第八十九話  番外編「武内宿禰系図」

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第八十九話 番外編「武内宿禰」系図  出典:Wikipedia10/30/10/30/ 10:30)

画像が不鮮明で申し訳ありません。

武内宿禰の本来の表記は「竹内宿禰」です。

父は孝元天皇、母は山下影姫別名蘇我姫です。

 

○『古事記』が記す「武内宿禰系図」の検証

 

1.『古事記』が記す「武内宿禰」系図の検証 出典Wikipedia(2021/10/30 10:30

(1)長男羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)

羽田矢代宿禰を祀る神社

香椎宮(福岡市東区)境内末社“朽瀬(くちせ)神社

ご祭神:社家本郷氏の祖羽田矢代宿禰

不思議なことに近畿では祀られていません。

おそらく「羽田は幡」で大幡主系紀氏の裔で、仁徳天皇東遷に随行し、摂津国入りしたと

推測します。

(2)次男許勢小柄宿禰(こせのおからのすくね『日本書紀』に記載なし)

巨勢氏(こせし)は高市郡巨勢郷を本拠とし、姓は始め“臣”、「八色の姓」で“朝臣”。始祖

は許勢小柄宿禰。六世紀以降朝鮮半島の外交・軍事に従事します。継体天皇の御代に「大臣

許勢男人(こせのおびと)」が輩出したとするのが通説です。

巨勢氏を祀る神社

金岡神社  大阪府堺市北区金岡町

主祭神:底筒男命・中筒男命・表筒男命・素戔鳴尊・大山咋命・巨勢金岡(こせの

かねおか)

巨勢金岡は“スサノオの孫、九州王朝の忠臣大山咋(おおやまくい)“の裔ですか

ら、スサノオ系かもしれません。

私見は、巨勢氏の原郷を佐賀県旧巨勢郡高尾村(現佐賀市巨瀬町大字牛島)の巨勢

(こせ)神社周辺と推測します。

『巨勢神社由緒記』に「肥前州巨勢荘鎮守巨勢大明神は、人皇三十七代孝徳天皇の御

代、異賊が壱岐・対馬の二島を犯したので、巨勢大連は征伐の勅を受け、下向し、退治し

た後は西津守護となり、満々たる平野を開き、ここに跡を垂れられたので巨勢の荘と号

し、宗廟巨勢大明神として崇め奉った。」と記しています。

写真   巨勢神社扁額「巨勢大明神」 出典:ブログ”雲の如く 水のごとく”

図  巨勢氏の原郷 旧巨勢郡高尾村(現佐賀市巨瀬町大字牛島) 出典:佐賀市 ”つながる巨勢“

 

(3)(蘇我)石川宿禰

蘇我石川宿禰を祀る神社は九州に集中しています。神社名は印鑰(いんにゃく)神社・

印鑰宮です。

「印は蔵の封をする印鑑で政治権力」を表わし、「鑰は蔵の鍵で財政」を表わします。

印鑰神社・印鑰宮のご祭神は、様々ですが本来は蘇我石川宿禰と推測します。

すなわち、蘇我石川宿禰は現代で云えば「財務大臣」を担い、その権力は侮れなかった

と考えます。

故百嶋氏は、「蘇我氏は瀛氏統領金山彦の裔」と述べています。

主な印鑰神社

香椎宮末社印鑰神社・玉垂神社境外社印鑰神社・熊本県八代市鏡町鏡村印鑰神社・

佐賀市大和町大字尼寺印鑰神社など。

写真 佐賀市大和町「印鑰神社」

(4)平群木莵宿禰(へぐりのつくのすくね)

平群木莵宿禰を祀る神社

香椎宮末社高陪(こうべ)神社 福岡市香椎3丁目

Wikipediaによると、「大和国平群郡平群郷(現奈良県生駒市平群町)を支配地と

し、姓は{臣}後に「朝臣」。雄略天皇の御代、木菟の子真鳥(まとり)が大臣を歴

任とあります。

平群木莵宿禰の「木莵(みみずく)」、その子「真鳥」の名に「鳥」が関係していますので

「武夷鳥命(たけひなどりのみこと)・天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祖とする

「鳥子大神(とりのこおおかみ)」の一族かもしれません。

おそらく、仁徳天皇東遷に随行し、平群郷を支配地として与えられたと推測します。

(5)紀角宿禰(きのつののすくね)

