げ込んだ理由は古代丹波国(旧表記は

旦波国)の最先進地帯は竹野川周辺であることは前述しました。その後、天然の良港でもあ

った竹野潟も砂の堆積により、その機能を失い、現在の京都府与謝郡与謝野町に最先端地

帯は移転します。

億計・弘計兄弟は、雄略天皇の追跡をかわすため、日本海交易を担った政治集団を頼っ

て逃げ込んだのでしょう。

ところが、日本海交易を担った政治集団はさらに東方へ移動しており、彼らにとって安

住の地ではなかったようです。

(2)播磨国の志自牟(現在の兵庫県三木市子志染町周辺)へ逃げ込んだ理由

当地には巨大な政治集団が存在したとする文献や遺跡も存在しませんので、弘計・億計

兄弟は、現代で云えば田舎に逃げ込み、ひっそりと豚飼いとして暮らしていたのです。

『記紀』が記す高貴な血筋をひく兄弟であれば、それなりの庇護者がいてもおかしくは

ないはずですが、庇護者が見込めない田舎へ引っ込んでしまったのです。

もしかすると、兄弟は存在を許されない反逆者の子弟だったのかもしれません。

では、『日本書紀』編纂者は弘計・億計兄弟を天皇としたのでしょうか。

図 与謝郡の位置 出典:Wikipedia(2022/04/02 9:45)

図 丹波国最初の先進地帯 京都府竹野郡 出典:Wikipedia(2022/04/02 9:45)

3.日本海交易を担った政治集団

政治集団の「威信財」の象徴である古墳から見ると、日本海側三大古墳が挙げられます。

(1)網野銚子山古墳  京都府京丹後市網野町網野

日本海側最大の前方後円墳 墳丘長201㍍ 高さ16㍍

不思議なことに石室はなく、目立った副葬品も発掘されていません。

間違いなく、近畿王朝による“完全盗掘”です。

被葬者は不明ですが、間違いなく“大王クラス”でしょう。

築造時期について、通説は4世紀末~5世紀初めとしていますが、私見は3世紀中頃と推測

しています。

写真  網野銚子山古墳 出典;Wikipedia(2022/04/02 9:45)

左に後円部 右奥に前方部

(2)神明山古墳 京都府京丹後市丹後町宮

前方後円墳 墳丘長190㍍ 前方部高さ15㍍ 竪穴式石室と推定されていますが、網野銚

子山古墳と同様に石室はなく、目立った副葬品も発掘されていません。

間違いなく、近畿王朝による“完全盗掘”です。

被葬者は不明ですが、間違いなく“大王クラス”でしょう。

築造時期について、通説は4世紀末~5世紀初めとしていますが、私見は3世紀中頃と推測

しています。

出土埴輪に舟を操る人物の線刻がみられます。

写真 神明山古墳  出典:Wikipedia(2022/04/02 9:45)

(3)蛭子山古墳  京都府与謝郡与謝野町明石

「明石」の地名に注目してください。

『日本書紀』が記す「小楯をして節(しるし)を持て、左右の舎人を率いて、赤石で弘計天

皇を迎えた。」とあります。

播磨の赤石(明石)で迎えたのではなく、丹波の明石で迎えたとするのが、本来の伝承だった

のでしょう。

前方後円墳 墳丘長145㍍ 前方部高さ16㍍

①第一主体 刳抜式舟形石棺 内外にベンガラ塗り 副葬品「長宜子孫」銘の内向花紋鏡

石棺外に「鉄刀5・鉄剣・鉄槍20振・鉄鏃・鉄斧・鉄槍鉋」

②第二主体 竪穴式石槨

③第三主体 木棺直葬

網野銚子山・神明山古墳と違い、完全盗掘の痕跡はありません。

通説によると、刳抜式舟形石棺は4世紀中頃の築造で、熊本・宮崎・香川・島根・群馬・

茨城県の古墳に見られます。

私見は宝賀寿男氏と同意見で4世紀初め頃と推測します。

以上のデータから、日本海側三大古墳の被葬者は、舟を操り航海する民の首長であり、多くの

鉄製品の武器を所有していたことが確かめられます。

被葬者は、「白族大幡主→後継者豊玉彦→豊玉彦の入り婿大己貴命」の系譜かもしれませ

ん。

その傍証となるのが、

大虫神社  京都府与謝郡与謝野町温江

主祭神:大己貴命

写真 蛭子山古墳 出典:Wikipedia(2022/04/02 9:45)

写真 大虫神社 出典:Wikipedia(2022/04/02 9:45)

4.白髪天皇の後継者飯豊青尊とは

『日本書紀』は、父去来穂別(いざほわけ)天皇こと贈履中天皇、母葦田宿禰の娘黒媛との間

に誕生し、兄を磐坂市邊押羽皇子・御馬皇子としています。

私見は、父贈履中天皇を「別天皇」で正統な天皇とは認めていません。

その名からも贈応神天皇と同一人物の可能性を指摘しました。

したがって、市邊押羽皇子は「別天皇」の血筋をひいている可能性があり、同様に妹の飯豊青

尊も「別王」の血筋となります。

5.播磨國司山辺連の先祖伊豫来目部小楯とは

播磨国は令制国の一つで、領域は「神戸市須磨区を境に東部を摂津国、西部を播磨国」とし、

7世紀頃の成立とされています。

7世紀以前は「針間郡 加古川をもって西、揖保川の東の領域。」と認識されていました。

『播磨国風土記』は、播磨国の長官を「吉備大宰(きびのおおみこともち)」または「播磨國

宰」と記述しています。

愛媛大学名誉教授松原弘宣氏は「久米官衙遺跡群の成立と展開」参考資料として、「表1大宝

令以前における久米氏の動向」を記述しています。〔抜粋〕

人名 時期 記載内容
久米部 雄略朝 大伴室屋に命ぜられ、石河楯と池津姫を処刑
紀崗前来目連  〃 大伴談連と友に新羅に遠征して戦死
城丘前来目 清寧朝 星川王の乱に従い、焼き殺される
伊予来目部小楯  〃 後の顕宗・仁賢を播磨で発見し、山官となる
来目稚子 顕宗朝 顕宗天皇の幼名

松山市来住台地の「久米官衙遺跡」の近くから「久米評」の文字が刻まれた土器が出土してお

り、8世紀初めに成立した「郡制」以前は「評制」であったことが確かめられています。

おそらく、伊豫来目部小楯は「播磨国司ではなく、久米評の長官(評造)」であったと推測さ

れ、九州王朝にとって重要なキーパーソンでは無かったことは明らかです。

弘計天皇こと顕宗天皇の幼名は「来目稚子(くめわかこ)」と呼ばれていたので、『日本書紀』

は「久米氏の系譜」を参考にしたのかもしれません。

以上から、『記紀』が記す「弘計天皇・億計天皇」は清寧天皇の後継者ではあり得ません。

 

 

次回は「億計天皇(仁賢天皇)」です。

 

 

 

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