第百二話  「億計天皇」

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○億計天皇の字“嶋郎(しまのいらっこ)

○弘計天皇の同母兄

○億計天皇の皇后と御子

○日鷹吉士を高麗に派遣

 

1.億計天皇の字“嶋郎(しまのいらっこ)”

   ことバンクによれば、「“字”とは、実名のほかに人々が呼び習わしている別名。通称・あだ

名」とあります。

“嶋郎”とは、「浦島太郎伝説の浦島太郎」を指すと考えられます。

『記紀』が記す「海幸山幸彦神話」と「浦島太郎で説」には、以下の共通項があります。

・亀

・竜宮城

(1)海幸・山幸彦神話

兄海幸彦の釣り針を無くし、途方に暮れていた山幸彦は盬土老翁(しおつちのおきな)の忠

告に従い、亀に乗って海神の住む竜宮城へ向かいます。そこで出会った海神の娘豊玉姫と恋に

陥ります。やがて、無くした釣り針は鯛の口から見つかり、山幸彦は竜宮城を離れ、故郷の海

岸に戻ります。

故百嶋氏による登場人物の説明

①山幸彦

実名彦火々出見命、別名経津主命・猿田彦・饒速日命

②海幸彦

実名草部吉見(かやべよしみ) 出世後の別名天忍穂耳命・贈考昭天皇

③盬土老翁

白族統領大幡主、博多櫛田神社・正八幡宮の主祭神 贈安寧天皇

④海神

大幡主の嫡男豊玉彦別名ヤタガラス

⑤海神の娘豊玉姫

別名田心姫(たごりひめ)・美穂姫

(2)浦嶋太郎伝説

海辺で子供達にいじめられていた亀を見た浦島太郎は、亀を助けます。亀はお礼として浦

島太郎を背に乗せて竜宮城へと案内します。竜宮城では乙姫の歓待を受け、その快さに浸

り、いつしか日は過ぎていきます。ある日、望郷の念に目覚め、乙姫も懸命に翻意に務めま

すが、決心は変わりませんでした。お土産に「玉手筥」を渡され、決して蓋を開けないでく

ださいと言われたものの、故郷に戻るとその忠告を忘れ、蓋を開けてしましました。たちど

ころに白煙が昇り、浦島太郎は老人の姿に変貌します。

・浦島太郎

・竜宮城の乙姫

・玉手箱

 

贈安寧天皇、和風諡号「礒城津彦玉手看(しきつひこたまてみ)天」、「看は筥」の意味で

す。

(3)浦島太郎を祀る神社

網野神社 京都府京丹後市網野町網野

創建は10世紀以前。三箇所に御鎮坐されたものを享徳元年(1452)に現在の社地に合祀さ

れました。

御祭神

①日子坐王(ひこますおう)別名天足彦(あまたらしひこ)

丹後地方の国造りを為された神。

通説は、父開化天皇とされていますが、故百嶋氏説では、父天忍穂耳命(あめのおし

ほみみのみこと).母スサノオの娘瀛津世襲足姫(おきつよそたらしひめ)として

います。

②住吉大神

同社の縁起には、古代に日本海経由で来着したという海の神。

故百嶋氏説では、「住吉大神とは表筒男神(=安曇磯良)・中筒男神(=実名都怒賀安

羅斯等別名御間城入彦・贈崇神天皇)・底筒男神(=開化天皇)

     ③水江浦嶋子神(浦島伝説の主人公) 「水江」は当地の地名です。

写真 網野神社の冬景色  出典:京丹後市観光ナビ

写真 宇良神社(通称浦嶋神社) 京都府与謝郡伊根町本庄浜 出典:伊根町観光ナビ

淳和天皇は浦嶋子の話を聞き、小野篁を勅使として天長二年(826)に創建。

主祭神:浦嶋子  相殿神:月讀命(=大山祇命)

写真 野島神社 樹齢4百年ご神木の「夫婦あこう」

宮崎県宮崎市内海  出典:同社HP

御祭神:塩筒大神(=大幡主)・猿田彦神(=山幸彦)・住吉三前大神

以上の(1)~(3)の検証から、

浦島太郎のモデルは大幡主」と推測します。

宇良神社の相殿に祀る「月讀命(改名前の大山祇)」は、大幡主と一体になった擬神

  体“田神様(タのカンサー)”であり、丹波を開拓した神〃と推測します。

2.弘計天皇の同母兄

私見は、「弘計天皇と億計天皇は血のつながりがない。」と推測します。実在したかどうか

もわかりません。

億計天皇の出自は神社伝承から見る限り、大幡主の末裔、それも庶流の王子かもしれませ

ん。

 3.億計天皇の皇后と御子

    『日本書紀』は、「億計天皇の父を大泊瀬幼武天皇ではなく、大泊瀬天皇」とし、また、

「母を和琪臣深目(わにおみふかめ)の娘童女君(おぐなのきみ)」としています。

不可解極まりない記述です。

大泊瀬天皇とは、一体誰を指すのでしょうか。

和琪臣の始祖は、大幡主一族の「鰐氏」で、出雲では「和邇氏」、山代では「和琪氏」、

大  和では「春日氏」と名乗っていました。

したがって、和琪臣深目は大幡主の一族となります。

「童女君」の「童女は少女」、「君は和琪氏の首長」の意と推測されます。

御子は一男六女です。

①高橋大娘皇女(たかはしおおいらつめおうじょ)

阿蘇族多氏本家、「高橋命」の裔と推測します。

②朝嬬皇女(あさづまおうじょ)

允恭天皇の裔と推測します。

③手白香皇女(たしたがおうじょ)

清寧天皇の裔と推測します。後に継体天皇の皇后となります。

④樟氷皇女(くすひおうじょ)

全くわかりません。

⑤橘皇女

清寧天皇の皇女

⑥小泊瀬稚鷦鷯(しょうはっせわかささぎ)天皇゙

⑦真稚皇女(まわかおうじょ)

全くわかりません。

 

4.日鷹吉士を高麗に派遣

   中国史書や『三国史記-高句麗本紀』を読む限り、倭国と高麗国との通交記事は見当たりませ

んので、何を根拠にして『日本書紀』編纂者は記述したのか不明です。

おそらく、高句麗人は後の近畿王朝に繋がる人物と民間外交をしていたのかもしれませんが、

文献や民間伝承も伝わっていないので不明です。

故百嶋氏は「高句麗人は何度も倭国へ渡来した」と述べています。

私見は第九十九話で、高句麗人の倭国渡来時期を紹介しました。

①第一次

西暦371年 故国原王が百済との戦いで戦死。国の将来を憂えた高麗人は陸続と日本列島を

目指しました。

リマン海流を南下し、対馬海流に乗り、日本海側に漂着後、安住の地を求めて彷徨し、多く

が信濃・甲斐国などへ移住したと推測します。

②第二次

西暦404年、高句麗軍は倭国軍に敗れ、新羅・百済に取り残された高麗人は捕虜となり、一部

は日本列島への移住を希望したと推測します。

図 日本近海の海流 出典:キッズ日本海学

注)リマン海流の「リマン」は「大河(アムール川)の河口」という意味です。

 

 

次回は「倭の五王」です。

 

 

 

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