第八十八話 「履中天皇」(2)

ブログ

 

写真  「大住舞(おおすみまい)」 出典:京田辺市観光協会

 

○即位前紀

○住吉中皇子暗殺事件の疑問

○物部氏との繋がり

○皇后・妃と皇子・皇女

 

1.即位前期

「仁徳天皇崩御後、しばらく天皇に即位できない状況が続き、その間に羽田矢代宿禰(はたや

しろすくね)の娘黒媛を妃に迎えようとしましたが、実弟の住吉仲皇子(すみのえなかのおう

じ)は、兄の名をかたり黒媛を我が物にしました。

住吉仲皇子は事の発覚を恐れ、兄である太子を暗殺する計画を立て、兵を起こし兄の宮を取り

囲みました。

この事態を察知した平群木菟宿禰(へぐりつくのすくね)・物部大前宿禰・漢直の祖阿智使主

(あちおみ)の三人は太子暗殺計画が喫緊に迫っていることを警告しましたが、太子は信用しま

せんでした。

一書では、馬に乗せて太子を逃亡させたとあり、或いは大前宿禰、太子を抱いて馬で逃亡した

とも記しています。

逃亡経路は、難波をかえりみ、河内國埴生坂(現大阪府羽曳野市野々市付近)で目が覚め、當

摩径(たじまみち 古市・百舌鳥両古墳群のほぼ中央を走る東西道路、奈良盆地を東西に横断す

る道路)を超え、龍田山を越し、倭に向かう途中、龍田山で住吉仲皇子の追討軍安曇連濱子(あ

ずみのむらじはまこ)並びに倭直吾子龍(やまとのあたいあごこ)と戦闘態勢に入りましたが、

説得工作により、無事危機を逃れました。

その後、紆余曲折を経て実弟瑞歯別皇子(みずはわけおうじ)が援軍に駆けつけ、暗殺者隼人

の刺領巾(さしひれ)に命じて住吉仲皇子を暗殺。即日倭に向かい、石上に滞在していた兄に復

命します。

説得工作に応じた安曇連濱子並びに倭直吾子龍は罪を軽減されました。」

『古事記』は『日本書紀』と違い、暗殺者を曾婆訶里(そばかり).と固有名詞で表記してい

ます。

曾婆訶里は大住隼人の出身で(薩摩では大隅隼人と表記)、仁徳天皇東遷以前に山背國綴喜郡

大住地区(現京田辺市大住地区)に移住していたようです。

図   京田辺市大住地区周辺地図 出典:Wikipedia(2021/11/05       9:00)

写真  「大住舞」 出典:京田辺市観光協会

3.住吉中皇子暗殺事件の疑問

(1)登場人物に「宿禰の濫発」

皆さんは上記記事の「宿禰の濫発」に違和感を覚えませんか。

『日本書紀』編纂者は、辻褄合わせのため「三人の宿禰は武内宿禰の御子」という体裁を

整えたのです。

三人の宿禰は本当に「武内宿禰」の御子でしょうか。

(2)逃亡経路

『古事記』とは違い、逃亡経路は最短ルートです。

追討軍から必死に逃亡したようです。

何故、「石上(神宮)に籠もったのでしょうか。」

石上(神宮)は、近畿における物部氏の武器庫です。

(3)去来穂別皇子の宮はどこか

仁徳天皇の皇太子であれば、難波住之江に居住していた筈ですが、『日本書紀』編纂者は

「難波をかえりみ」との表現で、辻褄合わせをしているものの、何故か難波に戻る記述は見られ

ません。

弟瑞歯別皇子は倭(やまと)に向かいましたが、石上(神宮)に留まったままの兄去来穂別

皇子に「住吉中皇子暗殺の成功」を復命します。

去来穂別皇子の宮には「磐余若桜宮(現桜井市谷説と桜井市大字池内説」がありますが、遺

構は未だに発見されていません。

正統天皇ではないので宮は存在しません。

(4)住吉仲皇子の宮はどこか。

名前から判断して「住之江(すみのえ)」に宮が存在したと考えます。

おそらく、仁徳天皇が現地で娶った妃の御子が住吉仲皇子であったと推測します。

本来は、去来穂別・瑞歯別皇子兄弟による住吉仲皇子襲撃事件ではないでしょうか。。

(1)~(4)の推測が正しければ、九州王朝とは異なる政治集団による住吉仲皇子襲撃事件

と推測します。

『新訂増補 國史体系8所収釋日本紀-帝皇系図 𠮷川弘文館』で、著者卜部兼方(うらべかね

かた)は、「履中天皇は住吉中皇子」である可能性を指摘しています。

注)逃亡経路は、近鉄南大阪線路線図を参照していただくとわかりやすいと思います。

物部氏との繋がり

『日本書紀-履中天皇三年冬十一月条』

「兩枝船(ふたまたふね))を磐余礒池(いわれしきいけ)に浮かべ、(中略)時に櫻の花が落

下しているのを見て.時季外れの櫻はどこの花かと物部長真膽連(ものべのながまくいのむら

じ)に尋ねたところ、掖上室山の櫻を移植しましたと答えられました。故、磐余雅櫻宮と申す。」

写真  兩枝船=双胴船? 出典;Wikipedia(2021/11/01 20:15)

物部長真膽連について、『新撰姓氏録-右京神別上』は、「若櫻部造を饒速日命(にぎはやひのみこと)三世の孫出雲色男命(いずもしこおのみこと)の後、四世の孫としています。

『先代旧事本紀』は、「饒速日尊-宇摩志麻治命-出石心大臣命-大矢口宿禰-大綜杵命-伊香色謎命-十市根命-物部膽咋(=物部長真膽連)としています。

同書に対する私の評価は「物部宗家・大水口物部・大矢口物部をごちゃ混ぜにした記述」には疑問を持っています。

「物部宗家宇摩志麻治命は大水口物部、大矢口物部はウガヤフキアエズを始祖」としています。

私見は、両系譜から物部長真膽連は大矢口物部の庶流と推測します。

『日本書紀』記事から、物部長真膽連は履中天皇の近臣という関係が見えてきます。

なお、「桜井市の名の由来」は上記記事に依ります。

4.皇后・妃と皇子・皇女

(1)葦田宿禰の娘黒媛を皇后。

御子はありません。

葦田宿禰を武内宿禰の孫としていますが、父葛城襲津彦に「宿禰」がないのは不思議です

ね。

加えて武内宿禰の男子の御子のうち、何故葛城襲津彦のみ宿禰がないのでしょう。

考えられるのは、以下の2点です。

①葛城襲津彦の父は武内宿禰ではない。

②葛城襲津彦以外の兄は武内宿禰の御子ではない。

(2)名前不詳の妃との御子

磐坂市邉押羽皇子(いわさかいちべおしはのおうじ)・御馬皇子・青海皇女の三柱。

一書に云う。「飯豊皇女という」

(3)妃幡梭(はたひめ)皇女との御子

中礒皇女の一柱。

謎の幡梭皇女が再度登場します。『日本書紀』編纂者は、辻褄合わせのため、皇后黒媛没後

に幡梭皇女は皇后に即位します。

通常ならば、幡梭皇女を最初から皇后にすべきです。

 

次回は番外編「武内宿禰の系譜」です。

 

タイトルとURLをコピーしました