第五話 「白(ぺー)族統領神産巣日神こと大幡主」

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○ヘブライ系倭族の「白族」の移動経路

○白(ぺー)族が日本列島へ移動した理由

○白川伯王家

1.「白族の移動経路」と「水稲稲作の移動経路」

図4 白族の移動経路

3200年前、舟山群島から日本列島の九州へ

図5 稲作の開始年代・地域と稲作の伝播

出典:『DNAが語る稲作文明―著者佐藤洋一郎』

3200年前、水稲稲作の伝来

2.白(ぺー)族が日本列島へ移動した理由

故百嶋氏は彼らのルーツを現在のイスラエルの首都エルサレムに求め、移動した経緯・経路についてエルサレム→イラン(エジプトの圧力)→インド(アレクサンドロス大王の遠征)→中国と述べられています。

彼らがヘブライ系とする謂われは、アレクサンドロス大王遠征前に移動した人々としています。

紀元前5000年頃に黄河流域に進出しましたが、紀元前2200年前水稲栽培によって富を蓄え、「河姆渡(かばと)文化」などを築きましたが、紀元前26世紀頃の神農氏(しんのうし)時代、華夏民族(かかみんぞく=漢民族の先祖)の君主黄帝(こうてい)が対立する九黎族(きゅうれいぞく)のリーダー蚩尤(しゅう)を涿鹿(たくろく).の野で破り、敗れた九黎族はその後三苗(サンミャオ)と呼ばれ、ミャオ族・黎族(れいぞく)・カレン族に分裂し、一部は周代に華夏民族(漢民族の先祖)と同化したものの、彼らの多くは白族統領と共に中国江南地区に移住しました。

  漢民族は彼らを「倭人」と呼んでいました。

白族の一部は3,200年前から順次、舟山(しゅうざん)群島から琉球列島を経て日本列島の九州へと移住し、稲作文化と高床式住居をもたらしました。

図6 「涿鹿(たくろく)の野」長江文明と黄河文明の激突

出典:フリー百科事典Wikipedia(2021/08/06 07:30)

3.白川伯王家

白族の王は、代々白川伯王を名乗り、「奴(ぬ)の国王」「刺国大神(さしくにおおかみ=大政大臣)」とも呼ばれました、白川伯王の後継者大幡主は博多の櫛田神社の主祭神として祀られ、福岡市博多区の「大博通り」にその名をとどめています。

白川伯王は『記紀』に見えませんが、僅かに『記』が大国主の祖父「刺国大神」として登場しています。

故百嶋氏によれば、白川伯王は『後漢書』倭伝が記す「倭奴国王(いぬこくおう)」でしたが、2世紀初頭、呉の太白(たいはく).の裔「君長大率姫氏(くんちょうだいそつきし)」に日本列島を代表する坐を譲られ、大率姫氏の君長師升(くんちょうししょう)と娘の神玉依姫(かみたまよりひめ)との政略結婚により、二人の間に生まれたのが神武天皇と述べられています。

写真12 「滇王(てんおう)之金印」 出典:福岡市博物館

紐は「蛇」

写真13 志賀島出土の金印 出典:福岡市博物館

次回は別天つ神「宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこち)の神」です。

 

 

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