第百四十話  「天智天皇」(2)

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写真  牽午子塚古墳

 

○天智天皇紀三年以降~七年までの記事

1.天智天皇紀三年以降~七年までの記事

(1)天智三年(664年)

・「夏五月、百済の鎮将劉仁願、朝散大夫郭務倧等を遣わし、表函と獻物を奉る。

表函は降伏に対する「羈縻政策の実施」と考えられます。

①筑紫太宰府の地に唐の進駐軍の役所「都督府」を設置する。

②「都督府」長官による官吏の任免権

③武装解除

④傀儡政権の樹立など

注)「羈縻政策」とは

Wikipediaによると、「羈縻」とは、特に中国に近い友好的な国王・首長を撰び、都特・刺史・県令

などに任じ、彼らが元々有していた統治権を中国の政治構造における官吏であるという名目で行使さ

せたものです。

「羈」は馬の手綱、「縻」は牛の鼻輪の意。

・「是の日に、大紫蘇我連大臣薨せぬ。」

「大紫」とは、冠位二十六階の第五位に相当します。「薨」は、親王または三位以上の諸王に用い

る用語です。

すなわち、「大紫と薨去」では平仄が合わないのです。

それほどの重要人物の名前が漏れるのをおかしいと思いませんか。

私見は、西暦664年 占領軍唐によって「筑紫都督府」が開設され、倭国王は任免権を失います。

その過程の中で唐軍にとって邪摩になったのが「蘇我王権」の存在で。蘇我氏宗家は死を受け入れざ

るを得なかったと推測します。

おそらく、蘇我連大臣とは聡明な「蘇我入鹿(別名宗我太郎など)」と推測します。

したがって、「乙巳の変」はなかったと考えられます。

・「是歳、対馬嶋・筑紫國等に防(さきもり)と烽とを置く。又筑紫に、大堤を築き、水を蓄える。

これを水城という。」

降伏した場合、いつの世でも「武装放棄」が条件で、防や烽を設置したり、水城を築くなど論外

です。

(2)天智四年(665年)

・「九月二十三日、唐國、朝散大夫沂州司馬上柱國劉徳高等を遺す。」

劉徳高を「筑紫都督府」の長官に任命。等は右戎衛郎将上柱國百済禰軍・朝散大夫郭務倧を指し、総員

254人が7月28日に対馬に到着。9月20日に筑紫に至り、22日に表函(泰山での「封禅の儀」に参列す

る命令書と考えられます。)を倭国に交付しました。

注)「封禅の儀」

秦・漢の時代から行っていた儀式。山の下で土壇をつくり、そこで祓い清めて山川を祀り、皇帝が天

下太平を天に報告する儀式。

・「十二月 劉徳高等帰国」

・「是歳 小錦下守君大石等を大唐に派遣。」

『旧唐書』巻八「劉仁軌伝」

「麟徳二年(665年)泰山に封ず。仁軌 新羅及び百済・耽羅・倭の四国の酋長を領(ひき)いて赴

き会す。・・高宗甚だ喜ぶ。」(原文は漢文)

『資治通観』

「高宗麟徳二年 熊津都督府尉扶余隆と新羅王法敏とに上命して旧怨を釋(許す)し、帰国させる。

八月の壬子に熊津城にて同盟せしめ、劉仁軌 新羅百済・耽羅・倭国の使番を以て浮海西還せし泰山

に会嗣ぐせしむ。」 (原文は漢文)

翌年(乾封元年666年)泰山での「封禅の儀」に参列したのは、劉徳高に案内された小錦下守君大石

等と考えられます。

注)『資治通観』

北宋の司馬光が1065年の英宗の詔により編纂した歴史書

(3)天智五年(666年)

・「是の冬、百済の流民男女二千余人を受け入れ、東國に遷す。」

(4)天智六年(667年)

・「六年春二月 天豊財重日足姫天皇と間人皇女を小市岡上陵に合葬。是の日に皇孫大田皇女を陵

の前の墓に葬る。」

 

写真 斉明天皇陵墓に比定される「牽牛子塚(けんごしづか)古墳」

奈良県高市郡明日香村大字越 出典:日本経済新聞(2022/03/02)

方形 八角墳 巨石を刳りぬいて二つの墓室を設けた特異的な内部構造

斉明天皇陵については、「宮内庁」が治定(じじょう)している奈良県高取郡高取町の「車木ケンノ

ウ古墳」、福岡県朝倉市須川の恵蘇八幡宮神域の「御陵山」が比定されています。

「六年十一月九日 百済の鎮将劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等を遣わし、大山下境部

連石積等を筑紫都督府に送る。十三日司馬法聰等が帰国するにあたり、小山下伊吉連博徳・大乙下笠

臣諸石を送使とする。」

(5)天智七年(668年)

・「七年三月十九日 都を近江に遷す。」

この時点では天皇に即位していない中大兄皇子による遷都は面妖だとは思いませんか。

『海東諸国記』によると「七年戊辰 始めて太宰帥を任じる」とあります。

・「七年六月、伊勢王とその弟王、幾日も経ず薨去。未だ官位を明らかにせず。」

・「七年秋七月 栗隈王を以て筑紫率に任命する。」

同記事は九州王朝倭国の人事異動記事です。

以上の三件の記事は連動していると推測します。

前年の十二月に筑紫都督府長官劉徳高帰国後、倭国内では内紛が生じていたと推測します。

この抗争に敗れたのが伊勢王とその弟王で、勝利したのが栗隈王で「筑紫都督府」長官に任じられま

す。

『海東諸国記』は太宰帥、『日本書紀』は筑紫率としていますが、「筑紫都督府長官」と同じ意味と

推測します。

おそらく、唐の進駐当時の倭国王は伊勢王ではないでしょうか。栗隈王は伊勢王と同様に九州王朝

の有力貴族と考えられます。

中大兄皇子が、身の危機を感じて摂津難波から近江に避難したのは羈縻政策反対派の一人だった

のかもしれません。

身の安全を図るため、強兵を集め、騎馬を養うため牧を設置します。

注)『海東諸国記』

李氏朝鮮宰相申淑舟が日本国と琉球国について記述した漢文書籍の歴史書。

図 近江大津京跡復原模型 出典:近江神社HP

私見は、面積的にみて、行政機構及び・正倉・武器庫などの建物群が見当たらず、とても「都」の規

模とは考えられません。

写真  滋賀県大津市神宮町「近江神宮」出典:近江神宮公式HP

・「七年冬十月 唐の大将軍英國公、高麗を滅ぼす。」

Wikipediaによると、西暦666年 渕蓋蘇文が死亡すると、その長子男生と弟の男達・男建が

対立して分裂状態と成り、首都を追われます。男生は国内城に立てこもり、唐に救援を求めま

す。是を奇貨として高宗は直ちに出兵を命じます.西暦667年 唐は高句麗の西の拠点新城を攻略

し、合流した男生の先導遼東半島を攻略すると、西暦668年には新羅と共に、再び平壌を囲みます。1ヶ

月に亘る包囲の結果、内応もあり、男産と宝蔵王は遂に降伏しました。男達はその後も抵抗を続けま

したが、捕らえられます。

西暦668年 700年余りも続いた高句麗は滅亡しました。

 

 

次回は「天智天皇」(2)です。

 

 

 

 

 

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