第百三十話   「舒明天皇」(1)

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写真  「菌(くさひら)神社」

 

○推古天皇薨去後の後継者を巡る争い

○田村皇子とは

○蘇我蝦夷とは

○舒明天皇の父押坂彦人大兄皇子とは

○皇后寶皇女とは

 

1.推古天皇薨去後の後継者を巡る争い

(1)推古天皇の遺勅

同天皇は生前、二人の皇太子に口頭試問を実施しました。

①田村皇子「天下を治めるための根本」を問いました。

田村皇子に「天皇としての大局観」を備えるように教え戒める内容です。

②山背大兄皇子「独断専行することなく、群臣の意見に耳を傾けよ。」

山背大兄皇子の性格を熟知した上での内容です。

(2)蘇我氏諸族

直情径行型の山背大兄皇子を危惧し、田村皇子を天皇に推戴します。これにより後継者は結

着をみます。

 

2.田村皇子とは

父は敏達天皇の第一皇子押坂彦人皇子、母は息長足(しなたらし)真手王の娘広姫とありま

す。妹の酢香手姫は齋宮に仕えます。

斎宮は伊勢の皇大神宮ではありません。造営はずっと後の時代です。

第百二十一話で敏達天皇は九州王朝の正統な大王ではないことを紹介しました。

したがって、田村皇子も同様に九州王朝の正統な皇子とはいえません。

母廣姫は敏達天皇の皇后ですが、敏達天皇も正統な九州王朝の大王ではありません。

田村皇子の別名は「麻呂子皇子(まりこおうじ)(A)」と考えられます。

用明天皇と葛城直磐村の娘廣子の間に誕生した第三皇子の名は「麻呂子皇子(B)」で、民間

伝承では同皇子が有名です。

他方、(A)の麻呂子皇子は管見に見えません。

(B)の「麻呂子皇子」を祀る神社は

・竹野神社境内摂社の斎宮神社  京都府京丹後市丹後町宮

「麻呂子親王鬼退治と七仏薬師伝説」が伝わっています。

・当麻山口神社の境内社 当麻都比古(たいまつひこ)神社 奈良県葛城市当麻

ご祭神:麻呂子皇子・当麻津姫

母の名を葛城当麻倉首比理子とし、『日本書紀』では、葛城直磐村の娘廣子と記し、微

妙に違っています。

高名な当麻寺(たいまでら)の伝承によると、「もとは聖徳太子の異母弟が創建した万法

藏院が始まりで、白鳳時代に當麻の地に移転した」とあります。

皆さんは(A)・(B)の「麻呂子皇子」の実在を信じますか。

(B)の「麻呂子皇子」は、現在の奈良県葛城市当麻地区を本拠としていたようです。『日本

書紀』は「當麻君」の祖と記しています。

実は、「まりこおうじ」はもう一人『日本書紀』に記されています。

継体天皇と倭媛との皇子「椀子(まりこ)皇子」です。

同皇子を祀る神社は

・國神神社  福井県坂井市丸岡町石城戸町

主祭神:椀子皇子

由緒は「磨留乎加(まるおか)に皇子の胞衣(えな)を埋めて神明宮としたのが始まり」として

います。

「まりこ」の名の由来は、仏教の禮拜用具として使用される「おりん」に謂があるかもしれま

せん。

写真 神戸市上沢(かみさわ)遺跡出土「佐波理椀(おりん)」  出典:文化遺産オンライン

舒明天皇ゆかりの神社に、滋賀県栗東市中沢の「菌(くさびら)神社」があります。

・菌神社

ご祭神:大斗能地神(おおとのじのかみ=天神第五代大戸之道尊=スサノオ)・大戸門辺尊

=櫛稻田姫)

本来は素戔嗚尊夫婦を祀る神社と考えられます。

由緒「舒明天皇九年(637)に勧請したと伝わる古社。菌(くさびら)とは、キノコの古い表現で、

大昔飢饉に苦しんでいた人々が神様にお祈りしたところ、一夜にしてキノコが生え、村人を飢えから

救った。」と伝えられています。

写真 「菌神社」   出典:栗東市観光協会HP

3.蘇我蝦夷とは

本来の名は「蘇我善徳」です。熱心な仏信徒で外交にも秀でていたようです。本当かどうかわ

かりませんが、ご本人は謙遜して「毛人(えみし)」と称したようです。

『日本書紀』編纂者は蔑称表記として「蝦夷」を採択したと考えられます。

 

