第百六話  「倭の五王」を取り巻く朝鮮半島の情勢(3)

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○任那

○任那の歴代王

 

1.任那(?~562年) 

 (1)任那国とは

     Wikipediaによれば一般的には、『三国史-魏志倭人伝』に登場する「狗邪韓国(こや

かんこく)」金官国を中心とする弁韓・辰韓の一部または馬韓の一部(現在の全羅南道を含む地域)を

指す地名とされています。

○狭義の任那説

任那地域にあった金官国

○広義の任那説

任那諸国の汎称

○私見

故百嶋氏が提唱した「神社考古学」によります。

任那国そのものは金官国内にあり、任那諸国は「金官伽耶・阿羅伽耶・古寧伽耶・大伽耶・星山果

耶・小伽耶国」を指します。

『三国史記ー百済本紀』は「任那は安羅を父、日本府を本(もと)」と記しています。

おそらく、5世紀末頃より安羅・大伽耶国は任那の政治・軍事力を担保していたと推測されます。

(2)任那国の歴史

①前身は倭人が立てた「狗邪韓国」

②3世紀の初め頃、強国金官伽耶国は優秀な人材が倭国へ流出し、国力が衰え、同じく狗邪韓国も疲

弊しました。この情勢を打開するため、孝霊天皇は皇后壱與の兄和知津見命(宇摩志麻遅命とも表記)

を派遣します。和知津見命は大水口物部軍を率い、新たに金官伽耶国内に「任那国」を建国し、伽耶

地方に分国を立て、支配力を強化すると共に産業革命を興します。

主な施策は以下のように進められたと推測します。

ア.首都を現在の金海市付近に定めます。

「金海(キメ)」の名の由来は、洛東江に接する金海市は、韓国最大の穀倉地帯で、秋の収穫期にな

ると周辺一帯が実った稲穂で「金の海」のように見えたことによります。

イ.行政府(『日本書紀』が記す日本府)を金海の中心部鳳凰台に設置。

鳳凰台遺跡は規模も大きく、防衛設備も発掘され、金官伽耶の支配階級の集団住宅跡の可能性が高い

と言われています。

ウ.古金海湾の沿岸に交易のための「国際貿易港」を設置。

エ.伽耶文化の特徴といわれる「陶質土器と鉄挺(鉄の延べ板)」を生産する技術者集団を倭国から呼

び寄せました

金海良洞里(キメカンドンニ)から北九州の陶質土器が中心に出土しています。

オ.溶鉱炉技術を導入し、農業・軍事用の鉄器生産基地の強化。

泗川(サブチョン)市勒島(ヌクド)遺跡にみることができます。

図 勒島・カラカミ遺跡 出典:東海の古代第217号「卑彌呼の冢-その5」石田泉城氏

現在は「東海古代研究会」で検索してください。

大変な力作なので閲覧されることをお勧めします。

③2代目の任那王穂積臣忍山(孝元天皇の養子時代は彦太忍信命)は和知津見命の遺志を継いで任那

国の発展に尽くしました。

④3代目任那王阿倍臣(『日本書紀』は意図して名を漏らしています)

⑤4代目の任那王葛城襲津彦

⑥5代目以降の任那王はよくわかりません。

任那諸国の支配領域は「忠清南道・全羅南道の一部・慶尚北道・慶尚南道」と推測します。

任那諸国は「倭国と利害を共にする同盟国」でもありました。『三国史記ー百済本紀』は「日本府」

と表記していますが、、本来は「倭国府」と推測します。

倭国は、任那諸国に常時「倭系官僚と軍隊を常駐」させていたと推測します。

任那諸国は4世紀中頃までが全盛期でした。

⑦4世紀末広開土王の侵略以後、任那諸国は疲弊し、また倭国は度々の派兵で軍事力は消耗していき

ました。

⑧5世紀の中頃から、新羅は朝鮮半島中央部への進出を強め、最初に忠清南道に依拠した古寧伽耶は

滅びたようです。

その後も新羅の伽耶地方への侵攻は止まりません。倭国内でも「朝鮮半島への派兵」を巡って意見の

対立が起こり、倭兵を十分に派遣することが出来ない事態が出来します。

任那諸国で最も軍事力を誇った「阿羅伽耶・大伽耶国」も倭国からの派兵も細り、徐々に軍事力が低

下、疲弊していきます。

⑨西暦562年 終にその時がきました。新羅軍によって伽耶地方の大伽耶・任那国が滅び、洛東江下

流域の伽耶諸国は新羅の支配下に入りました。

その結果、倭国は朝鮮半島の権益と共に領土も失いました。

ターニングポイントは「磐井の乱」で、倭国は新たな国王が即位します。

影響は「沖ノ島祭祀遺跡」にもみてとれます。

(3)任那の歴代王

『新饌姓氏録』は以下のように記していますが、信憑性はありません。

初代 賀羅賀室主

二代 都怒賀阿羅斯等(=贈崇神天皇)

名の「阿羅」より「安羅国王」と考えられます。

三代 牟留智王

四代 冨貴王

五代 尓利久牟王

六代 龍主王

七代 佐利王(龍主王の孫)

写真 見てはならない長鼓峰古墳(全羅南道海南郡北日面方山里)

出典:ハンギョレ新聞(18/03/2021)

韓国最大の古墳、長鼓峰とは前方後円墳の韓国側の表記

   「5~6世紀の日本の古墳とよく似た構造だとわかったが、再び埋められてしまった。」

五世紀第四半期~六世紀第一四半期の築造と推定され、主体部の埋葬施設は横穴式石室。石室

内部にはベンガラが塗られています。墳丘長82㍍ 後円部高さ10㍍

構造はもちろん、墓の内部の入口を塞ぐ前に行われた祭祀の跡まで殆ど同じです。

規模から見て「大王級」の陵墓です。一部、盗掘を受けているようです。

前方後円墳が全羅南道に10基存在することは1980~90年代の調査で確認されています。

写真  慶尚南道金海(キメ)大成洞古墳群出土「金銅製冠」

出典:金海大成洞博物館

写真 大成洞古墳群出土の倭系文化を伝える「巴型銅器」 出典:金海大成洞博物館

用途は不明ですが、「紋章」として使用されていたようです。

写真 大成洞古墳群出土の糸魚川産の翡翠製品

わかりにくいかもしれませんが、右側中央の「青色」が翡翠です。

出典:金海大成洞博物館

図 慶尚南道泗川市勒島洞周辺図 ①が勒島(ヌクト)

 

次回は「倭の五王」です。

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