第百四十一話  「天智天皇」(3)

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図 水落遺跡の「漏刻」イメージ図  出典:奈良の宿大正楼

 

写真 奈良県明日香村飛鳥「水落遺跡」 出典:ニッポン旅マガジン

○和風諡号「天命開別天皇」とは 

○倭国の分裂

○天智天皇紀八年~天智十年記事の検証

 

 

1.和風諡号「天命開別天皇」とは

私見は、和風諡号を「天命開別天皇」を「天命を承(う)けて、別の王朝を樹立した天皇」と解釈し

ます。

「天命を承ける」には条件があります。

「九州王朝倭国王家”阿毎氏“の血筋に繋がる」人物だったのでしょう。

勿論、あくまで自称で公称ではありません。

中大兄皇子後の天智天皇の両親について、日本書紀は「息長足日廣額天皇(舒明天皇)」を父、母を

「天豊財日足姫天皇」と記しています。

天智天皇の和風諡号「天命開別天皇」と比較すると、脈絡がありません。

したがって、中大兄皇子の出生には疑問があります。

おそらく、中大兄皇子は「倭国王家“阿毎氏”」の血は流れているものの、庶流であったのでしょう。そ

れが和風諡号に見られる「別」の本質です。

とは云っても、支配地(屯倉)が与えられていたはずです。

その主たる支配地は、大和国の一部と推測します。

中大兄皇子は、地元豪族と「政略結婚」を進めます。中でも。実質「蘇我王権」とも呼ばれた蘇我氏

との関係は濃厚であったと推測します。

2.倭国の分裂

「白村江の戦い」で大敗した倭国は、占領軍唐の支配下となります。

その影響は当然、「蘇我王権」にも及びます。

唐軍は、吉備・播磨・摂津・河内・大和にも及ぶ「蘇我王権」の存在を看過できません。その支配力

を弱体化する戦略を進めます。

占領軍唐は「蘇我王権」の支配者蘇我宗家、具体的には蘇我入鹿大臣を九州へ召喚します。

狙いは「蘇我王権の弱体化及び支配地の没収」と考えられます。

あろうことか、九州王朝倭国は唐軍に協力します。

その結果、蘇我入鹿大臣は誅殺され、「蘇我王権」は滅んだのです。

「蘇我王権」が滅び、その支配地大和に進出したのが中大兄皇子で、とりわけ難波の江、淀川水域は

交易・物流の拠点で、富の蓄積は急速に進んだと推測します。

日本書紀が記す「天智七年春正月(668年)皇太子天皇に即位」記事は唐突感が拭えません。

また、即位した場所(宮)も不明です。

まさに間隙を突いたドタバタ劇です。

日本書紀記事には見えませんが、『如是院年代記』によると、「白鳳七年(668年)三月十九日自大和

遷近江志賀大津宮」の記事が象徴的です。

すなわち、「倭国の分裂を招く独立」という事実から逃げるように大和を脱出し、近江志賀大津宮へ

遷都します。

遷都後、強兵を雇い.牧で騎馬を養う姿は、何かをひどく恐れていたのでしょう。

他方では、翌年二月二十三日 古人大兄皇子の娘倭姫王を皇后に迎えます。

この慌ただしさは、尋常ではありません。

おそらく、直ぐ近くに敵対勢力が迫ってきたのを察知していたと考えられます。

天智天皇は打開策を見いだすため必死にもがきます。

そのもがいた姿が日本書紀記事に見えます。

敵は直ぐ近くに忍び寄っていたのです。ところが、行動は直ぐには起こしません。

翌年 唐は駐留軍千三百余名を派遣します。

敵は、駐留軍の撤退時期を冷静に分析し、行動を自粛します。

 

