第百二十七話  「推古天皇」(1)

写真 稲佐神社「肥前鳥居」

○推古天皇治世下の「任那」記事

○推古天皇治世下の外交記事

 

 1.推古天皇治世下の「任那」記事

「八年春二月 新羅と任那が交戦状態に入り、天皇、任那を救わんと境部臣を大将軍、穂積臣を副将

軍とし、万余の兵を率いて、任那のために新羅を撃つ。(中略)新羅の王、白旗を揚げ降伏。(中

略)天皇、難波吉士磐金を新羅に、また難波吉士木蓮子を任那に派遣し、無事休戦協定が整い、ここ

に新羅・任那は朝貢することになりましたが、新羅は任那救援軍の帰国後は盟約を破り、任那への侵入

を続けます。」

『日本書紀-敏達天皇紀』編纂者の歴史認識には驚きますね。

おそらく「推古天皇紀」の編纂者は「ヤマト王権が正統な王権である」ことを主眼に都合良く編纂し

たと考えられます。

『隋書俀国伝』と著しい記述の乖離があろうとも強引に「ヤマト王権」に結びつけていることからも

明らかです。

第百二十話で詳述した「任那」問題を再掲すると

西暦524年から始まった新羅による伽耶地方(安羅国を除く任那諸国)の侵略は実を結び、西暦532年

「金官伽耶国」を併合します。その結果、金官伽耶国にあった任那日本府は安羅国へと移動せざるを

得ませんでした。

その後も新羅の任那諸国への侵略は続き、西暦561年 任那諸国の強国「大伽耶国」も併合されま

す。

百済は新羅との「羅済同盟」を有効に生かし、西暦562年「安羅国」は百済に併合されます。ここに

「任那日本府」は滅亡しました。

『日本書紀』編纂者による「ヤマト王権による新羅の降伏」記事は、全く歴史的事実と違います。

推古天皇治世下では任那日本府滅亡後、三十年以上経過しており、「任那復権」は考えられません。

なお、大将軍境部臣・副将軍穂積臣の任那救援軍派遣記事は、おそらく西暦530年前後と推測しま

す。任那救援軍は新羅に敗れ、西暦532敗残軍は九州へ帰国しました。

『日本書紀』編纂者は任那救援軍の大・副将軍の名を故意に隠しています。

 

2.推古天皇治世下の外交記事

 

番号 年号 西暦年 内容
(1) 五年四月 597年 百済、王子阿佐を遣わし、朝貢。
(2) 九年三月 601年 大伴連噛を高句麗、坂本臣糠子を百済に遣わし、速やかに任那を救えとの詔、
(3) 十年二月 602年 来目皇子を将軍とし、新羅征討軍二万五千の兵を授ける。その後、来目皇子は渡海しないまま翌年死亡。
(4) 十一年四月 603年 来目皇子の後任として當麻皇子を任命。明石付近で

當麻皇子急死。新羅征討を諦める。

(5) 十五年七月 607年 大禮小野臣妹子を大唐に派遣
(6) 十六年四月 608年 小野臣妹子、大唐の使人裵世清等を伴い、帰国。唐国では妹子臣を蘇因高と呼ばれていた。唐からの国書を百済で紛失したが、咎められなかった。
(7) 十八年三月 610年 高麗王、僧曇徴・法定を奉る。
(8) 十九年八月 611年 新羅・任那の使人来朝し、朝貢する。
(9) 二二年六月 614年 犬上御田鍬・矢田部造を大唐に派遣。翌年、二人は大唐より帰国。
(10) 二六年八月 618年 高麗、使いを遣わし、方物を献上。
(11) 二九年 621年 新羅、奈末伊彌買を遣わし、朝貢。
(12) 三一年 623年 新羅、任那を伐つ。
(13) 三三年正月 625年 高句麗王 僧恵灌を奉る。

 

以上の記事について検証してみましょう。

(1)百済、王子阿佐を遣わす。

稲佐山累縁起によると「百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇(在位539~571年)の勅命により、火

の君(橘一族)を頼り、稲佐に妻子従僕数十人を連れ、八膄の船にて来航」とあります。

正しくは、威徳王(在位554~598年)の王子で、聖明王の孫になります。

阿佐太子の来朝は、推古天皇の治世下ではなく、欽明天皇・威徳王の在位年代から560年代後半と推

測されます。

阿佐太子は聖徳太子の肖像画を描いたと言われています。その肖像画「聖徳太子二王子像」は法隆寺

に伝来されました。

稲佐神社  佐賀県白石町辺田

ご祭神:五十猛命・大屋津姫命、後に阿佐太子を合祀

天然記念物「楠」樹高26.5㍍

 

写真 稲佐神社「肥前鳥居」(鳥居の柱下部が太くなっているのが特徴)

