第百十六話  「宣化天皇 和風諡号武小廣國押盾天皇」

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写真 鳥屋ミサンザイ古墳

○都を檜隈の廬入野に遷す。

○『日本書紀-宣化天皇元年二月条』

○『日本書紀-宣化天皇元年三月条』

○『日本書紀-宣化天皇元年五月条』

○『日本書紀-宣化天皇二年十月条』

○『日本書紀-宣化天皇四年二月条』

 

1.都を檜隈(ひのくま)の廬入野(いほりの)に遷す

インターネットで檜隈(ひのくま)という地名を検索すると、大分県日田市日ノ隈がヒットしまし

た。

私見を述べると、仮想敵国「新羅」(後に現実となるのだが)に対する防衛ラインを考えると都は水

城や神籠石山城で囲む「太宰府周辺」あるいは「九州の古代街道の幹線道路上周辺」に置くのがベス

トと考えています。

大分県日田市日ノ隈は、幹線道路上から外れているので、都には不適です。

宣化天皇に関する事跡・伝承が九州には全く見られません。

故喜田貞吉博士は「欽明朝と安閑・宣化朝の二朝並列」を考えたようです。

私見は「兄安閑天皇は九州王朝の王」、「弟宣化天皇は九州王朝分家の王」と推測してい

ます。

「ヤマト王権の初代王」とはいえません。

都は、『日本書紀』の補注にあるように、墓誌銘「檜前五百野宮(ひのくまいおのみや)」ではない

かと推測しますが、遺構は見つかっていません。

「檜前五百野宮」は現在の奈良県高市郡明日香村大字檜前という地名で遺存しています。

注)故喜田貞吉博士(1871~1939年)

第二次世界大戦前の日本の歴史学者。文学博士。考古学・民俗学を取り入れ、学問研究を進めた。

図 奈良県高市郡明日香村大字檜前周辺地図

橿原市に在住時代、二度ほど訪れましたが、「辺鄙なところだなー」と言うのが第一印象

でした。

2.『日本書紀-宣化天皇元年二月条』

大伴金村大連を以て大連とし、物部麁鹿火大連を以て大連とし、蘇我稲目宿禰を以て大臣とし、阿倍

大麻呂を以て大夫とす。

「大連は複数制」、「大臣は単独制」という政治体制はよくわかりません。

ようやく蘇我氏が出てきました。蘇我氏宗家がヤマトへ進出します。

紀氏系阿倍大麻呂の職制「大夫(たゆう)」は、現代で云えば「財務次官」と推測されます。

3.『日本書紀-宣化天皇紀元年三月条』

億計天皇の娘、橘仲皇女を立てて、皇后とす。二人の間に上殖葉(かみつゑ)皇子、またの名は椀子

(まろこ)。椀子皇子の名を記憶に留めてください。

 

4.『日本書紀-宣化天皇紀元年五月条』

天皇は前年に発生した北部九州の干ばつあるいは冷害の飢饉対策として「那津(なのつ)河口を集積

地とし籾を運び込む」ことを命じました。

(1)名前不詳の阿蘇乃君を遣わし、河内國の茨田堤の籾

(2)蘇我大臣稲目宿禰は尾張連を遣わし、尾張国の屯倉の籾

(3)物部大連麁鹿火は新家(にいのみ)連を遣わし、新家屯倉の籾

(4)阿倍臣は、伊賀臣を遣わし、伊賀國屯倉の籾

(5)筑紫・肥・豊の三国の屯倉は冷害で籾を集めることは出来ない。

以上から、北部九州の飢饉対策として、那津河口に籾を集積し、北部九州へ分配することを命じたと

考えられます。

 

5.『日本書紀-宣化天皇紀二年十月条』

天皇、大伴金村大連に命じて、其の子「磐と狭手彦」を新羅の任那侵攻に対応するため任那救援に向か

わせました。磐は筑紫に留まったが、狭手彦は海を渡り、任那・百済の救援に成功したとあります

が、果たしてそうでしょうか。

私見は失敗したと推測しています。

6.『日本書紀-宣化天皇紀四年二月条』

宣化天皇崩御。大倭国の身狭桃花鳥(むさのつき)陵に葬り、その後橘皇后と其の孺子を合葬しまし

た。

一方、『古事記』は宣化天皇の崩年ならびに陵墓についての記述はありません。

写真 鳥屋ミサンザイ古墳 奈良県橿原市鳥屋町身三才 出典:ぶろぐ“ペンの古墳探訪記”

 

次回は「欽明天皇」です。

 

 

 

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