Wikipediaによれば、「大和国平群郡紀里(現奈良県生駒郡平群町上庄付近)を支配地

とし、母系紀伊国造家の出自。

紀角宿禰を祀る神社

平群坐紀氏(へぐりにますきのし)神社  奈良県生駒郡平群町上庄

一説に依れば、紀角宿禰は平群都久(へぐりのつく))宿禰の弟としています。

都久(つく)はミミズクの意であり、もしかすると平群木菟の別名かもしれません。

往馬坐伊古麻都比古(いこまにますいこまつひこ)神社 通称生駒神社 奈良県生駒

市壱分町

主祭神:伊古麻都比古神・伊古麻都比賣神

神奈備(生駒山)をご神体として祀る日本有数の古社。

写真 往馬坐伊古麻都比古神社

図  生駒市壱分町周辺の地図

(5)葛城襲津彦

①葛城氏の故地「神埼市背振町鹿路地区桂木」

故百嶋氏は「背振路-背振村公民館編昭和40年12月25日」を引用し、

・背振山地は中国山地と同様に風化した花崗岩砂の中に磁鉄鉱が砂鉄として存在。

・背振村は「新羅の村」・「鉄の村」とも言われる。

・神埼市背振町には伊福・倉谷・タタラ橋・川原(香春)などの製鉄・採鉱に関係する

地名が大変に多い。

・伊福は伊福部つまり冶金に関係した部の定着を思わせる。

・忍海漢人(おしうみあやひと)や伊福部は砂鉄を原料として鉄製武器の製作に従事し

た人物であろう。

・「葛城氏も鹿路地区桂木で鉄製武器の製作に従事した集団」と故百嶋氏は推測してい

るようです。

『肥前國風土記・延喜式・和名抄』によると神埼郡は三根が分離しない頃は15郷から

成る最大の郡であり、筑紫米多(めた)国造の勢力基盤下であったと言われていま

す。

そして、三根は縣主の勢力図の上に成立していたと言われています。

『日本書紀-雄略天皇紀』が記す「嶺(みね=三根)の縣主」がその支配者と考えられ

ます。

②葛城氏の支配地

『和名抄』に「三根郡葛城郷」が見え、『三代実録-貞観15年(873)9月16日条に「葛

城一言主」が見え、千歳川(現筑後川)に近い天建寺土井内に祭祀されていた式外社の一

つであることから、葛城郷は天建寺一帯に比定されます。

③葛城氏を祀る神社

葛城神社  佐賀県三養基郡みやき町天建寺土井内

ご祭神:一言主神

写真 葛城神社神紋「木瓜に十字剣」

④葛城氏のルーツ

神功皇后の母「葛城高額比売はスサノオの曾孫」、「葛城高額比売の祖父はスサノオの孫、

祖母は瀛(いん)氏金山彦系」という血縁関係です。

葛城神社の神紋「木瓜に十字剣」を観察すると「木瓜は大率姫(き)氏」ですが、九州王

朝を支えた一族も「木瓜紋」を採用しています。「十字剣は、瀛(いん)氏金山彦の紋」で

す。

したがって、葛城氏は神功皇后の祖父母の時代に枝分かれした一族で、九州王朝を支えた

最重要の氏族瀛氏の裔と推測します。

葛城襲津彦の別名は「嶺(=三根)の縣主」です。

図  葛城氏の故地「神埼市背振町鹿路地区」周辺地図

図  佐賀県三養基郡みやき町天建寺土井内周辺地図

(6)若子宿禰(『日本書紀』に記載なし)

述べるまでもありません。允恭天皇の諱「雄朝津間稚子宿禰」

と同一人物ですから、武内宿禰の御子ではありません。

 

次回は「反正天皇」です。

 

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