第百三十四話  「皇極天皇」(3)

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写真 小郡市大崎 媛社(ひめこそ)神社(通称七夕神社)出典:七夕ぼん

 

○中大兄皇子と中臣鎌子連の謀

○蘇我蝦夷・入鹿親子謀殺で何が起こったのか。

 

1.中大兄皇子と中臣鎌子連の謀(はかりごと)

(1)蘇我本家に嫉妬心を滾らせる蘇我倉山田石川麻呂の抱き込み

中臣鎌子連の策略は、「蘇我倉山田石川麻呂の娘を中大兄皇子の妃として迎える」ことでし

た。

通説は中大兄皇子の生年が西暦626年、当時満19歳で、この策略は成功し、話は順調に進んだ

ようです。

私見の「中大兄皇子生年631年説」では満14歳で、蘇我倉山田石川麻呂は素直にこの話に乗ら

なかったと考えられます。

(2)「三韓の調(新羅による旧金官伽耶国から上がる税)の目録を読上げる四年六月十二日に、

列席する蘇我入鹿斬殺計画を挙行する。」ことを決めます。

「三韓の調の儀式」について、既に述べていますが、舞台は「ヤマトではなく九州の筑紫」で行

われた儀式であり、ヤマトで行われる儀式ではありません。

歴史学者の中には「重要な外交儀式でクーデターが挙行された不自然性」を指摘しています。

私見も同様です。

列席者:皇極天皇・蘇我入鹿大臣・蘇我蘇我倉山田石川麻呂・古人大兄皇子

此処で疑問なのが、皇太子でもない古人皇子が列席していることです。

暗殺者:中大兄皇子・海犬養連勝麻呂・佐伯連子麻呂・葛城稚犬養連網田

紆余曲折はありましたが、無事入鹿を暗殺します。

古人大兄皇子は錯乱し、屋敷に閉じこもります。

中大兄皇子は法興寺に入り、城として備えます。

全ての皇子・諸王・諸郷大夫・臣・連・伴造・国造は中大兄皇子軍に参集し、蘇我入鹿の屍を蘇我大

臣蝦夷の元へ送ります。

暗殺者中大兄皇子軍に対抗する漢直(あやのあたい)・眷属・高向臣國押軍を説得した結果、対抗軍

は解散します。

父の蘇我蝦夷大臣は、戦いの不利を悟り、天皇紀・國記・珍宝を焼き、自ら死を撰びました。

船史恵尺、火中から國記を取り出し、中大兄皇子に奉ります。

此処までの話で、疑問はいくつかあります。

①「三韓の調(新羅による旧金官伽耶国から上がる税)の目録を読上げる四年六月十二日の儀式」

に、中大兄皇子等の暗殺者集団が入り込む余地はありません。重要な儀式に、警備体制は厳重を極

めていたと考えられるからです。

②同儀式の舞台は、ヤマトではなく九州の筑紫であり、中大兄皇子が蘇我宗家の氏寺「法興寺」に逃

げ込むなどあり得ません。

寺は、通常異変があれば寺の門を固く閉じ、侵入者を許しません。易々と中大兄皇子が法興寺に

逃げ込める余地などあり得ません。

全ての皇子・諸王・諸郷大夫・臣・連・伴造・国造は中大兄皇子軍に参集したとありますが、名

前が特定出来ない理由が存在したと考えられます。

中大兄皇子はなかなか天皇位に就くことが出来ませんでした。

天智天皇として即位したのは西暦668年です。事件勃発後23年の時を要しています。その理由につ

いて、歴史学者からは明確な説明はありません。

おそらく、「乙巳の変」の舞台は「ヤマトではなく九州」、また登場人物も違うかもしれませ

ん。

③「丁未の変(587年)」では、蘇我馬子宿禰大臣に与した男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀陀

