第百八話  番外編「皇紀2600年」

 「皇紀2600年」とは 

 ○「三正総覧」とは 

 ○「日本歴日原典」とは 

 ○あらためて「倭の五王」とは 

  

1.「皇紀2600年」とは 

        Wikipediaによれば、昭和15年(1940) 神武天皇即位紀元2600年を祝った一 連の行事が「皇

 紀2600年記念行事」です。 

  すなわち、神武天皇即位元年(紀元前659年)を紀元元年とする説です。 

  故百嶋氏は「阿蘇神社の阿蘇宮司家が皇紀2600年の大法螺を言い出し、それがいつのまにか

定着してしまった。」と述べています。 

   写真 昭和15年11月11日 皇紀2600年記念行事会場  出典:Wikipedia(2022/05/20 16:20)

  皆さんは「蘇我元年(西暦6年)」を知っていますか。 

  故百嶋氏は「瀛(えい)氏金山彦の後裔蘇我氏が立てた年号と述べています、 

  意味深な発言です。真意が未だにわかりません。 

2.「三正綜覧」とは 

   1880年に敢行された暦の対照表(長歴) 内務省地理局編 

   写真 「三正綜覧」表紙 出典:国会国立図書館デジタルライブラリー 

3.「日本歴日原典」 

    1975年 『日本書紀』をベースに内田正男氏が電子計算機で作成し、算出。 

    利用方法は「日本の歴日データベース」で検索できます。 

    「倭の五王」による中国への朝貢記事を上記データベースで検索したのが下記の表です。 

    表 「倭の五王」朝献記事 

元号 

西暦 

日本の歴日データベースで補正 
永初二年 

421年 

讃、(允恭天皇9年) 
元嘉二年 

425年 

讃、(允恭天皇13年) 
元嘉七年 

430年 

讃? (允恭天皇18年) 
元嘉十五年 

438年 

珍、(允恭天皇26年) 
元嘉二十年 

443年 

済、(允恭天皇31年) 
元嘉二十八年 

451年 

済 (允恭天皇39年) 
大明四年 

460年 

済 (雄略天皇3年) 
大明六年 

462年 

興 (雄略天皇5年) 
昇明元年 

477年 

武 (雄略天皇20年) 
昇明二年 

478年 

武 (雄略天皇21年) 
建元元年 

479年 

武 (雄略天皇22年) 
天監元年 

502年 

武 (武烈天皇3年) 

   同データから、「倭の五王」に該当する天皇は「允恭・雄略・武烈天皇」の三 人となり、二人

 足りません。 

  したがって、『日本書紀』が記すヤマト王権とは「別の王権、それも外交権を持つ王権」が存在

 したことは明らかです。 

  Wikipediaによると、中国皇帝とヤマト王権の相互の遣使については『日本書紀』にみられます

 が、『古事記』にはみられないことや、ヤマト王権の大王が讃・珍・済・興・武などといった一字の

 中国名を名乗ったという記録が存在しないこと、『古事記』に掲載された干支と倭の五王の年代に

 一部齟齬がみられることなどから、「倭の五王」はヤマト王権とは別の国の王とする説も江戸時代

 からあり、特に九州の首長であるとする説も根強いとしています。 

  どうやら、Wikipediaは、「故古田武彦氏が唱えた“九州王朝説”」をメジャーな学説として取り上

 げないようです。 

  最近のNHK放送においても「古田説」を取り上げていません。 

  私見は、故百嶋氏が指摘するように『日本書紀』が記す歴代天皇を全面的に信じていません。理

 由は以下の四点です。 

  (1)正統な天皇ではない贈天皇の治世を反映。 

  (2)ありもしない神功皇后摂政紀69年を含んでいます。 

  (3)西暦391年~407年まで展開された高句麗の広開土王との戦いについて、『日本書紀』は一

    切記述していません。   

  (4)『日本書紀』は「倭の五王」に関する記事がありません。 

  ところが、同データの基準年は、 

 ・神武天皇の即位年紀元前659年 

 ・武烈天皇即位年が西暦500年 

 下記表の「歴代天皇の在位年数合計は1159年。  

 1159年-659年=500年 

  この500年は、同データの信憑性が確認できます。 

  『日本書紀』編纂者の緻密な編纂能力に舌を巻きます。 

  故百嶋氏は「『日本書紀』編纂者に騙されないよう、知恵を絞ってください。」との金言が、頭

 から離れません。 

   表 歴代天皇の在位年数と崩御年齢 

 

天皇名 

日本書紀

在位年数 

日本書紀

崩御年齢 

天皇名  古事記

在位年数 

 

古事記

崩御 年齢 

正統神武 

76 

127 

贈仲哀 

9 

52 

贈綏靖 

33 

84 

贈神功皇后 

69 

100 

贈安寧 

38 

57 

贈応神 

41 

110 

正統懿徳 

34 

不明 

正統仁徳 

87 

不明 

贈孝昭 

83 

不明 

贈履中 

6 

70 

贈孝安 

102 

不明 

贈反正 

5 

不明 

正統孝霊 

76 

不明 

正統允恭 

42 

不明 

正統孝元 

57 

不明 

贈安康 

3 

不明 

正統開化 

60 

不明 

贈雄略 

23 

不明 

贈崇神 

68 

120 

正統清寧 

5 

不明 

贈垂仁 

99 

140 

贈顕宗 

3 

不明 

贈景行 

60 

106 

贈仁賢 

11 

不明 

贈成務 

60 

107 

武烈? 

