第五十一話  「孝元天皇」(2)

写真 與止日女神社 三の鳥居「肥前鳥居」出典:九州の神社 

佐賀県を中心とした特徴的な鳥居の一群を「肥前鳥居」と 呼びます.鳥居の構成要素が三段

継、島木と笠が一体化した上で丸みを帯び、柱が下へ行くほど太くなります。

○孝元天皇薨去後に起きた反乱

(1)稲氷命(いなひのみこと)と川上猛(かわかみたける)の乱

(2)羽白熊鷲の乱

(3)田油津媛の反乱

(4)夏羽(なつは)の反乱

 

1.孝元天皇薨去後に起きた反乱

”聖神“と呼ばれた孝元天皇は西暦240年頃(御年40歳)に没し、皇太子後の開化天皇は若年

(15歳頃か?)のため直ぐには天皇に即位することは出来ず、九州王朝政権は一挙に動揺しまし

た。

この動揺の間隙を縫って、”阿蘇一族“並びにそれに呼応するグループが各地で反乱を起こし、

その勢いは一時期九州王朝を制覇するほどでした。

(1)稲氷命(いなひのみこと)と川上猛(かわかみたける)の乱

『魏志』倭人伝が記す「卑弥呼と狗奴国の対立」は孝元天皇の薨去後、西暦242年前後にウ

ガヤフキアエズの長男、川上猛(『記紀』が記すクマソタケル)が北部九州で反乱を起こし、

それに呼応し、筑後のクマカブトアラカジ彦こと大山咋の長男稲氷命も反乱を起こしました。

佐賀県大和町の『大和町誌』によると、「北部九州を脅かしていた熊襲と云う豪族を討伐す

る将軍として、16歳の小碓命(『記紀』では贈景行天皇の次男ヤマトタケル)に命じました。

弟の彦王を大将に武内宿禰を補佐役として筑紫の穴ぐら陣に攻め入ったところ、頭の熊襲猛は

川上峡に逃げ去ったので、小碓命は筑紫から船に乗って堀江に寄港。蠣久に上陸後、川上峡で

熊襲猛を討ったが、6年の歳月を要した。」とあります。

川上猛は、ウガヤフキアエズと奈留多姫(後に建御名方の妃となり、八坂刀女に名を改め

る)との間に生まれ、妹に豊姫(ゆたひめ)、腹違いの兄に安曇磯良(あずみのいそら)・建

諸隅(たけのもろずみ)がいました。

支配地は脊振山地の東西にまたがり、北は福岡県と佐賀県の県境、南は嘉瀬川中流域まで広

がっていたと推測され、『大和町誌』が記す”穴ぐら“とは脊振山地の東西に盤踞していたと推

測します。

『大和町誌』の記事を「神々の系図-平成12年考」から当事者たちの年齢を、西暦242年を

基準に検証すると、以下のようになります。

名前 生年 またの名
安曇磯良 AD185年 当時57歳 表筒男命
小碓命=ヤマトタケル AD190年 当時52歳

 

贈崇神天皇ことツヌガアラシト AD195年 当時47歳 賀茂別雷命
川上猛 AD198年 当時44歳 熊襲猛
贈垂仁天皇こと生目入彦 AD198年 当時44歳 宇佐津彦
贈景行天皇こと大足彦 AD200年 当時42歳 天種子
倭迹迹日百襲姫 AD210年 当時32歳
武内宿禰 AD222年 当時20歳
開化天皇こと物部保連 AD225年 当時17歳

生年は故百嶋氏の推定

川上猛は脊振山地で敗戦後、現嘉瀬川上流(佐賀平野に入るまで川上川とも称される)で降伏

し、助命されたという。助命の理由は、九州王朝の忠臣であった妹豊(ユタ)姫こと與止日女(よどひめ)の尽力によると、故百嶋氏は述べています。

與止日女(淀姫とも表記される)は、肥前国一宮の祭神として知られています。川上猛の反乱に最も困惑したのは川上猛の父ウガヤフキアエズ、実の妹豊姫、腹違いの兄安曇磯良でした。当然、彼らは川上猛の追討軍に加わり、最期には降伏という形で反乱は終息しました。

