第百十九話  「仏教公伝」

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写真 法隆寺「釈迦三尊像」

 ○仏教公伝とは

 ○仏教公伝の時期はいつか

 ○北魏様式の仏像

 

1.仏教公伝とは

「公伝」の定義については、よく論じられていないようです。故中小路駿逸博士は著書『九

州王権と大和王権-海鳥社』で、「仏教の公伝は僧侶の渡来」と述べています。

日本における「キリスト教の伝来」は、伝道師が渡来してから始まりました。特に国が認め

ていたわけではないようです。

その後、民衆にキリスト教が広まり、時の権力者が「交易と鉄砲、既成宗教への価値観低

下などからキリスト教に興味を示した織田信長によって正式に布教が認められました。

おそらく、故中小路博士もそのような経緯から断じられたのでしょう。

したがって、「仏教公伝」は、伝道者によって民衆や豪族達の一部に広まっていた土壌があ

り、禁止するよりも正式に布教を認めたのでしょう。

ところが、『日本書紀』には、そのような記述がありません。

この事実は、「ヤマト王権ではなく、別の国家権力(九州王朝)」によって「仏教広宣流

布」の勅命を発布したと考えられます。

注)故中小路駿逸博士(1932生~2006年没)

1953年京都大学文学部文学科卒。高校・高専教諭を経て1969年愛媛大学文学部教授。

1984年大阪大学医療技術短期大学教授。1987年追手門学院大学文学部教授。2000年同大

学名誉教授。国文学・国語を担当

 

 2.仏教公伝の時期はいつか。

出典はWikipediaによります。(2022/06/13 14:00)

(1)中国の仏教受容

①北魏(386~534年)鮮卑族拓跋氏によって建国

第三代太武帝による廃仏の後、452年以降歴代の皇帝は仏教を篤く信奉し、5世紀末~

6世紀初めには雲崗や龍門といった巨大な石窟寺院が開かれ、唐代と並ぶ中国仏教の最

盛期を迎えました。

②南梁(502~577年)

初代武帝は異常なほど仏教に傾倒し、多くの寺院を建立しました。

(2)朝鮮三国における仏教受容

①高句麗

372年小獣林王の時代に前秦から伝えられたとされ、375年には肖門寺・伊弗蘭寺などが

建立されました。

②百済

384年枕流王が東晋から高僧の摩羅難陀を招来。

392年阿莘王が仏教を信仰せよとの命を国内に布告。

ただし、百済国内に本格的に仏教が普及するのは、それより一世紀ほど遅れた6世紀

初頭とされています。

③新羅

5世紀初め頃に高句麗から伝えられたという。法興王の時代に公認された後は、南朝梁

との交流もあり、仏教振興策がとられるようになった。

④任那諸国

百済・新羅と国境を接しており、6世紀初め頃に仏教を受容していたかもしれません。

(3)日本

①渡来人による私的崇拝

渡来人の手により、公伝以前から、すでに仏像や仏典はもたらされていたようです。

彼らは氏族内私的な信仰として仏教をもたらし、信奉する者もいたと考えられます。

522年に来朝したとされる司馬達等(止利仏師の祖父)はその例で、すでに大和国高市

郡において本尊を安置し「大唐の神」を礼拝していたと『扶桑略記』に記されています。

6世紀の各地の古墳などからは、仏の像らしきものが鋳出されている鏡、あるいは佐波

理椀や華瓶などの仏具と思われるような品が発掘されており、被葬者が明らかに仏教を崇

拝していたことが確かめられます。

写真 「佐波理椀(おりん)」  出典:文化遺産オンライン

神戸市上沢(かみさわ)遺跡出土

 

写真  華瓶(けびょう) 出典:ことバンク

②北魏の僧「善正上人」

伝説によるとまだ日本に仏教が伝来していない時代、第10代崇神天皇(ツヌガアラシト)

の御代、すでに日子山権現の霊神が、天竺から東に向かって五つの剣を投げたといわれ、ま

た第26代継体天皇の御代に、大唐から善正和尚という僧が飄然として海を渡って太宰府につ

き、豊州(豊前国)の高岳(英彦山)の聖なる地に「彦山霊仙寺」という一寺を建立して、

釈迦如来、観世音菩薩を本地(仏)にしたという。

以上、『九州の山と伝説 天本孝志著 葦書房p80』

写真  「英彦山霊泉寺」  出典:ブログ九州西国霊場巡り

(4)仏教公伝552年説

私の高校時代の「日本史」教科書は「仏教公伝552年説」でした。理由について、授業で

は説明がありませんでしたが、後にその理由がわかりました。

歴史学者は、当初『日本書紀-欽明天皇紀十二年十月条』を引用し、

「百済の聖明王、西部姫氏達率唎斯致契(せいほうきしだちそちぬりしちけい)等を遣わ

して、釋迦佛の金銅像一軀・経論若干巻を献上する。別に表して、流通し禮拜し功徳を誉めて

云うには“是の法は諸の法の中で最も優れています。(後略)」

つまり、欽明天皇12年十月条は552年に該当し、「仏教公伝は552年」としたのです。

同条の「法」とは「仏法」を指し、別の表とは「推薦文」に過ぎません。最も肝心な点は

「僧の渡来」がないのです。

552年以前に「僧の渡来」があり、聖明王は仏教布教のための「釋迦佛の金銅像一軀・経論

若干巻」を献上したのです。

したがって、同記事は「仏教公伝記事」とは考えられません。

私見として、百済国に「倭系官僚」の存在を指摘していますが、「西部姫氏達率唎斯致契の

 姓“「姫氏”」は、九州王朝倭王の本姓「紀氏」と同じです。

すなわち、百済国と九州王朝倭王との関わりが見えてきます。

(5)仏教公伝538年説

その後、研究が進み、『上宮聖徳法王帝説』(824年以降の成立)や『元興寺伽藍縁起并

流記資材帳』(724年成立)には欽明天皇時代の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来

したとあります。

ところが、「戊午年」を西暦538年とすると、欽明天皇の在位年代(539~571年)に該当

しないのです。

歴史学者は困りました。思いついたのは「538年=552年説」です。

子供さえ、騙せない理屈です。

答えは明らかです。仏教公伝は大和王権の欽明天皇にもたらされたのではなく、九州王朝

にもたらされたと考えなければ説明がつかないのです。

 

3.北魏様式の仏像

仏教が伝来して以来、数多くの仏像が彫られ、現在に残されています。この時代の仏像は北

魏様式という形式で彫られ、またアルカイックスマイル(「古代の微笑」)を取り入れている

のが特徴です。

 

写真 代表的な北魏様式「法隆寺釈迦三尊像」    出典:法隆寺HP

写真 代表的な北魏様式「中宮寺半跏思惟像」    出典:中宮寺HP

 

次回は「任那滅亡」です。

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