第五十七話  「崇神天皇」(3)

図  纏向遺跡周辺地図

発掘範囲を広げては今も続いているようですが、現在に至るまで「宮」の建物遺構が発見出来て

いない状況です。

○自称神武天皇

○二人のハツク二シラス論

○纏向宮

○贈崇神天皇ことツヌガアラシトの家系図

1.自称神武天皇

故百嶋氏は、「大和(やまと)国を支配地として与えられたツヌガアラシトは、現地で「自称

神武天皇」を名乗り、方々に吹聴して廻り、纏向を拠点とした」と講演会で述べています。

2.二人のハツク二シラス論

戦後、歴史学会では「二人のハツク二シラス論」から派生して「神武天皇架空説」が飛び交い、

現在も続いているようです。

神武天皇東遷以後、皇后の名が唐突にすり替わっている記述に対して、歴史学者は失念してい

るようです。

○『日本書紀-神武天皇』

「始馭天下之天皇(ハツク二シラススメラノミコト)」

「始めて天下をシラス天皇」

○『古事記-崇神天皇』

「所知初国之御眞木天皇(ハツク二シラス御眞木天皇」

「初めてをシラス御眞木天皇」

両記事を比較すると、「二人のハツク二シラス論」に違和感を覚えませんか。

贈崇神天皇は「天下ではなく、初めて国を支配地とすることができた。」のです。

贈崇神天皇は、初めての支配地で「栄光ある初代神武天皇」を騙ったのです。

3.纏向宮

纏向遺跡の名の由来は、垂仁天皇の「纏向珠城宮」、景行天皇の「纏向日代宮」より名付けら

れました。

同遺跡から弥生時代の集落や環濠も検出されていないことから、同遺跡は突然出現し、ごみの

一斉投棄後、唐突に打ち捨てられたことがわかります。

同遺跡には祭祀遺跡と鍛冶遺跡が認められものの、宮殿遺跡は認められません。大集落遺跡と

喧伝されていますが、人が住む集落跡や農工具も殆ど出土せず、土木工事用の工具が圧倒的に多

いのです。この工具の用途を検討すると、道路遺構が検出されていないので、矢板で護岸した幅5

m、深さ1mの直線的な水路造成にあったのかもしれません。

したがって、現時点の発掘調査では「纏向宮」を想定することは出来ません。

写真 「纏向遺跡居館跡の調査」案内板  出典:桜井市HP

4.贈崇神天皇ことツヌガアラシトの家系図

表9 贈崇神天皇ことツヌガアラシトの家族

関係 名前 生年
大山咋またの名熊甲安羅梶彦・大直日・速瓶玉 AD162
鴨玉依姫またの名神直日 AD167
活玉依姫、夫は事代主 AD187
稲飯命 AD193
倭彦またの名椎根津彦(梶取) AD197
大海姫、父ウガやフキアエズ、母は下照姫 AD200
長男 八坂入彦またの名豊城入彦(母)大海姫 AD215
次男 (盟神探湯)壱岐真根子(母)五十鈴姫 AD222
長女 国片姫後に孝元天皇の妃(母)五十鈴姫 AD224

生年は故百嶋氏の推定

図  故百嶋雄一郎氏作成「贈崇神天皇(中臣氏の始祖)の系図」

次回は番外編「都怒我阿羅斯等」です。

 

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