與止日女神社(別称河上神社) 佐賀県佐賀市大和町大字川上

写真 與止日女神社  「拝殿」 出典:九州の神社

図  與止日女神社周辺地図

他方、稲氷命は実弟ツヌガアラシトの助命嘆願により一命を取り留めましたが、支配地である筑後を没収されました。

従軍したとされるヤマトタケルは、贈景行天皇の命によって東国に派遣されており、また若くして没したという『記紀』の記述から、川上猛征討軍に参戦した可能性は低く、当時16歳でこの征討軍に参戦したのは、即位前の開化天皇、当時の名「物部保連(ものべほむらじ)」であった可能性が濃厚です。

腹違いの兄武内宿禰(たけうちすくね)は、「物部保連」を守って征討軍に参戦し、豊姫は降服の使者として参加していたと考えられます。

『大和町誌』を読む限り、あっけない敗戦であり、とても6年を要したとは考えられません。重層かつ複合的な反乱が存在したと仮定しなければ、6年の歳月は異様です。

故百嶋氏は、「佐田大神(=大山咋)の長男坊主(=稻飯命)が熊襲の羽白熊鷲(はしろくまわし)とタイアップして神功皇后に喧嘩を仕掛けた。そこで息子のバカ騒ぎによって、佐田大神の「大」を取り消された。」と述べています。

これらの敵対勢力について検証してみましょう。

(2)羽白熊鷲の乱

羽白熊鷲は建南方が九州から追放された後、急速に力を付け、建南方の旧支配地の一部を占領し、その勢いは止まらず、終に九州王朝政権に反乱を起こしました。

この反乱軍に対して、物部宗家軍を主力に征討軍を組織し、羽白熊鷲軍を追撃します。

しかし、羽白熊鷲軍は山地の要害に恵まれているため、戦いは一時膠着状態に陥りました。

伝承によると「あまぎ水の文化村のせせらぎ館」の裏手雑木山近くで矢に射られて誅殺されたと云う。

図 あまぎ水の文化村周辺地図

この戦いの迹は、『神功皇后伝承を歩く 上 著者綾杉るな 不知火書房刊』が詳しいのでお読みください。

(3)田油津媛の反乱

筑後国山門郡(現みやま市瀬高町・山川町)に盤踞した田油津姫の反乱に対して、征討軍の経路は神功皇后に縁のある各神社の伝承を綴り合わせた「神功皇后伝説」と重なります。

決戦の地を見据え、大本営を現柳川市大和町、陣地を現みやま市山門町藤の尾に設け、現みやま市瀬高町大草で田油津姫を誅殺したと伝えられています。同地区の老松神社には田油津姫の墓とされる「蜘蛛塚」が残っています。

この「蜘蛛塚」はもともと「女王塚」を呼ばれていたのをはばかり、「蜘蛛塚」に改められたと伝えられています。

この「神功皇后伝説」の経路には疑問が残り、わざわざ筑紫野市を迂回する必要性は全くなく、小郡市を流れる宝満川から筑後川に入り、一挙に有明海河口まで下り、戦いの地である筑後国山門郡に進出するのが可及的速やかな行軍進路と考えられるからです。

「宗像三女神」に戦勝祈願するのは、後世の作り話でしょう。

何故なら、宗像神社の祭神「宗像三女神」は後世に祀られたもので故百嶋氏によれば、本来は大国主を祀っていたようです。

また、「大山咋」に戦勝祈願するのも腑に落ちず、さらに国乳別(くにちちわけ)を天皇代行の御手代とするのも腑に落ちません。

国乳別について、『紀-景行天皇紀』では、母襲武媛(そぶひめ)との間に生まれた国乳別皇子と記されています。

「神々の系図-平成12年考」によると、父生目入彦こと贈垂仁天皇と宇佐津姫改め百(もも)姫との間に生まれた王子とし、孝元天皇の直系でもなく、天皇を代行する御手代に就くことなどありえません。

また「水沼君の祖」ではなく「水沼別の祖」としています。

田油津姫征討軍は、開化天皇に即位する前の物部保連を将軍に、主力部隊は物部宗家ウマシマチの後裔が担い、国乳別命も参戦していたと考えられます。

(4)夏羽(なつは)の反乱

夏羽は豊前国田川郡の開拓神、「神夏磯姫(かむなつそひめ)」の後裔と推測され、妹の田油津姫を救援するため軍勢を起こしましたが、時すでに遅く妹の敗戦を知り、逃げ帰り館に籠ったものの、物部保連軍によって焼き殺されたと、伝えられています。

以上、4つの乱が終息するまでに6年の歳月を要したと考えられ、これ

らの乱を総称して「狗奴国の乱」と中国側は認識したのかもしれません。

 

次回は「孝元天皇」(3)です。

 

 

 

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