写真 見渡す限りの古墳群
○即位した経緯
○手白香皇后とは
○都を大倭國の勾金橋に遷す
○「屯倉」の設置
○二年八月 諸国に「犬養部(いぬかいべ)」を設置
○二年九月 「屯倉」の税を管理する役人として櫻井田部連・縣犬養連・難波吉士等を任命
○二年十二月 安閑天皇崩御
1.即位した経緯
『日本書紀』は継体天皇の治世を二十五年としていますが、元年に手白香皇女を皇后に迎え
たとあります。
継体天皇は二十八年に崩御した時、皇后との御子、後の天國排開廣庭天皇は当時三才と推測
されます。
余りに皇太子が幼いため、男大迹王時代に尾張連草香の娘目子媛との間に誕生した廣國排武
金日尊と武小國押楯尊兄弟の兄廣國排武金日尊が天皇として即位したと『日本書紀』は記して
います。
皆さんはこの記事をどう思いますか。
『日本書紀-継体天皇六年冬十二月条』では、勾大兄皇子こと後の安閑天皇は崩御したと記述
しています。
死者が復活して天皇に即位できるでしょうか。
あるいは『日本書紀』編纂者の混乱とみるべきでしょうか。
さらに不思議なのは、皇后として迎え入れた手白香皇女が、二十五年間御子が誕生していな
いのはどうみても理解不能です。
手白香皇后は、御子を天皇に即位させることは強行できたと推測しますが、後述する「白髪
部設置」で懐柔されたのではと推測します。
2.手白香皇后とは
手白香皇后が継体天皇の皇后に迎え入れられたのは、継体元年ではなく、二十五年の出来事
であったと推測されます。
そうでないと、手白香皇后の御子、後の天國排開廣庭天皇の年齢と辻褄が合いません。
おそらく手白香皇后は磐井の娘と考えられます。
継体天皇元年、手白香皇后のため、國ごとに三種の白髪部を設置します。
・白髪部舎人(とねり)
・白髪部供膳(かしはで)
・白髪部靫負(ゆけい)
天皇家の直轄地屯倉を割いて皇后のために譲渡し、加えて人員を配置しています。おそらく、こ
の処遇は継体天皇元年ではなく、継体天皇二十五年の出来事だと推測します。
正統天皇の娘である手白香皇后と庶流出身の継体天皇との関係は、主従関係かもしれません。
3.都を大倭國の勾金橋に遷す
「勾金橋」を『日本書紀』補注は、現奈良県橿原市曲川町周辺としています。橿原考古学研究
所が発掘調査を実施しましたが、痕跡さえも見いだすことが出来ませんでした。
内倉武久氏のブログ“うっちゃん先生の古代史はおもろいで No15 「安閑天皇の都」も北部九州に
あった”で、安閑天皇の都を福岡県田川郡香春(かわら)町勾金(まがりかね)周辺と指摘していま
す。
直ぐ近くには浦松遺跡(福岡県田川郡香春町大字中津原(なかつばる)字浦松)があり、福岡県調査
報告書によれば「方向を違えた大型建物八棟が出土し、種別を“官衙”(役所)」と報告しています。
図 福岡県田川郡香春町周辺地図 出典:うっちゃん先生の古代史はおもろいで No15
「安閑天皇の都」も北部九州にあった”
写真 浦松遺跡周辺風景 出典:うっちゃん先生の古代史はおもろいで No15 「安閑天皇の都」
も北部九州にあった”
4.「屯倉」の設置
『日本書紀-安閑天皇紀二年五月条』
「筑紫國」二ヶ所、「豊國」五ヶ所、「火國」一ヶ所、「播磨國」二ヶ所、「備後國」五ヶ所」「婀娜
國(備前国」二ヶ所、「阿波國」一ヶ所、「紀國」二ヶ所、「丹波國」一ヶ所、「近江國」一ヶ所、
「尾張國」二ヶ所、「上毛野國」一ヶ所、「駿河國」一ヶ所、合計二十六ヶ所の屯倉を設置。
「太宰府官内誌」によると、勾金(まがりかね)のすぐ南側の桑原・赤村・我鹿(あか)、さらに周辺
の「穂波・嘉麻・騰崎・肝等・大抜」にも屯倉を設置したという。いずれも現在の筑豊平野に属しま
す。
糟屋の屯倉は、山を隔てて西側に位置します。
おそらく安閑天皇の直轄支配地は「筑前東部」と推測されます。
二十六ヶ所の設置をほぼ同時に行える“力の源泉”は奈辺にあったのでしょうか。考えられるのは、
「磐井の乱」に勝利したからではないでしょうか。
敗者側から贖罪として天皇家に「屯倉」を自主的に献上したのではないかと推測します。
注)「婀娜國」
「婀娜國」の所在は長らく不明でした。市民の手で発見された「御領古墳群」は西日本最大の古墳群
で総数220基と言われています。
広島県福山市神辺町は平野の広がる町ですが、かっては“婀娜の海”という内湾が入り込んだ海があ
り、其の周辺に“婀娜の国”があったという伝説が残っています。
同国は“瀬戸内海”を見下ろし、瀬戸内海交易で富を蓄えたようです。
「御領古墳群」は、広島県福山市神辺町上御陵・下御陵、福山カントリークラブの南東の山地に整備
保存されている古墳群です。
図 「見渡す限りの御領古墳群」 出典:福山市HP
写真 「見渡すかぎりの古墳群」 出典:福山市HP
5.二年八月 諸国に「犬養部(いぬかいべ)」を設置
安閑天皇による具体的政策が見えてきました。
Wikipediaによれば、犬養部は犬を飼養・使用することを「業(なりわい)」とし、其の能力をもって
政権に使えた品部(しなべ)の一つ。
統率者は、以下の2グループに分かれ、「屯倉の守衛」に就いていました。
- 海神(わだつみ)族系 海犬養連・若犬養連・阿曇犬養連・辛犬養連
- 隼人系 阿多御手犬養連
彼らは、その後軍事氏族へと変貌していきます。
6.二年九月 「屯倉」の税を管理する役人として櫻井田部連・縣犬養連・難波吉士等を任命
税の収納体制は整備されますが、「屯倉の献上」という痛みから彼らは「税の果実」を奪回したよう
です。
7.二年十二月 安閑天皇崩御
河内の舊市(ふるいち)高屋丘陵に葬る。皇后春日山田皇女及び天皇の妹神前皇女もこの陵に合葬し
た。
内倉武久氏は、福岡県田川郡赤村の巨大古墳を安閑天皇の陵墓ではないかと指摘しています。
同古墳については、畏友古川清久氏や東海古代研究会事務局長石田泉城氏も取り上げていますが、現
状は推測の域を出ません。
おそらく、考古学会は全長350㍍にも及ぶ巨大古墳の発掘作業を進めるとは思えません。
彼らの金科玉条は「巨大前方後円墳は近畿以外にない」に集約されています。
情けない話ですね。
写真 福岡県田川郡赤岩村の「巨大古墳?」 出典:福岡県田川市Webサイトの筑豊地区
埋蔵文化財発掘調査の記録〔田川地域編〕
航空写真 赤村の「巨大古墳」
次回は「宣化天皇」です。