第百三十一話 「舒明天皇」(2)

ブログ

 

 

 

 

 

○舒明天皇の家族

○舒明天皇の宮

○吉備池廃寺

 

1.舒明天皇の家族

(1)皇后寶皇女との御子

一を葛城皇子(後の天智天皇)、二を間人(はしひと)皇女、三を大海人(おお

あまの)皇子

(2)蘇我嶋大臣の娘法堤郎媛(ほてのいらつめ)との御子

古人皇子、またの名を大兄(おおえ)皇子

おそらく、法堤郎媛は皇后寶皇女よりも早く、即位前の舒明天皇の夫人であったと

考えられます。

(3)吉備國の蚊屋采女との御子

蚊屋皇子

「蚊屋」の本来の表記は「加耶」と考えられ、「加耶国」の領域は広く高梁川と笹ヶ瀬

川のあたりまで、現在の高梁市・総社市・岡山市・賀陽町の一部を含みます。

加耶氏は、上道(かみつみち)とその始祖を同じくすると言われています。

第九十五話「雄略天皇」(2)で、吉備上道の祖を吉備津彦三世の孫「田狭」と推測し、

後に田狭は「任那国王」に派遣されたと推測しました。

「任那は現地では伽耶」と呼ばれ、任那から帰国後、自らが支配する領地を「加耶」と

命名したと推測します。

蚊屋采女は吉備の豪族加耶氏の娘で、蚊屋皇子の本来の表記は「加耶皇子」と考えられま

す。加耶皇子はその後、先祖の地「加耶国」を承継したと推測します。

図  加耶国の領域

2.舒明天皇の宮

(1)岡本宮

「二年冬十月飛鳥丘の傍に遷る」とありますが、それ以前の宮は不明です。

「八年六月、火災で焼失し、田中宮に遷る。」

橿原考古学研究所による180次に亘る発掘調査では、火災跡は発見されましたが、全体像

は全くつかめていません。

発掘調査場所は「雷(いかづち)丘」で、蘇我稲目・馬子の邸宅甘樫丘から見下ろす位置

にあります。不思議だと思いませんか。

私見は、「岡本宮」はなかったと考えます。

(2)田中宮

現在の橿原市田中町周辺と推定され、「法満寺」周辺で行われた発掘調査では、総柱の

建物や四面に庇を持つ大型の建物、回廊状の施設が想定できる柱穴が確認されています。

出土品には「単弁八葉蓮華紋軒丸瓦・重弧紋軒平瓦」や梵鐘の鋳型などが検出されたと

橿原市教育委員会は報告しています。

私の印象では、法興寺より数十年ほど後に造営された寺で、宮跡とは考えられません。

写真  法満寺

 

(3)百済宮 奈良県北葛城郡広陵町

遺構が発掘されたという調査報告ならびに記事は見えません。

歴史学者の中でも。明日香村から遠く離れた地に「百済宮」を造営するとは考えられ

ないという説もあります。

以上から、舒明天皇の宮には疑問符がつきまといます。

 

