第百十二話  「継体天皇」(3)

 

 

 

 ○頻繁な百済との外交 

 ○倭国武の後継者 

 ○磐井の乱 

 

 

  1. 頻繁な百済との外交 

   『日本書紀-継体天皇紀』から検証してみましょう。  

  (1)二年十二月「南の海中の耽羅人、初めて百済國に通う。」 

     耽羅は現在の済州島です。『三国史記-百済本紀』によると、文周王(在位475~477年)二

    年耽羅国が百済国の臣下になった記事。 

    『日本書紀』とは32年のずれがあります。 

  (2)三年春二月「久羅麻致支彌(くらまちきみ)が、日本より来たるという。」 

     『三国史記-百済本紀』には見えない記事です。 

     久羅麻致支彌は不詳ですが、「支彌は君」の意と推測され、九州王朝倭国のしかるべき高

     官と推測されます。 

  (3)六年夏四月 穂積臣押山を百済に遣わし、筑紫國の馬四十匹を送る。 

     穂積臣押山は、孝元天皇の養子彦太忍信命の家臣に降った際の名ですから、およそ240年

     タイムスリップした記事です。 

  (4)六年十二月 百済、使いを遣わし、任那國の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四縣 の割譲を

    百済が願い出ます

     これに対して、穂積臣押山は「後世に災いを起こす恐れあり」として反対大伴大連金村

    も天皇を諫めましたが、天皇は百済の申し出を許します。 

     同記事は、高句麗の長寿王によって蓋鹵王ガ殺され、西暦475年百済は実質的に滅亡しま

   す熊津に逃れた文周王は再起を図るものの、西暦478年文周王は解仇に殺され、一層百済は

   混乱します 

    おそらく同記事は西暦478年頃の記事と考えられます。 

    当時の倭国王は「武」です。 

    私見ですが、「倭王武」の政策判断の誤りは、大きな禍根を招きます。 

 (5七年六月 百済姐彌文貴将軍・州利即爾将軍を派遣し、穂積臣押山にそへて五経博士段楊爾

   を貢ぐ「伴跛(はへ)国が百済領の己汶を略奪したので、お返し願いたい」との要望 

    いつの時代の記事か不明ですが、穂積臣押山は任那国王であり、『日本書紀』編纂者の「任

   那国」に対する認識は疑問です。 

    「伴跛(はへ)国」は、慶尚北道星州郡に存在した任那諸国の一つ「星山伽耶」と考えられ

   ます。星山伽耶が百済領の現忠清南道の錦江流域を奪い取ったので、倭国に領土返還を求めた

   という記事ですが、実態は百済が星州伽耶の港を侵略したと推測します。 

 (6)七年八月 百済の太子淳陀薨去。 

    百済武寧王(462~523年没は、父の東城王が西暦502年暗殺され、急遽百済国から呼び戻

   され、武寧王として即位します。40歳の時でした。 

    おそらく文周王(在475~477年)の時代に倭国へ人質として供されていたのでしょう。 

   『日本書紀-雄略天皇紀』によると「嶋王」と表記しています。諱「斯麻」を名乗ったのでしょ

   う。 

    太子淳陀は、嶋王の倭国在国時に生まれたと推測します。 

 (7)七年十一月 百済の姐彌文貴将軍・新羅の汶得至、安羅の辛巳奚及び賁把委佐、伴跛の既殿

    奚及び竹汶至等を引見して恩勅を賜る。 

    己汶・滞娑を百済に割譲することを許す。 

    この月に伴跛國戢支を遣わし、珍寶を献上して、己汶の地を乞う。 

    倭国王の裁定に不満な伴跛國の姿勢が読み取れます 

    己汶は現在の全羅南道南原(ナムウオン)市、滞娑は現在の慶尚南道の河東(ハドン郡を

    指します。 

    己汶は星山伽耶の飛び地で港に面していました。 

    このようは不公平な倭国王の裁定は大伽耶・伴披國にとって我慢できるものではありませ

    ん。 

 (8)八年三月 伴跛、城を子呑・帯沙に築き、狼煙台や兵糧倉庫を設置し、日本に備える。ま

   た、新羅に攻め入り、乱暴・狼藉を働いた。 

   『日本書紀』記事は混乱を極めています。 

    敵が日本なのか。新羅なのか、さっぱりわかりません。 

    『三国史記-新羅本紀』によると、法興王(在位514~540年)は、西暦521年、百済との「羅済

    同盟」を背景に伽耶方面への勢力拡張を図るとあります。 

    実態は、新羅による伴跛国(星山伽耶)への侵略ではないでしょうか。背後には倭国が友好国

    と認める百済の背信があったかもしれません。 

 (9)九年四月 物部連、帯沙江に留まり、戦を起こして伴跛国と戦うも、敵勢の戦力も侮りがた

   く、物部連は命からがら汶慕羅に逃げ込む。 

   名前不詳の物部連は、新羅軍と戦い一蹴されたのでしょう。 

   以後、空々しい記事が続きます。どうやら『日本書紀』編纂者は“親新羅派”で占められている

   のかもしれません。 

   「倭国王」が信頼した百済の武寧王は西暦523年に没します。『日本書紀』では継体天皇十

   七年とあり、見事に辻褄を合わせています。 

    図 星州郡の「⑤星山伽耶」

       出典:故百嶋由一郎氏作成、ひぼろぎ逍遥主催者古川清久氏が加筆 

 