4.舒明天皇の父押坂彦人大兄皇子とは

十三年前、妻の両親の介護をするため、東京から松山へ転居し、そこでは五年間居住し、合田

洋一氏が主催する「古田史学の会・四国」に入会しました。

その会で知遇を得た西条市の今井久氏と「斉明天皇伝承」について、実地調査を行いました。

二人で出した結論は「斉明天皇を疑えば、舒明天皇も疑わねばならない。」に落ち着きまし

た。

しかし、この結論は恐れ多く、とても前に進むことは出来ませんでした。

第百二十一話で「敏達天皇は正統な天皇ではない」と綴った以上、避けては通れません。

下記の図をご覧ください。

図 舒明天皇の系図   出典:Wikipedia(2022/08/03 10:00)

舒明天皇の父は「押坂彦人大兄皇子」です。

今日(こんにち)の皇室は押坂彦人大兄皇子の男系子孫で「皇祖」とも呼ばれていることをご

存知ですか。

私が、恐れ多いとする理由です。

Wikipediaによれば、「押坂彦人大兄皇子」は刑部(おさかべ)と丸子部を預かり、財政基盤

は堅固で「水派(みなまた)宮(現在の奈良県北葛城郡広陵町)」に住まわれたとあります。

おそらく、孫の寶皇女が後に皇極・斉明天皇に即位したことにより、格上げされ、「水派宮」

にお住まいになったと考えられます。

押坂彦人大兄皇子が支配する刑部・丸子部について検証すると

①刑部

允恭天皇の皇后忍坂大中姫の名代(なしろ)刑部(おさかべ)が押坂彦人大兄皇子に継承さ

れたとする憶測に基づいた説で、信憑性はありません。

②丸子部

丸子部は大河の「渡し守」を管掌する部と考えられています。ヤマトに大河は存在しません

ので、押坂彦人大兄皇子が名代として預かるはずもありません。

Wikipedia によると、胡井上光貞説を取り上げ、「丸子・丸子部を、6世紀から7世紀にかけて

みられる複数の“マロコ皇子”と称する皇子のために設けられた名代・子代を預かるマロコ氏と見

なし、陸奥国牡鹿郡・安房国朝夷郡・相模国鎌倉郡の丸子連も全てマロコ王系の丸子に分類でき

る。」としています。

私見は、故井上説と違い“マロコ皇子ではなくマリコ皇子”ですが、「押坂彦人大兄皇子=麻呂

子皇子または椀子皇子」説には自信がありません。

 

5.皇后寶皇女とは

父は茅渟王、母は吉備姫王。両親を検証すると

(1)茅渟王

父は押坂彦人大兄皇子、母は大俣(女)王

大俣王は管見に見えません。

寶皇女は舒明天皇の異母妹で、舒明天皇の皇后という奇妙な関係にあります。

(2)吉備姫王

奈良県高市郡高取町の大字に「吉備」があります。

地理的に見て押坂彦人大兄皇子との関連性も見えません。

吉備姫王は「吉備国」の王女で、輿入れ後、同地に子代として土地を与えられ、その地が「吉備

(奈良県高市郡高取町大字吉備)」と命名されたと推測します。

次に、寶皇女の経歴を検証すると

(3)生年

Wikipediaによると、生年は西暦594年とあります。

『日本書紀-斉明紀』によると

「初めに、用明天皇の孫の高向日王に嫁ぎ、漢(あや)皇子を生み、その後、舒明天皇の皇后と

なった。」とあります。

寶皇女が舒明天皇の皇后になった年は、舒明二年(630)で、寶皇女は36歳で皇后に即位した

ことになります。

当時としては高齢にも関わらず、二男・一女に恵まれます。

第一王子、葛城皇子後の天智天皇の生年は、常識的に見て生年は630年以降と考えますが、通説

は推古三十四年(626)とあり、6~7年ほどの開きがあります。

この面妖さはどのように考えたら良いのでしょうか。不思議ですね。

(4)最初の夫高向王とは

『本朝後胤招運録』によると、高向王は用明天皇の子とあります。

高向王も管見に見えませんが、『日本書紀-皇極四年(645)六月条』には、高向王の裔と推測

される高向臣國押、また漢皇子の裔と推測される漢直等は、いわゆる「大化の改新」の首謀者中

大兄皇子に対抗して、政権から去ることを宣言しています。

したがって、高向臣國押ならびに漢皇子は蘇我氏と関わりの深い人物であったと考えられます。

何故か、葛城皇子が中大兄皇子にすり替えられていることに注目してください。

そもそも、第一皇子が「中大兄皇子」と呼ばれるはずもなく、「中大兄皇子」とは、第二皇子以下

の呼称で、兄の第一王子がいたはずです。

注)『本朝後胤招運録』

後小松上皇の勅命により、当時流布していた「帝皇系図」など、多くの皇室系図などを照合・勘案し

これに天神七代・地神五代を併せて作成し、応永三十三年(1426)に成立。

 

 

 

次回は「舒明天皇」(2)です。

 

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