第百十四話   「異説継体天皇」

磐井に勝利した「男人迹王」の出身地は旧宝珠山村福井地区 

○男大迹王の陵墓といわれる「長田大塚古墳」

○安部氏の墓

○男大迹王とは

○継体天皇の崩御年

1.磐井に勝利した「男人迹王」の出身地は旧宝珠山村福井地区 

六年前の九州3ヶ月旅行で、誰を頼ればいいのか悩みました。当時から、精力的に活動されていた、ひ

ぼろぎ逍遥主催者の古川清久氏にお願いしたところ、快く承諾していただきました。

その後、ところてん式に「中島茂氏・伊藤まさ子」との知遇を得ました。

旧宝珠山村福井地区へは古川清久氏の車に同乗させていただき、「福井」とい地名の看板や、三連水

車で有名な「三島藍」地区を自らの目で確認し、古川氏の説明に納得した次第です。

第一印象は、「随分と田舎なんだ」と感じました。航空写真を見れば一目瞭然「山で囲まれた地」で

す。

故百嶋氏は、「古代においては、有力氏族の子弟は簡単には侵入できない地で、幼少年時代を過ごし

た。」と述べています。

男人迹王も、侵入者に狙われないこの地で育ったと得心しました。

「三島の藍地区」は、三連水車にみられるように農村地帯です。

図 福岡県朝倉郡東峰村福井地区周辺図

写真  三島藍地区の「三連水車」

写真  宝珠山村福井  福井神社案内板

出典:ひぼろぎ逍遥No225 内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳

2.男人迹王の陵墓とされる「長田大塚古墳」

写真 磐井に勝利した男大迹王の陵墓といわれる福岡県朝倉市山田の「長田大塚古墳」

出典:宮原誠一氏主催「神社見聞牒」No.84朝倉市山田の長田大塚古墳は何を語る。

未発掘のため詳細は不明ですが、「巨大な円墳」とみられています。

地元では親しみを込めて「宮地嶽さん」と呼んでいるようです。

九州の地図を見ていると山間に「宮地嶽神社」が散見されます。

ネットで検索すると多くの宮地嶽神社が発見できました。それをまとめたのが以下の表です。

表 県別宮地嶽神社

 

県名 住所 県名 住所
福岡 糸島市高祖 福岡 田川市伊加利
久留米市北野町金島 田川郡川崎町川崎
久留米市三潴町西牟田 北九州市八幡西区池田1丁目
久留米市田主丸町竹野 京都郡みやこ町
久留米市大橋町常持 佐賀 鳥栖市神辺町
久留米市野中町 三養基郡基山町園部
大野城市南ヶ丘 鳥栖市村田町
筑紫野市原田 唐津市宇木
大野城市牛頸小字東浦 唐津市浜玉町南山
朝倉市秋月 長崎 佐世保市宮地町
朝倉市宮野字宮ノ浦 熊本 玉名郡東町上木葉
みやま市瀬高町小田 宮崎〃 都城市栄町
八女市長野 大分 大分市神崎
筑後市長浜 大分市松岡
柳川市隅町 大分市下戸次
筑後市溝口 別府市青山町
筑後市若菜 別府市大字別府
朝倉市把木松末 豊後大野市三重町小坂
糸島市東 玖珠郡玖珠町森
糸島市波多江駅南1丁目 玖珠郡九重町松木
飯塚市片島1丁目 鹿児島 出水市境町

注)明治・大正以降の分霊勧請は「伊弉諾・伊弉冉」二柱が合祀されています。

福津市の宮地嶽神社のご祭神は「藤勝村・勝頼兄弟」です。

もしかすると長田大塚古墳の被葬者は「藤勝村・勝頼兄弟」との血縁関係があるかもしれません。

 3.安部氏の墓

長田大塚古墳の中腹に安倍宗任の子孫安部家の墓地が整備されています。

Wikipediaによれば、安倍宗任は、奥州六郡の支配を巡って、父頼時・兄貞任と共に朝廷から派遣され

た源義家と戦いました。一族は奮戦し、貞任等は最北の砦厨川柵(現岩手県盛岡市)で殺害されまし

たが、宗任等は降伏し、一命をとりとめました。この戦いを前九年の役(1051年)と呼びます。

後に宗任は伊予国(現愛媛県今治市富田地区)に配流されたが、少しずつ勢力をつけたため、朝廷は

筑前国宗像郡大島に再配流されました。その後、宗像氏によって、日朝・日宋貿易の際に重要な役割

を果たしたようです。

宮良誠一氏は、“ブログ神社見聞牒No82”で、「あべ氏」は阿倍・阿部・安倍・安部の姓があり、全て

同族で、古代天皇家を祖に持つと記しています。

朝倉安部家は、安倍宗任の子孫で墓碑銘に「釋 宗入」と刻まれています。

写真 長田大塚古墳中腹にある安部家の墓

古川清久氏に連れられ、お参りしました。

出典:宮原誠一氏主催「神社見聞牒」No.84 朝倉市山田の長田大塚古墳は何を語る。

4.男大迹王とは

おそらく男大迹王は九州王朝の一族で、担いだのは最大の政治集団「紀氏(きのし)と蘇我氏」と推

測します。

天皇に即位した継体天皇の施策

(1)戦後処理

筑紫君葛子(かっし)「糟屋の屯倉」を献上して、罪を許されました。

おそらく「磐井の乱」は同族といえども敵・味方に分かれて相戦ったのでしょう。それゆえ、戦後処

理は寛大になったと推測します。

(2)政治的基本姿勢

「宥和」と「忍耐」で臨んだと推測します。

(3)朝鮮半島問題

故百嶋氏は「新羅は喧嘩が強い」と述べています。

おそらくその通りだったと推測します。朝鮮半島最大の強国「高句麗」や強大な国家となった「新

羅」に対抗する有力な施策はなかったのでしょう。

国内は「磐井の乱」で疲弊し、朝鮮半島出兵の余力はなかったと推測します。

5.継体天皇の崩御年

『日本書紀』編纂者は、「百済本紀」に依拠して、継体天皇の崩御年を継体天皇25年とし、また聞く

日本の天皇及び太子・皇子共に崩御したと記しています。

或本には「天皇 二十八年歳次甲寅崩御とあり、二十五年は辛亥の年にあたり、後に勘考する者は知

らない。」と結んでいます。

問題点を整理すると

(1)辛亥年 継体天皇二十五年 西暦531年

その年の三月、軍を進めて安羅に至るも、高句麗は其の王(安羅)安を殺す。是の月に日本の天皇及

び太子・皇子共に崩御。

この記述が正しければ、「磐井の乱:は西暦531年の事件となります。

(2)甲寅年 継体天皇二十八年 西暦534年

「磐井の乱」で勝利し、天皇に即位した継体天皇の崩御年と考えられます。

すなわち、百済が認識していた「倭国王は磐井」となります。

 

 

次回は「安閑天皇」です。

 

 

 

 

 

 

 

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