 2.倭国王武の後継者 

    隅田(すだ)八幡神社 和歌山県橋本町隅田町垂井 

         同社に伝わる国宝「人物画像鏡銘文」  

    「癸未年八月 日十大王年男弟在意柴沙加宮時 斯麻念長寿 遣開中費直濊人今州利二人等 

   取白上同二百旱作此竟」   

     同鏡銘文については様々な解釈が提起されていますが、ここでは触れません。 

    拙訳「癸未(きび)年(503年 日十大王(ひとだいおう=人皇)の年、男の弟が意柴沙加

    宮(いしさかみや)にいます時、斯麻(後の武寧王)が河内直(かわちのあたい)と工人今州

    利等を遣わし、白銅二百斤で以て此の鏡を作る。」 

   注)「日十大王年」の読みについては、故古田武彦著『よみがえる九州王朝-角川文庫』を参考

     にしました。 

   「倭王武」は『梁書倭国伝』で、西暦502年まで生存していたことは確認できますが、503年以

   降は不明です。 

    隅田八幡神社の「人物画像鏡」を信ずるならば、西暦503年は「年が倭国王武の後継者」と

   考えられます。 

    写真 隅田八幡神社境内にある「人物画像鏡」レプリカ  出典;邪馬台国と日本書紀の界隈

3.「磐井の乱」 

   『日本書紀』の記事から追ってみましょう。 

 (1)原因と疑問 

   ①原因  

     二十一年夏六月 近江国毛野臣、衆六萬を率いて、新羅に破られた南加羅・喙己呑(とく

    ことん)を奪回し、任那国に合わせようとしたが、筑紫國造磐井が、陰で背き、計画は滞

    り、何年も空しくした。(中略)新羅はこの事実を知り、密かに磐井に賄賂を送り、毛野臣軍

    の進軍を妨害した。 

     磐井は本拠地(筑紫)に加え、火・豊国を支配し、その勢力は強大で、毛野臣軍は対抗する

    ことも出来ず、朝鮮半島への渡海など出来るはずもない状況に陥っていた。 

   ②疑問 

    ア衆六万を率いる近江国毛野臣の名が漏れています。百済の将軍をフルネームで記述して

      いるのとは対照的です 

    イ.朝鮮半島へ渡海するためには、衆六万の兵を運ぶ船の手配、騎馬を初めとする軍備、出

      港地などの記述が一切ありません。 

    ウ.「新羅」との戦闘に対する緊張感が全くといっていいほどありません。 

    エ.南加羅は任那国、喙己呑は金官国と考えられます。金官国が新羅に滅ぼされたのは、

      『三国史記-新羅本紀』によると、西暦523年、法興王(在位514~540年)の時です。同

      時に任那諸国への侵攻も進んでいたと推測します。 

     「倭国」の支配下にある朝鮮半島南部は緊急事態です。 

     にもかかわらず、『日本書紀』編纂者は、一行も記事にしていません。 

  (2)「筑紫國造磐井」とは 

     朝鮮半島に対面する九州の大部分を支配下に置く「磐井」は国造職であるはずがありませ 

    ん。外交権を持つ「倭国王」と推測します。 

 (3)「継体天皇の戦後分割プラン」 

     『日本書紀-継体天皇紀』は、以下のように記述しています。 

     「天皇、大伴大連金村・物部大連麁鹿火・巨勢大臣男人等に九州の地を支配している磐

    井を征伐する将軍を諮ったところ、物部大連麁鹿火に決し、戦後分割プランとして長門よ

    り東を朕、筑紫より西を物部大連麁鹿火の支配地とします 

(4)「磐井の乱の結末 

    『日本書紀-継体天皇紀』によると 

    「二十二年冬十一月 大将軍物部大連麁鹿火は、筑紫の御井郡で交戦し、終に磐井を斬殺し

   ます。」 

    「同年十二月 筑紫君葛子(かっし)、殺されることを恐れて糟屋屯倉を献上して、罪を免

   れます。」 

    『釋日本紀174p』所収の「筑後国風土記」の拙訳 

   「古老傳えて云う。雄大迹天皇のみ世に當たり、筑紫君磐井、豪強暴虐にして皇風になびか

   ず、生平の時、あらかじめ此の墓を造る.俄にして官軍動發し、襲わんと欲する間、勢勝たざ

   るを知り、獨り自ら豊前国上膳(かみつけ)縣に遁れ、南山峻嶺の曲(くま)に終わる。官軍

