第百二十話  「任那滅亡」

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図  紀元前195~108年頃の朝鮮半島地図

○朝鮮半島の歴史

○任那日本府と任那諸国

 

 1.任那日本府の設置と滅亡まで

私見を述べると、紀元前四世紀頃に、「月支国」が朝鮮半島中南部を緩やかに支配していま

した。

紀元前三世紀頃に「月氏国」は「辰国(じんこく)」と名を変え、引き続き周辺諸国の王を

任命していました。

紀元後一世紀には、越智族「金首露」が「金官伽耶国」を建国し、辰国の地位を継承しま

す。ほぼ同時期に、鉄を求めて九州から朝鮮半島へ進出したのが「白族・昔氏・瀛氏」です。

白族統領は「委奴国王師升(白川伯王とも呼ばれました)」で、その後大幡主・豊玉彦へと

継承され、「金官伽耶国」との絆を深めていきます。

昔氏の統領は、九州の玉名市付近に存在した多婆那国王の座を棄て、朝鮮半島へ進出し、

「斯羅国(辰韓国?)」を建国し、その後は伊弉諾・素戔嗚尊へと継承されます。

瀛氏の統領は、「伊都国王金山彦」が「弁辰国」を建国します。その後は代々金山彦を継承し

ます。

金官伽耶国王金首露は娘婿の許氏に、土地を割いて「大伽耶国」を建国させます。

詳しくは、第二~八話並びに十一話を閲覧ください。

注)故百嶋氏は「金官伽耶国を金海(キメ)を首都とすることから、「金海伽耶国」と表記して

います。

図 三世紀頃の朝鮮半島地図  出典:Wikipedia(2022/07/12 11:10)

2.二世紀中頃の異変

鉄を求めて倭人は朝鮮半島へ進出しましたが、その後、瀛氏金山彦により、日本海側に良質の

砂鉄が大量に発見され、倭人を含め「金官伽耶・弁韓・辰韓・大伽耶国王」が多くの族長を率い

て、日本列島へ進出します。

ところが、この進出は朝鮮半島諸国に思わぬ弊害をもたらします。

それは、「朝鮮半島諸国の空洞化」・「高句麗や百済の南下政策や朝鮮族の進出」で混乱に拍

車がかかります。

この現象は、九州王朝「倭国」にとっても、中国への貢献ルートが絶たれ、倭人の支配力が低

下しました。

 

3.孝霊天皇の皇后壱與の兄「宇摩志麻遅命(和知津見命とも表記)と熊甲安羅鍛冶彦(くまかぶ 

   とあらかじひこ」こと別名大山咋(おおやまくい)を朝鮮半島に派遣

目的は、朝鮮半島の中心国家「金官伽耶国」の立て直しと倭人による「傀儡(かいらい)国家」の建

設です。

外交だけでは解決できません。瞠目させるような軍隊を編成し、見せつけることが重要でした。

朝鮮半島へ渡海するための九州王朝の”水軍”は強力です。

熊甲安羅鍛冶彦の「鍛冶は舟を操る梶」を意味し、船団を指揮します。

宇摩志麻遅命は物部宗家の祖とも言われ、「水軍を主力とする大水口物部軍」を率います。

この目的に協力したのが、「高木大神を祖とする大伽耶国」と推測します。

宇摩志麻遅命は着々と目的を遂行します。

(1)金官伽耶国内に「朝鮮半島における統治機構“任那倭宰(みまなのわのみこともち)すなわ

ち、任那日本府を設置。」

(2)「金官伽耶国」を構成する衛星国家を「任那諸国」とします。中国史書では「馬韓あるいは

任那・伽耶諸国」とも記されています。

注意しておきたいのは「百済を馬韓の後継国家とする」見解がありますが、馬韓は任那諸国の一つで

す。

(3)任那日本府を防衛する軍事国家「安羅国」の建国です。勿論、初代国王は熊甲安羅鍛冶彦です。

しかし、問題点は残されたままでした。というのは、任那諸国は倭人だけで構成された国家ではな

く、様々な部族が流入し、大半を占め、一枚岩ではありません。。

したがって、危難に陥ったときは一枚岩で抗戦できない脆さを抱えていました。

そのため、九州王朝を支える豪族達の多くは人・資金・軍事的負担は大変でした。

 

4.四世紀末、高句麗広開土王の任那諸国への侵攻

当初は、高句麗騎馬軍によって為す術がありませんでした。一方的に侵略されたのです。

この事態を打開したのが安羅国の強力な騎馬軍で、高句麗軍を平壌まで押し戻しましたが、任那諸国

と倭国は疲弊しました。

詳しくは第九六話を閲覧ください。

 

5.五世紀末頃から始まる新羅と百済による任那諸国への侵略

五世紀末頃から新羅は国力の増強に向けて改革を継続し、西暦500年に即位した智證麻立干(在位500

~514年)はそれまで不定であった国号を正式に「新羅」とし、また王号を「麻立干から王」へと変

更します。

後継者の法興王(在位514~540年)も改革を続けるとともに対外活動を活発化させ、西暦532年に金

官国は降伏します。

その結果、任那日本府は「安羅国」へと避難しました。

他方、百済は東城王(在位479~501年)即位後、高句麗の南下政策が緩んだ隙を突いて、復興に向け

て大きく変化し、南方地域及び伽耶地方への領土拡大策を図ります。

東城王の死後、後を継いだ武寧王(在位501~523年)は、倭国で育ち、伽耶地方への進出をためらい

ます。

『日本書紀-欽明天皇紀』によると、武寧王の死後、後継者の聖明王(在位523~554年)は、524年か

ら始まった新羅の伽耶地方侵攻に対し、再三「新羅との調停」を模索します。

ところが、新羅と百済は「羅済同盟」を結んでおり、実際は新羅の侵攻にあわせて安羅国を侵攻し、

実質的に支配します。また、一方では新羅の函山城を攻めましたが、伏兵にあい、聖明王は戦死しま

す。

 

6.任那日本府の滅亡

西暦561年、大伽耶国並びに伽耶地方の任那諸国は新羅に併合されます。翌年、百済は安羅国を併合

し、任那日本府(実際は安羅日本府)が滅亡しました。

遠因は「磐井の乱」と関わりがあるかもしれません。

 

写真 韓国ドラマ「花郎」  出典: BS-TBS 番組表

新羅の領土拡張・発展に大きな業績をあげた真興王(チムチワン)は「花郎(フアラン)」制度を確

立します。ところが、同王の陵墓は未だに発見されていません。不思議だと思いませんか。

 

 

次回は「敏達天皇」です。

 

 

 

 

 

 

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