第四十八話  「孝霊天皇」(3)

○西暦228年「第二次九州王朝御神霊東遷護送船団」

○孝霊天皇の伯耆(ほうき)進出

 

1.西暦228年「第二次九州王朝御神霊東遷護送船団」

同船団は、故百嶋氏のメモに残されています。孝霊天皇62歳の時です。

第一次と同様の経路をたどり、目的地は天理市の新和泉です。船長は61歳の鴨玉依姫(かもた

まよりひめ)、梶取は椎根津彦(しいねつひこ)、孝霊天皇の後継者孝元天皇、九州王朝親衛

隊長物部宗家宇麻志麻遅命(うましまちのみこと)、天足彦(あまたらしひこ)こと日子坐王

(ひこますおう)とその王子ヤマトタケル・大山咋(おおやまくい)等が参加したと推測されま

す。

日子坐王は北上し、山代を経由して日本海側まで進出しました。

ツヌガアラシト後の贈崇神天皇は元々の支配地である角鹿に加え、大和の纏向を新たな支配

地として与えられ、生目入彦(いくめにゅうひこ)も大和の磯城郡を支配地として与えられた

ようです。

阿蘇耳族は山代の宇治に進出し、名を「阿蘇」から「宇治」に改めました。

忠臣大山咋(おおやまくい)は、急遽朝鮮半島の安羅国から帰国し、「第二次九州王朝御神

霊東遷護送船団」に参加し、孝霊天皇の守護神たらんと京都市西京区嵐山宮町の松尾大社、大

津市坂本の日吉大社の主祭神として祀られています。

孝霊天皇も大和に入り、天理市新和泉町の大和神社にその痕跡を残しています。

中殿に「日本(大和)大国魂大神」として祀られています。

同天皇は水運が利用できる琵琶湖を重視し、「敦賀への道」「越前への道」「若狭への道」

「東海地方への道」の拠点として西岸の大津市、東岸の守山市を整備し、琵琶湖航行のあい路と

なる野洲川河口に物流拠点を築きました。

その痕跡が、守山市の「下之郷遺跡」「伊勢遺跡(祭祀遺跡)」「服部遺跡」「下長遺跡」と推

測します。

伊勢遺跡は「弥生後期に突如現れる巨大祭祀空間の遺跡」と称され、面積約30㏊内に様々な形式

の大型建物が計13棟も発見され、それらが円と方形の組み合わせで計画的に配置されています。

図  守山市 出典:NPO法人守山弥生遺跡研究会

図 「伊勢遺跡」 出典:NPO法人守山弥生遺跡研究会

 

図 守山市の主要遺跡 出典:NPO法人守山弥生遺跡研究会

2.孝霊天皇の伯耆(ほうき)進出

(1)妻木晩田遺跡(鳥取県西伯郡大山町・米子市の一部を含む)

鳥取県西伯郡大山町に広がる「妻木晩田遺跡(むぎばんたいせき)」は156haにも及ぶ大

規模弥生遺跡です。

同遺跡は大山山系孝霊山(標高751㍍)から続く丘陵上(標高90~150㍍)に位置し、美保湾が一

望できます。

特徴は「高地性集落」で、機能別(住居・倉庫・広場・祭殿・有力者の館など)に集落が形成されて

いることが一目でわかります。

居住地域からは、300点を超える鉄器が工具・農機具を中心に発掘され、日本海側では群を抜く

多さです。

また、鍛冶炉と考えられる竪穴式住居面の焼土面も存在しています。

図  妻木晩田遺跡周辺地図

図  妻木晩田遺跡拡大マップ 出典:島根県立むぎばんた史跡公園

(2)進出目的

伝説に依れば、同遺跡の征服者を孝霊天皇とし、楽々福(ささふく)神社周辺を仮宮とし、

11年間とどまったとしています。

この伝説が事実だとすれば、孝霊天皇は伯耆国を直轄領に組み込んだと推測されます。その

目的は、山陰地方の「真砂砂鉄」・中国山地の「鉄鉱石及び赤目砂鉄」や大陸からの鉄鉱石の

集散地として、美保湾を望む同地を最適地として進出したと推測されます。

伯耆国を完全に統治するためには現地の抵抗勢力を抑える軍事力が必要でした。

この軍事力を構成したのが、孝霊天皇の御子の若建吉備津彦・彦狭島命兄弟と樂々福(ささ

ふく)神社摂社に祀られている「物部宗家大水口ウマシマヂ並びに大矢口ウガヤフキアエズ」

軍と推測します。

この武力を背景にして、孝霊天皇が企図したのは「鉄器(工具・農機具・武器)生産」で、円滑

な生産力を確保するため機能的な集落を形成していったと推測されます。

写真 「妻木晩田遺跡全景」 出典:米子市観光サイト

写真  樂樂福神社 島根県日野郡日南町宮内 出典:同社HP

ご祭神:孝霊天皇・細媛命・若建吉備津彦命・福媛命ほか

写真 「樂樂福神社」由緒略記

 

 

次回は「孝霊天皇」(4)です。

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