夫・葛城臣烏那羅・大伴連噛(おおともむらじくい)・阿倍臣人・平群臣神手・坂本臣糠手・春日臣等

は錚々たる豪族達です。

他方、中大兄皇子に与した豪族は海犬養連勝麻呂・佐伯連子麻呂・葛城稚犬養連網田等は豪族と

はいえない人物群です。

太字で記した「犬養(いぬかい)」に気づきませんか。「犬養は犬飼」です。

中臣氏が祖神と崇める「犬飼神こと天児屋根命贈孝昭天皇」の末裔が犬養です。

すなわち、彼らは中臣氏の数少ない縁戚ですが、「乙巳の変」に参画できるような人物群ではあ

りません。

したがって、「乙巳の変」は九州の「倭国」で起こった事件を題材にした可能性が濃厚です。

日本書紀はその後、不思議な記事を記述しています。

『天智三年(664年)夏五月条』

「大紫蘇我連大臣薨せぬ。」

「大紫」とは、天智天皇が定めたとする「冠位二十六階」では、第五位の冠位です。「薨」は、親王

または三位以上の諸王に用いる用語です。

すなわち、「大紫と薨去」では平仄が合わないのです。

それほどの重要人物の名前が漏れるのをおかしいと思いませんか。

私見は、西暦664年 占領軍唐によって「筑紫都督府」が開設され、倭国王は任免権を失います。

吉備・播磨・摂津・河内・大和を実質支配していた倭国の重臣蘇我宗家は唐軍に召喚されたと考えら

れます。

その過程の中で、蘇我氏宗家は死を受け入れざるを得なかったと推測します。

おそらく、蘇我連大臣とは聡明な「蘇我入鹿(別名宗我太郎など)」と推測します。

したがって、「乙巳の変」は日本書紀編纂者の創作で、事件はなかったと考えられます。

写真 小郡市大崎 媛社(ひめこそ)神社(通称七夕神社)出典:七夕ぼん

ご祭神:織女神(棚機神=高木大神の娘𣑥幡千々姫.犬飼神こと天児屋根命の正妻)・

媛社神(豊玉彦の姉・スサノオの妻)

鳥居の前、左が「織女神」、右は「犬飼神」

小郡市観光協会の招きで、毎年8月7日に行われる「夏まつり」に参加しました。

 

写真 七夕神社に祀られるご神体「織女神」 出典:七夕ぼん

赤い中国風の衣装をまとい、手に糸巻きを持つ女性の像

写真 七夕神社に祀られるご神体「犬飼神」 出典:七夕ぼん

2.「乙巳の変(いわゆる大化の改新)はなかった」

私は中学・高校時代の教科書で「乙巳の変ではなく、大化の改新」として学習しました。

サラリーマン退職後、『古事記・日本書紀』を読み、「古代史の疑惑」というノートを作成し、疑

問点を書き連ねました。

「大化の改新」研究が広まったのは、意外と新しく明治期とされています。

1950年代にはいると「大化の改新」の史実性が疑われるようになりましたが、他方では「大化の改新

肯定派」の研究者も現われ、現在では「肯定派と否定派」に分かれています。

私見は「大化の改新否定派』に属します。

その根拠をまとめると

(1)根拠1 「三韓の調(新羅による旧金官伽耶国から上がる税)の目録を読上げる四年六月十二

日」に、中大兄皇子が蘇我入鹿を誅殺

・重要な儀式に挙行した不自然性

・「三韓の調の儀式」とは、任那復権を巡って、「倭国と新羅の外交交渉」で合意した旧金官伽

耶国からあがる税の相当分を倭国に貢納する儀式で、場所は九州の倭国で行われたと考えら

れ、古人・中大兄皇子が列席する場ではありえません。

(2)根拠2 「天皇に即位するまで17年を要した不自然性」

・何故、中大兄皇子は17年にも及ぶ「雌伏の時代」を要したのでしょうか。

・天智天皇として即位した西暦662年はどのような事件があったのでしょうか。

この二つの疑問に対する答えは、西暦662年「九州王朝“倭国”が白村江の戦いで唐・新羅連合

軍に大敗した」年です。

大敗した倭国の情勢は混乱を極めました。この間隙を縫って、近畿で力を蓄えていた中大兄皇

子は九州王朝“倭国”から独立し、新たな王朝を樹立したと考えられます。

新王朝樹立に対して九州王朝倭国は黙って傍観していたわけではありません。手を打ったので

す。

それが「壬申の乱」の本質です。

 

 

 

 

次回は「孝徳天皇」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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