3.天智天皇紀八年~天智十年記事の検証

(1)天智八年

「八年春正月 蘇我赤兄臣を以て筑紫率に任命」

蘇我宗家が滅び、台頭したのが「蘇我倉氏」です。専門は「財政」です。

蘇我赤兄臣は「近江朝の財務官僚」に就任していたと推測します。父は蘇我倉麻呂、兄は蘇我倉山田

石川麻呂です。

この経歴から、蘇我赤兄臣が、九州王朝倭国の「行政のトップ、太宰府長官」に任命されるはずがあ

りません。

同記事は日本書紀編纂者による捏造記事です。

「是歳 斑鳩寺火災」

斑鳩寺は、法隆寺西院伽藍南東部の境内から発見された寺院跡で、通帳「若草伽藍」と呼ばれていま

す。

写真 「若草伽藍」で出土した壁画片  画像引用先:http://www.asahi.com/

法隆寺西院伽藍の南東部の境内から寺院跡で、2000年の発掘調査で、7世紀初頭の壁画片60点余りが出

土。この壁画片には彩色が残され、その彩色が歪に薄くなっていることから、1000度以上の高温で焼

れていたことが判明。この事実から斑鳩寺の火災が「一屋も残すことなく灰燼した」という伝承の物

証となりました。

壁画片の大きさは約5センチ四方で、地中の地層から出土。

壁画片の材質は焼成した煉瓦で、中国では塼、または壁ともいう。イスラム世界では「タイル」と呼ばれています。

「是歳 小錦中河内直鯨等を大唐に派遣。又佐平餘自信・佐平鬼室集斯等、男女七百餘人を以て近江

国蒲生郡に移住させ、又大唐、郭務倧等千三百餘人を派遣した。」

最も重要な記事をさらっと記述する日本書紀編纂者の手際は見事としか言い様がありません。

唐は、筑紫都督府に千三百餘人の駐留軍を派遣したのです。

天智六年十二月 劉徳高が唐に帰国してから、倭国内は収拾がつかない事態に入ります。

それは「羈縻政策反対派と恭順派」と「倭国王家“阿毎氏”の分裂」です。民間歴史学者の佃収・大柴

英雄・室伏志畔氏らが提唱する「王権分立論」です。

私見は、「王権」が少なくとも3つのグループに別れたと推測しています。

①「阿毎(天)氏」本家=倭国王

②「阿毎(天)氏」分家=豊国王

③蘇我王権 西暦664年滅亡

この事態を憂慮し、倭国は小錦中河内直鯨等を大唐に派遣し、事態解決に動きます。

その答えが「郭務倧等千三百餘人の進駐軍」の派遣です。

(2)天智九年

・「秋九月 安曇連頬垂を新羅に派遣。」

Wikipediaによると、西暦670年 唐と新羅は対立関係に入ります。原因は、新羅に亡命した宝蔵王

の外孫安勝を「高句麗王」に封じて高句麗の亡命政権を抱え込んだこと、次に百済領を巡って唐と新

羅の衝突が始まったことの二点です。

おそらく、倭国は朝鮮半島情勢の情報収集を図る目的で、安曇連頬垂を派遣したと推測します。

(3)天智十年

・「十年春正月二日 大錦上蘇我赤兄臣と大錦下巨勢人臣が殿の前に進み出て賀正の禮を奉る。」

中臣金連が神事を司るとありますが、日本書紀編纂者の加筆と推測されます。

・「是の日、大友皇子を以て太政大臣に任命。また蘇我赤兄を左大臣、中臣金連を以て右大臣に任

命、蘇我果安臣・巨勢人臣を以て御史大夫とす。」

大友皇子の太政大臣就任、また中臣金連の右大臣就任も疑問です。おそらく日本書紀編纂者による

「辻褄合わせ記事」と推測します。

加えて、巨勢人臣を以て御史大夫とする記事は、十年春正月記事と矛盾し、巨勢人臣は右大臣に任命

されたと推測します。

・「十年正月十三日 百済鎮将劉仁願・李守眞等が派遣され、表函を奉る。」

劉仁願の派遣は、唐の本気度がわかります。

倭国王及び主要官僚は、唐に対する忠誠を誓ったことでしょう。

・「十年夏四月二十五日 漏刻を新しき台に置く.始めて時を打つ。」

「如是院年代記」によると「斉明六年 始めて漏刻を造る」とあります、

注)「如是院年代記」

『群書類従 雑部15』に収められている年代記

如是院 京都市右京区花園妙心寺町

 

図 水落遺跡の「漏刻」イメージ図  出典:奈良の宿大正楼

写真 奈良県明日香村飛鳥「水落遺跡」 出典:ニッポン旅マガジン

 

・「是の月に栗隈王を以て筑紫率とす。」

「七年秋七月条」と重複しています。本来は七年秋七月の人事と考えられます。

・「十年七月 李守眞等帰国。」

日本書紀編纂者は、主語「郭務倧等」を李守眞等に書き改めています。その意図は、唐進駐軍

の撤退をなかったことにすることでした。

・「十年十月 天皇病重く、(中略)大友皇子を太政大臣として諸政を掌ることを願う。」

同年正月記事と重複しています。

・「十年十一月十日 翌月二日 沙門道久・筑紫君薩野馬(ちくしのきみさちやま)・韓嶋勝娑

婆・布飾音磐の四人が唐より帰国して言うには、“唐の使人郭務倧等六百人、送使沙宅孫登等一

千四百人、併せて二千人、船四十七艘が比知嶋で停泊している時に、此の大船団では倭国に怪

しまれるので、予め道久等を先触れとして遣わした方が良いと言っている。”」

沙門道久以下四人を帰国させるのに、送使が一千四百人も必要とは考えられません。

「嘘は大袈裟なほど信じられやすい」とは言いますが、日本書紀編纂者は”やり過ぎ“でしょう。

沙門道久以外は、唐に捕らわれた捕虜と考えられます。

筑紫君薩野馬について、故古田武彦氏は「倭国王」ではないかと指摘していましたが、後に「摂政」

に改めます。

朝鮮半島三国の戦いに関する記述では、国王自らが軍を率いて出陣するケースが散見されますので、

倭国王も自ら軍を率いていた可能性は濃厚です。

では、倭国が派遣した百済救援軍隊のいつの時期でしょうか。

私見は、西暦662年 第二次百済救援軍派遣の時期と推測しています。

『日本書紀』は西暦663年としていますが、『旧唐書』などは西暦662年としています。

・「十年十二月 天皇近江宮で崩御。新宮で殯す。」とあります。

歴史学者は「新宮を山科陵」としていますが、根拠のある説ではありません。

 

 

次回は「天智天皇」(4)です。

 

 

 

 

 

 

 

 

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