第百三十五話  「孝徳天皇」(1)

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○即位の経緯

○孝徳天皇の家系図

○重要人事

○『日本書紀-孝徳天皇紀』逐条記事の検証(1)

 

1,即位の経緯

皇極天皇は「乙巳(いっし)の変」に動揺し、政権を投げ出し、後継者に中大兄皇子を推薦します。

他方、中大兄皇子は中臣鎌子連と相談し、「年長の古人大兄皇子」を皇極天皇の後継者に推薦しま

す。

推薦された古人大兄皇子は、再三固辞し、出家して吉野に入り「佛道を究め、以て天皇を助け奉る」と

いい、その言葉通り、吉野に入ります。

次に中大兄皇子は「軽皇子(かるのみこ)」を皇極天皇に推薦します。

皇極天皇は中大兄皇子の助言を受け入れ、軽皇子は「天萬豊日天皇」として即位します。

『日本書紀』編纂者は、中大兄皇子をフィクサーとみなしているようです。

通説では、中大兄皇子は西暦626年の生年としていますから、当時19歳の青年に老獪な政治力があっ

たとは考えられません。

私見は西暦631年以降の生年としていますので、当時14歳の少年です。

 

2.孝徳天皇の家系図    

 

名前 血縁関係 特記事項
敏達天皇 曾祖父
廣姫 曾祖母
押坂彦人大兄皇子 祖父
大俣女王 祖母
茅渟王
吉備媛王
寶王女 実姉
孝徳天皇 本人 仏法を尊び、神道を軽んじる
間人皇女 皇后 父舒明天皇 母寶王女
舒明天皇 異母弟 父押坂彦人大兄皇子 母炊屋姫

孝徳天皇と舒明天皇の関係が気になりませんか。

一の妃 阿倍倉梯麻呂大臣の娘小足媛

御子に有馬皇子

二の妃 蘇我倉山田石川麻呂大臣の娘乳姫

御子はありません。

3.重要人事

中大兄皇子は皇太子、左大臣阿倍内麻呂臣、右大臣蘇我倉山田石川麻呂が就任します。

國博士は沙門旻法師・高向玄理。中臣鎌子連内臣に昇進。

この人事は『日本書紀』編纂者の創作と考えます。

本来の人事は、金策(金泥で書かれた冊書)を授けられた「紀氏」の末裔阿倍倉梯麻呂が大臣に就任

したと推測します。

理由は「左大臣・右大臣」制は「大宝律令」以後と推測します。

注)金策

現代で云えば、天皇の「国事行為」

内閣総理大臣を任命すること(日本国憲法第6条第1項)

天皇は信任の証として阿倍倉梯麻呂大臣に金泥で封をした「信任状」を交付したと考えます。

 

