第百十一話  「継体天皇」(2)

 

 

河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいおびとあらこ)とは 

○さまよえる二十年 

 

1.河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいおびとあらこ)とは 

   直ぐには、」大伴金村大連の説得に応じなかった男大迹天皇は、河内馬飼首荒籠の「貴賤を論

 (あげつら)うこと勿れ。ただその心をのみ重みとすべし。」と言う言葉に心を揺り動かされ、終

  に樟葉宮で即位します。 

   物部氏が展開した地には、しばしば「河内」という地名が遺存しています。 

   おそらく河内馬飼首荒籠も物部氏の係累と推測します。 

   彼らが馬を飼育していた「牧(まき)」は、現在の四條畷市「讃良(さらら)の牧」が候補地と

  推測します。 

   蔀屋北遺跡から出土した「馬の全骨格(体長127㎝)」は、中型馬「騎馬」として飼育していた

  と推測します。 

   図 古代四條畷周辺地図   出典:四條畷市HP 

   図 讃良(さらら)の牧 周辺図  出典:四條畷市HP 

      『日本書紀-天武12年条』に「娑羅羅(さらら)馬飼造」、『日本霊異記』には「河内

     國更荒(さあら)郡馬甘(うまかい)の里」が記されています。

      四條畷市教育委員会の見解は「讃良地域では、渡来人が伝えた馬飼が盛んに行われてい

     た」としていますが、私見は「渡来人ではなく倭人によって九州から船で中型馬が運び込

     まれ、騎馬として飼育された。」と考えます。 

      その証拠に、同遺跡からは鉄製の轡、樫の木製の鐙2点、漆塗りの木製の鞍などが出土

     しています。

        

   写真 蔀屋北遺跡(四條畷市蔀屋・砂)から出土した「馬の全身骨格」 

      体高127㎝の中型馬   出典:大阪府HP 

          第九十八話で紹介した「中型馬」です。 

   図 古代の蔀屋北遺跡周辺図    出典:四條畷市HP 

2.さまよえる二十年 

  1元年(507)一月 58歳にして樟葉宮(現枚方市楠葉)にて即位 

  (2)五年(511十月 都を樟葉宮から山背の筒城(現京都府京田辺市)に遷都 

  (3)十二年(518春三月 都を弟國(現京都府長岡京市)に遷都 

  (4)二十年(527九月 都を磐余の玉穂宮(現奈良県桜井市池の内)に遷 

  (5)二十五年(531)春二月 磐余の玉穂宮で崩御。年82歳 

   注)『古事記』は43歳で崩御としています。 

   歴史学者は継体天皇が「磐余(いわれ)」を目指したものの、在地勢力の妨害により、二十

  年間の時日を要したとしていますが、その在地勢力については全く言及していません。 

   「樟葉宮・筒城宮・弟國宮」のいずれも「古代の交通の要衝」にあり、水運に不便な「磐余

  (いわれ)玉穂宮」に遷都する理由がみあたりません。 

    歴史学者は、在地勢力や敵対勢力が妨害したため、懐柔するのに二十年を要したとしていま 

  す。 

   ところが、『日本書紀』は具体的に「在地・敵対勢力」の記述や戦闘事件も記述していませ

  ん。 

   大和川は古代より「暴れ川」として認識されており、特に奈良県から大阪湾へ抜ける「亀の

  瀬」と呼ばれる地滑り多発地帯は難所でした。 

   四條畷市教育委員会が記すような「水運」の利便性は望むべくもありません。 

   更に言及すれば武烈天皇の「列城宮」や継体天皇の「磐余玉穂宮」の遺構も未だに出土して

  いません。 

   第八十二話で「仁徳天皇による大和平野開拓の挫折」を縷々述べましたので、経緯はお解りい

  ただけると思います。 

   では、「さまよえる二十年」を『日本書紀』は記述したのでしょうか。 

   この疑問に応えるには、当時の朝鮮半島と倭国の情勢が欠かせないと推測します。 

    図 継体関係地図(一部抜粋)    出典:和田莘『大系日本の歴史2 古墳時代』より 

 

次回は「継体天皇」(3)です。

 

 

 

 

 

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