3.吉備池廃寺跡   桜井市吉備地区

伽藍は法隆寺式伽藍配置で金堂・塔・中門・回廊・僧房の遺構が検出されています。推定高

さ80~90㍍の九重塔や金堂及び伽藍の配置は同時代の国内寺院をはるかに凌ぎ、新羅の皇龍寺

や武朝の大官大寺に匹敵します。

創建時期は630~640年初頭と推定され、ほどなく移建されたと考えられています。その理由

は瓦が検出されていないことが挙げられます。

歴史学者は、舒明天皇によって大和国十市郡に建立された百済大寺に比定し、その後は確実

視しています。

図 吉備池廃寺跡     出典:奈良文化財研究所

『三国史記-新羅本紀』によると、新羅第27代善徳女王が645年に皇龍寺完成の記事が見えます。

Wikipediaによると、善徳女王(在位632~649年)は、国の現状が「国際的に孤立・国力疲弊・百

済の侵攻など」があり、唐に積極的に近づき、朝貢を重ね、635年唐から「真平王」の爵号を受けま

すが、高句麗と百済の連合(麗済同盟642?~660年)により、百済からの侵入は止められませんでし

た。百済戦の救援軍を求めて、人質まで出しましたが、高句麗は援軍を派遣しませんでした。

頼みの唐は、援軍を派遣する代わりに唐の王室から新王を立てることを迫られました。とても飲め

る条件ではなく、結局唐からの援軍は実現しませんでした。

これに奮起した新羅軍は「持ち前の喧嘩の強さ」を発揮し、百済からの執拗な侵入を撥ねのけまし

た。

645年、仏教を厚く保護していた善徳女王は「皇龍寺」を完成します。

発掘調査によると金堂・講堂などの基礎となる土台が発見され、約4万点に及ぶ遺跡品が出土しま

した。広さは仏国寺の8倍にも及び、新羅時代最大の寺院といわれています。中でも「皇龍寺九層木

塔」は高さ80㍍に及びます。

写真 新羅の皇龍寺ジオラマ   出典:慶州国立博物館蔵

「皇龍寺」は636年頃に造営が開始されたので完成まで九年を要したことになります。

私見は、吉備池廃寺の造営は舒明天皇ではなく蘇我蝦夷(本来の表記は蘇我善徳)によって

開始されたと推測します。

理由はこれほどの大寺を造営する財力を保持していたのは蘇我氏以外考えられないからです。

蘇我善徳はその名が示すとおり,「仏法を篤く信奉」し、新羅善徳女王の情報も的確に得てい

たと推測します。

また、朝鮮半情勢も「国益を第一にして情報収集する」判断力に優れていた人物と推測します。

「吉備池廃寺」の発願も新羅の善徳女王発願の「皇龍寺」に啓発されたと推測します。

西暦645年中大兄皇子によるクーデター「乙巳の変」で蘇我蝦夷・入鹿親子は殺されます。

完成間近の吉備池廃寺は、新たな支配者中大兄皇子によって移建されます。

移建後は「大安寺」に改めたとの説も有力ですが、よくわかりません。

 

4.大唐へ大仁犬上君三田耜・大仁薬師恵日を派遣

(1)『日本書紀-舒明二年八月条(630)』

「大仁犬上君三三田耜・大仁薬師恵日を派遣」

(2)『旧唐書倭国伝』

「貞観五年(631)倭国が使いを遣わして方物を献ず。」

(3)『旧唐書日本国伝』

(1)の派遣記事は見えません。

以上の文献から、『日本書紀』記事は、倭国による唐への朝貢記事を参考に脚色した

ものと考えられます。

(4)『日本書紀-舒明天皇四年八月・十月条』

「大唐 高表仁を遣わし、三田耜を送る。」

「高表仁を難波津で迎え、ものものしい歓迎振りに対して高表仁はいたく感動します。難波

津の館では盛大な宴を催しました。」

(5)『旧唐書倭国伝』

「高表仁を倭国へ派遣する前に十分に諭したが、高表仁は外交の才能がなく、王と礼を争い、

平和裏な交渉にはならず、天子の命を述べることなく帰国しました。」

「貞観二十二年(648)倭国は新羅に言付けて上表文を奉り、以て皇帝の機嫌を伺う挨拶を

行った。」

(4)と(5)の記事には大きな乖離があります。倭・唐両国は外交交渉が不調に終わったこと

は事実であったと考えます。

此処で見逃せないのが、貞観二十二年の記事です。

倭国は不調に終わった唐との外交交渉を挽回するのに、17年間も時間を無駄にしました。

原因は不明ですが、百済を頼ったのが間違いであったと推測します。

百済は新羅を孤立させるため、高句麗と結び徹底的に新羅を攻撃します。

新羅の善徳女王は、親唐派の花郎(ファラン)徒との戦いで西暦647年。陣中で没します。

後継者の真徳女王(在位647~654年)は、金庾信の活躍で宿敵百済を撃退、外交面では

王族の金春秋(後の武烈王)を唐に派遣し、百済討伐の援軍を願い出て、ようやく太宗から

一応の了承を得ることが出来、649年には唐の衣冠礼服制度を採用し、650年には独自の年号を

廃止します。

倭国は朝鮮半島の情勢を見極め、慎重に唐への外交再開を模索していたはずですが、遅きに失

 

しました。国内の親百済派勢力が優勢であったと推測します。

それが、貞観二十二年の記事です。

 

 

次回は「皇極天皇」です。

 

 

 

 

タイトルとURLをコピーしました