4.『日本書紀-孝徳天皇紀』逐条記事の検証

(1)孝徳天皇は「ヤマト王権の天皇」あるいは九州の「倭国天皇」のどちらでしょうか。

私見は「倭国」天皇です。その理由は後述します。

(2)大化元年秋九月

諸国に使者を遣わし、「武器庫」の点検を命じます。

古人大兄皇子、蘇我田口臣川堀・物部朴井連椎子(ものべえのゐのむらじしひのみ)・吉備笠臣垂

(したる)・倭漢文直麻呂・朴市幡造田来津と謀って謀反を起こす。

吉備笠臣垂が阿倍・蘇我両大臣に自首したので、追討軍を派遣し、古人大兄皇子を誅殺しました。

(3)大化元年冬十二月

都を難波長柄豊碕宮(なんばながらとよさきみや)に遷す。

注)難波長柄豊碕宮には諸説があり、私見は「那珂川流域説」です。

大化改新の詔(Wikipediaを参考)の発布

①公地公民制

②始めて首都を制定

③班田収授法

④「租・庸・調」制度

(4)大化二年二月

蘇我右大臣を通じての詔「明神御宇日本倭根子天皇時代の復権」

   明神御宇日本倭根子天皇時代とは、孝霊・孝元天皇時代を指し、天皇親政による倭国の

輝かしい名跡復権の表明と推測します。

注)孝霊天皇の和風諡号 大日本根子彦太瓊天皇

孝元天皇の和風諡号 大日本根子國牽天皇

(5)大化三年是歳

「小郡を壊して宮を造る。天皇、小郡宮で禮法を定め給う。」

小郡宮とは、宝満川東岸台地に位置し、現在の小郡市上岩田地区です。小郡市土地開発公社の委託を

受け、上岩田工業団地造成事業に先立つ発掘調査を平成7年9月から平成10年10月までの約3カ年を費

やして行われ、現在も発掘調査を続けています。

私は6年前、「飛鳥河邉宮が上岩田遺跡」ではないかと考え、小郡市のアパートを1ヶ月間借り、早速

調査活動を開始しました。

小郡市役所を訪問したところ、不思議なことに当時小郡市観光協会の速水信也事務局長を紹介されま

した。

速水信也氏は、「上岩田遺跡第一次発掘調査の責任者」で多くのアドバイスをいただきました。

アクセスは、甘木鉄道のレールバスを利用し、「松崎」駅で下車し、同遺跡を見て回り、翌日は同遺

跡の全体像を把握するため、上岩田工業団地を徒歩で廻り、地図との照合作業を続けました。

その後、既に知己となっていた九州歴史資料館学術調査室室長の小田和利氏から貴重なアドバイスを

受けた後、私が参加した「菊池地名研究会」の例会の講師を務められたのが小郡市埋蔵文化財センタ

ーの山崎頼人氏であったことから、小郡市埋蔵文化財センターを訪ね、「上岩田遺跡調査概報第28・

上岩田遺跡Ⅵ妥第142集」をいただきました。

同遺跡の規模は約12万㎡に及ぶと記述されていましたが、その後も発掘調査の範囲を広げているとの

情報を得、発掘現場に向かいました。発掘現場では、幅30センチほどの「溝」を掘っていて、どこま

で続くのかは未定とのことでした。

おそらく同遺跡の規模は「藤原宮」の2倍を遙かに超え、「首都作り」を目指したのではと想像しま

した。

九州大学の著名な先生が発掘に加わると『日本書紀』偏重歴史観から、同遺跡を矮小化し、「評衙」

と指摘され、現在では通説のように敷衍しています。

これほどの規模を持つ遺跡が「評衙」であるはずがありません。あるとするならば、其の類例を提示

すべきですが、そのような報告は管見に見えません。すなわち、根拠がないのです。

同遺跡は、国力を傾けるほどの大規模工事で「倭国の首都作り」が行われたと推測します。

はからずも『日本書紀-孝徳天皇紀』は「此処(飛鳥河邉行宮)で禮法(儀式)が行われた。」と記

述しているのです。

注)飛鳥河邉行宮(あすかかわべかりみや)

故古田武彦氏は著書『壬申大乱』で、「飛鳥(ひちょう)地区」を小郡市とする仮説を提起していま

す。私も調査しましたが、現時点では「飛鳥」の地名由来について不明です。

写真 甘木鉄道「レールバス」  出典:甘木鉄道株式会社

営業キロ 13.1㎞

駅数   11駅

運転区間 基山~甘木

運行本数 平日42往復

「架線」がないのが「レールバス」の特徴です。

 

(6)大化四年

「磐船柵を作り、蝦夷に備える.越と信濃の民を選抜し、始めて柵戸を置く。」

磐船神社 新潟県村上市三日市

ご祭神:饒速日尊(=山幸彦・天磐船尊・天火々出見命))

写真 毎年10月19日開催「岩船大祭」 出典:村上市観光協会

屋台は5町内から繰り出されます。「岩船神社に向かうお船様」

同神社の標高は21.5㍍で一段と高い場所に位置し、背後は山地が迫っています。

そのため「船が山に登る祭」と伝えられたのかもしれません。

写真  岸見寺町屋台 船は「明神丸」   出典:村上市観光協会

(7)大化五年三月

「大伴狛連・三國麻呂公・穂積囓臣を蘇我倉山田麻呂大臣の元へ遣わし、謀反に関わる諮問を行う。

その結果、天皇は軍を興して大臣宅を囲む。」

父の謀反に驚いた子の法師と赤猪は倭国の境へと逃亡。長男の興志は自らが造営した山田寺に籠も

り、天皇軍と一戦を交えることを決意しましたが、父の蘇我倉山田麻呂大臣は興志を説得し、天皇に

背くことは“忠孝の道”にもとり、また徒に横死するのは尊厳にもとり、蘇我大臣・妻・三の男子一女

は自死の道を選びます。

ところが、天皇軍は「死者となった大臣」の首を斬り、大臣の尊厳を傷つけ、次に大臣の財産を接収

します。

中大兄皇子によるクーデター「大化の改新」を再現する逸話だと思いませんか。

蘇我氏の分家を徹底的に殲滅しながら、他方では以下の人事を行っています。

「蘇我日向臣を筑紫の大宰師(だざいのすい)に任命。」

『日本書紀』編纂者は以上の事件を「中大兄皇子主導」としていますが、私見は、中大兄皇子にその

ような政治・軍事力はなく、担保する経済力もなかったとみています。

九州王朝「倭国」が事件の首謀者と推測しています。

写真 奈良県桜井市山田 「山田寺」復元図

1982年から始まった発掘調査では、倒れた東回廊の連子窓が土に埋もれた状態で残っていま

した。当時、橿原市に居住していた私は、連子窓発掘作業を何度も見学しました。

 (8)大化五年是歳五月

「新羅王、沙碌部沙飡金多遂を遣わし、人質とする。従者は37人。」

同記事は新羅の貴族による倭国への亡命記事と考えます。

新羅王の名が漏れている同記事は『日本書紀』編纂者の「記述ルール」です。額面通りに信じてはい

けません。

当時の新羅王は「眞徳女王(在位647~654年)」で、西暦648年、王族の金春秋(後の武烈王)を唐

に派遣し、百済討伐の援軍を願い出て、太宗(在位628~649年李世民)から一応の了承を得た見返り

に、649年唐の衣冠礼服制度を取り入れ、650年には独自の年号を廃止して唐の年号に改めます。

この外交事情から、倭国に人質を出す理由はありません。

 

 

次回は「孝徳天皇」(2)です。

 

 

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