   は追跡し、行方を尋ねるが見失った。兵は怒りあふれ、腹いせに石人の手を打ち折り、石馬の

   頭を打ち砕いた。」とあります。 

    注)原文は漢文 

    図 交戦した候補地「御井郡」

 写真 磐井が遁れた候補地「英彦山南岳(標高1199.6㍍)」

英彦山山頂  出典:国指定文化財等データベース

写真 英彦山神宮「銅鳥居(かねのとりい)」出典:文化遺産オンライン

佐賀藩主鍋島勝茂の寄進

 (5)「磐井」は何故敗れたのか。

転機となった二つの事件

①継体天皇六年十二月条

「天皇、百済の聖明王の要請に応え、上哆唎・下哆唎・沙陀・牟婁の四縣を賜う。」

この判断に対して、哆唎國守(多羅伽耶国王か?)は穂積臣押山に訴えます。「今、この四縣

を百済に割譲すれば、両国の絆は深まるものの、後世に危難を及ぼします。また国境が守れな

くなります。」

大伴大連金村は物部大連麁鹿火(実際は蘇我氏と思われる)に命じて百済の使者に対応させ

ます。物部大連は「住吉大神(開化天皇)が初めて海表の金銀の國、高麗・百済・新羅・任那

等を以て、胎中天皇(譽田別天皇)に授けられました。故に大后息長足姫尊・大臣武内宿禰と

國毎に初めて官家(みやけ)を設置して、海表の藩屏としての機能を今まで果たしてきた。何

故、他人に四縣を与える必要があるのか。これは本(もと)の国境線に違えることになる。」

と、天皇の命に違背する発言でした。

また大伴大連金村も天皇を諫めます。

大兄皇子(後の安閑天皇)は、後に四縣割譲を知り、物部大連麁鹿火と同様の意見を日鷹吉士

に命じて百済の使者に伝えました。

大兄皇子は父継体天皇の命に違背する自らの心と戦ううちに、心痛は激しくなり、終には病

んで帰らぬ人となりました。

    後の安閑天皇は一度、崩御していることを心に留めておいてください。

なお、多羅伽耶国王は天皇の命を受け入れませんでした。

②継体天皇七年六月条

「伴へ(足偏に皮)国が、己汶の地を略奪したので、百済に返還を願い出ました。」

それを受けて、継体天皇七年十一月条で

「己汶・帯沙を百済に与えます。」

己汶・帯沙は星山伽耶の飛び地で、ソムジン川の河口地域にあり、星山伽耶の港を担う重要な

拠点です。したがって、星山伽耶が受け入れるはずがありません。

任那諸国にとっても、国境線を変更することは軍事戦略上からも受け入れることは出来なか

ったと推測します。

以上の事件によって、「倭国王磐井は任那諸国の反感を買った。」と推測されます。

加えて、西暦524年 倭国は新羅による金官国・任那諸国への侵攻に対して救援軍を派遣する

ことができませんでした。

「倭国王磐井」は一挙に求心力を失い、朝鮮半島経営を巡る反対派の蘇我氏・大伴氏・巨勢

氏等は勢力を拡大し、西暦527年、筑後川を挟んで、彼らは北から南へ進撃し、「倭国王磐

井」勢力を倒したのです。

見逃してはならないのは「磐井」は何故頑なに百済を信じたのでしょうか。

現代でもありがちな経営者による「過去の成功体験による現実の誤認と情報収集能力の貧

弱さ」が誤った判断を招いたと推測します。

言い換えれば「磐井の独善性」に問題があったのでは。

是により、第二次九州王朝は滅びたと推測します。

では、第三次九州王朝をうち立てたのは誰でしょうか。

上記の三人ではありません。九州王朝倭国の身内です。担いだ中心人物はおそらく蘇我氏

でしょう。

下記の図は、任那諸国の版図です。 出典:Wikipedia(2022/06/15 18:00)

図  慶尚北道の地図

六世紀の初め頃には、「星州・高霊郡」以外は、斯羅によって侵略されていたと推測

します。

図 慶尚南道の地図

図 全羅南道の地図

図 忠清南道の地図

写真 英彦山に咲く「ツクシシャクナゲ」出典:Wikipedia(2022/06/01 17:00)

写真 英彦山神宮境内に咲く「ヒコサンヒメシャラ」 出典:クロスロードふくおか

 

次回は「決戦の地御井郡」です。

 

 

 

 

 

 

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