出典:佐賀県白石町HP

写真 稲佐神社境内地に置かれた案内板

出典:ひぼろぎ逍遥跡宮 No.508

(2)大伴連噛を高句麗、坂本臣糠子を百済に遣わし、速やかに任那を救えとの詔、

『日本書紀』は推古天皇31年7月に任那救援軍を派遣したと記しています。

余りにものんびりしすぎではないでしょうか。

任那日本府滅亡(562年)後、凡そ60年を経過して任那救援軍を派遣するはずもありません。

おそらく、任那救援派遣軍は、新羅による「金官伽耶国」の併合、「金官伽耶国内にあった任那

日本府の安羅国への移動」前に派遣されたと考えられます。

同記事で見逃せない点は、任那救援派遣軍の構成です。

①大将軍境部臣雄摩侶・中臣連國

境部臣雄摩侶は九州王朝の重臣とは考えられず、本来の名は紀男摩呂(きのおまろ)でしょう。中臣

連國は阿蘇族系で、大将軍には相応しくありません。

②副将軍河邉臣禰受・物部依網連乙等・波多臣廣庭・近江脚身臣飯蓋・平群臣宇志・大伴連・大宅臣

の七名。

私見は、「大率姫(紀)氏」、「大幡主系紀氏」が中心であったと推測しています。

なお、「官位の大徳・小徳」の表記は『隋書俀国伝』が記す官位と一致しています。但し、「冠位十

二階」とは相違しています。

『日本書紀』編纂者はうっかりしていたのでしょう。

(3)新羅征討軍の将、来目・當麻皇子

(2)より新羅征討軍の実態は任那救援派遣軍ですから、両皇子は『日本書紀』編纂者の脚色と考え

られます。

(4)省略

(5)大禮小野臣妹子を大唐に派遣

『隋書俀国伝』は

「開皇二十年(推古八年、西暦600年)俀王がおり、姓は阿毎(アメ)、字は多利思北孤(タリシホ

コ)、阿輩雞弥(オホキミ)と号した。使いを遣わして闕(隋都長安)に詣でました。」

「大業三年(推古十五年、西暦607年)その王多利思北孤が、使いを遣わして朝貢した。使者が言う

には“海西の菩薩天子が重ねて仏法を興す”と聞いている。故に遣わして朝拝させ、かねて沙門数十人

が、中国に来て仏法を学ぶのである“と。その国書にいうには”日出ずる処の天子”が、書を日没する処

の天子に致す。恙はないか、云々」

「明年(大業四年、推古十六年、西暦608年)上は文林郎裵清を俀国に遣わした。(中略)東にいっ

て一支国に至り、また竹斯国(筑紫)に至り、また東にいって蓁王国に至る。その住民は華夏に同じ

く夷州とするが、疑わしく明らかには出来ない。また十余国を経て海岸に達する。竹斯国から以東は、

みな俀に附庸する。俀王は小徳阿輩台を遣わし、数百人を従え、儀杖を設け、鼓角を鳴らして歓迎しま

した。その十日、大礼哥多毗を遣わし、二百余騎を従え、裵清を労いました。すでに彼の都に到着し

ました。(中略)この後、ついに絶えた。」とあります。

大禮小野臣妹子の名は『隋書俀国伝』には見えません。

『日本書紀』編纂者は、隋の使者裵清を何故か、「裵世清」と記しています。

裵清は九州から一歩も出ず、隋へ帰国していますので、ヤマトへは寄っていません。

また、推古天皇・厩戸皇子は一切、記述されていません。

おそらく『日本書紀』編纂者は『隋書俀国伝』を見ており、脚色して記述したと考えられます。

小野臣妹子が、隋からの国書を紛失しても咎められなかった理由は、元々「隋の国書」はなかったの

です。『日本書紀』編纂者の脚色記事です。

(6)省略

(7)高麗王、僧曇徴・法定を奉る。

王の名もない不審な記事としか言い様がありません。

(8)新羅・任那の使人来朝し、朝貢する。

公式な使節とは考えられません。

(9)犬上御田鍬・矢田部造を大唐に派遣。翌年、二人は大唐より帰国。

唐の建国は西暦618年であり、『隋書俀国伝』・『新唐書 東夷日本伝』に記述がなく、不

審な記事としか言い様がありません。

(10)高麗、使いを遣わし、方物を献上。

(7)と同じ見解です。

(11)新羅、奈末伊彌買を遣わし、朝貢。

(8)と同じ見解です。

(12)新羅、任那を伐つ。

100年前の事件を挿入しています。

(13)高句麗王 僧恵灌を奉る。

(7)と同じ見解です。

以上の検証結果から、「ヤマト王権」を飾り立てるため、歴史認識をねじ曲げ、潤色記事が目立ちま

す。

 

 

次回は「推古天皇」(2)です。

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