8 

不明 

 

 4.あらためて「倭の五王」とは  

   従来の「倭の五王」説は恣意的で素人の私でも、高名な学者の方々が本気で主 張されていたこ

  とが今でも信じられません。 

   でもヒントがないわけではありません。 

(1)和風諡号から検証してみましょう。 

  表 歴代天皇の和風諡号(応神~武烈天皇) 

 

天皇名  和風諡号 
応神天皇  誉田天皇(一書では誉田別天皇) 
仁徳天皇  大鷦鷯(おおささぎ)天皇 
履中天皇  去来穂別天皇 
反正天皇  瑞歯別天皇 
允恭天皇  雄朝津間稚子宿禰 
安康天皇  穴穂天皇 
雄略天皇  大泊瀬幼武天皇 
清寧天皇  白髪武廣國押日本根子天皇 
顕宗天皇  弘計天皇 
仁賢天皇  億計天皇 
武烈天皇  小泊瀬鷦鷯天皇 

  『日本書紀-安康・清寧・顕宗紀』は雄略天皇を「大泊瀬天皇」と記しています。 

    これを混乱記事とみるべきでしょうか。 

    私には優秀な『日本書紀』編纂者が、“このヒントを解いてみろ”と問いかけているかのよう

   に思えます。 

    「大泊瀬幼武天皇」の「幼」は「稚」と同意で「父 大日本根子彦國牽天皇 子 稚日本根

   子彦大日日天皇」の関係は親子と推測されます。 

     「大泊瀬天皇と大泊瀬幼武天皇」の関係は親子ではないでしょうか。 

  何故、雄略天皇(和風諡号大泊瀬幼武天皇)の御子清寧天皇(和風諡号白髪武廣國押日本根子天

   皇)は輝かしい九州王朝の根本であることを称する「日本根子」の諡号ガ贈られたのでしょう 

   か。

    明らかに雄略天皇と清寧天皇の親子関係は不審です。 

    雄略天皇は九州で生まれたとの神社伝承や伝説が管見には見えませんので「倭の五王」の系

   譜に繋がるとは思えません。 

    では、父親は誰でしょうか。大泊瀬天皇の可能性も窺えますが、全く管見には見えません。 

  ③「松野連系図」によると「讃の父騰(とう)」には「倭国王」という注記がありません。 

     理由は不明ですが、「讃」は仁徳天皇の皇子「大草香皇子」が二朝に分かれた九州王朝を

    統一した“第二次九州王朝”の大王から禅譲を受け、新たに第三次九州王朝“を立てた大王かも

    しれません。 

     血筋は「大率姫(=紀)氏」でしょう。高句麗の広開土王との戦いで、倭国は疲弊し、不満

    分子を懐柔する方策として「禅譲」を選択したと推測します。 

    その時期は5世紀初め(西暦410年頃)と推測します。 

  ④清寧天皇は第二次九州王朝の正統な後継者で、父は第九十九話で「葛城一言主」と仮付けしま

   した。勿論、根拠は薄弱です。 

  ⑤武烈天皇の即位を西暦500年と仮定すると、『宋書倭国伝』が記す「武による昇命元年(477

   年)・同二年(478年)の遣使は武烈天皇が倭王武」ではないことは明らかです。 

  「武の父興」の没年は、喪に服す期間を二年と仮定すると西暦475年前後と推測されます。 

 ⑥中国の史書『宋書・南斉書・梁書倭国伝』から類推すると、倭の五王の在位年代は以下のように

  推測されます。(服喪期間をそれぞれ2年と推定) 

  讃 ?~西暦435年 

  珍 西暦435~441年 

  済 西暦443~460年 

  興 西暦462473年 

  武 西暦475~502年以降 

 「日本の歴日データベース」から検索すると「倭の五王」に対応する天皇は「允恭・安康・雄略・

 清寧・仁賢天皇」の六人になります。 

  私見は「正統天皇は允恭・清寧天皇」の二人です。 

  同データは「干支」を基礎データにしています。 

  私見は、もうお気づきだと思いますが、「允恭・清寧天皇」は干支を1周(60年)遡った記事ではな

 いかと推測しています。 

  したがって、『日本書紀』は「倭の五王」に対応する天皇を一切取り上げていないことになりま

 す。 

  それが『日本書紀』の基本姿勢なのです。 

 ⑦振り出しに戻ってしまいました。 

   申し訳ありませんが、現在の私の調査能力では「第二次九州王朝の大王」さえ、断片的に推測

  するだけで精一杯です。 

  

 次回は「武烈天皇」です

 

 

 

 

 

 

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