第百三話  「倭の五王」

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○『宋書倭国伝』にみる「倭の五王」

○『南斉書倭国伝』にみる「倭の五王」

○『梁書倭国伝』にみる『倭の五王』

○「松野連系図」にみる「倭の五王」

 

1.『宋書倭国伝』にみる「倭の五王」

元号 西暦 記事
永初二年 421年 、宋に貢献し、武帝から叙授の詔を受ける。
元嘉二年 425年 、司馬曹達を遣わし、宋に貢物を献ずる。
元嘉七年 430年 讃?、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。
元嘉十五年 438年 、倭王讃没し、弟珍立つ.自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・蓁韓・慕韓六国諸軍事安東将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める.宋文帝、珍を「安東将軍倭国王」とする。珍はまた倭隋ら十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の授号を求め、許される。
元嘉二十年 443年 、文帝に朝献して「安東将軍倭国王」とされる。
元嘉二十八年 451年 宋朝文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・蓁韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。安東将軍はもとのまま、七月「安東大将軍」に進号する。また上がった二十三人も宋朝から将軍・郡太守号を与えられる。
大明四年 460年 十二月、孝文帝へ遣使して貢物を献ずる。
大明六年 462年 三月、宋孝文帝済の世子を「安東将軍倭国王」とする。
昇明元年 477年 十一月、遣使して貢物を献ずる。これより先、興没して弟の立つ。は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・蓁韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。
昇明二年 478年 上表して、自ら「開府儀同三司」と称し、叙正を求める。順帝、を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・蓁韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。

注)原文は漢文

(1)安東将軍倭国王

珍は自らを「安東将軍倭国王」を名乗った。

日本の歴史学者の中には、高句麗王「征東将軍」・百済王「鎮東将軍」は「二品官」であ

るのに対し、倭国王「安東将軍」は「三品官」であり、倭国王は常に高句麗・百済王より格

下であったとする見解があり、韓国の歴史学者も同調しています。

同見解は、「漢代」の官位であり、宋の官位であるかは検証されていないようです。

また、「征東・鎮東将軍も安東将軍」と同等の官位で、同見解は不当と考えています。

(2)倭王武は、南朝斉の高帝から「安東将軍から鎮東大将軍」に進号を受けた。

西暦478年、宋の順帝から禅譲を受け、南朝斉を開府した高帝は早々に貢献した倭国に対

し、感謝の意を込めて「鎮東大将軍」に進号したと考えられています。

(3)宋は、何故百済を倭国統治として認めなかったのでしょうか。

宋が北魏を牽制するため戦略上の要衝である百済を重視し、倭と対立する高句麗の反発を

避けるための戦略と考えられます。

なお、高句麗は百済を属国と認識していました。

(4)開府儀同三司

Wikipediaによると、「開府」は自らの名義で幕府を開いて、属部の幕僚を置くことを指

し、 前漢では三公と大将軍・驃騎将軍・衛将軍にしか許されていませんでした。

後漢になって、功績を挙げた大臣に対し、その労に報いる意味で儀同三司と称するようになりました。

魏晋では開府する将軍が非常に多くなり、それらの将軍が儀同三司と称するようになりまし

た。

(5)珍は自らを使持節都督倭・百済・新羅・任那・蓁韓・慕韓六国諸軍事安東将軍倭国王」と称し

ます。

①「使持節」

ことバンクによれば、「天子の使者であるというしるしを持って行く使者。

しるしは、「宋の軍旗」と考えられます。

②「都督」

Wikipediaによれば、「中国の官名」.三国時代以降、地方の軍事を司り、時に刺史の職

を兼ねていました。

また4~6世紀には、中国と外交関係を持つ近隣諸国・諸民族の君主・臣下に授与される称号

の一部として用いられていました。

(6)倭隋ら十三人の将軍

倭隋は、倭国王朝のナンバーワンの将軍。おそらく豊玉彦の後裔。他の将軍は、新羅・百

済・任那・蓁韓・慕漢・筑紫・肥・豊・熊襲・吉備・出雲・摂津国の将軍と推測します。

(7)二十三人の将軍・郡太守

新羅・百済・任那・加羅・蓁韓の五ヶ国、筑紫・肥・豊。熊襲・吉備・出雲・播磨・摂津・

丹波・武蔵国の国守及び郡の太守と推測します。

2。『南斉書 倭国伝』にみる「倭の五王」 斉(479~502年)

 

元号 西暦 記事
建元元年 479年 南朝斉の高帝、王朝樹立に伴いい、倭のを「鎮東大将軍」に進号。

注)原文は漢文

3.『梁書 倭国伝』にみる「倭の五王」 梁(502~577年)

 

元号 西暦 記事
天監元年 502年 四月、梁の高武帝、王朝樹立に伴い、倭王を「征東大将軍」に進号する。

注)原文は漢文

図  宋の領土 首都:建康 出典:Wikipedia(2022/04/03 13:00)

朝鮮半島に存在した「任那」は記載されていません。

図  斉の領土  首都:建康   出典:Wikipedia(2022/04/03 13:00)

朝鮮半島に存在した「任那」は記載されていません。

図  梁の領土  首都:建康  出典:Wikipedia(2022/04/03 13:00)

朝鮮半島に存在した「任那」は記載されていません。

 

4.「松野連系図」にみる「倭の五王」  

出典:平野雅廣 著 「倭国王のふるさと火の国山門 20~22頁」

熊本日日新聞情報文化センター 1996年発行

(1)倭王「讃」の父は「騰」ですが、倭国王の表記はありません。

(2)倭王を自称した「武」

もしかすると倭王「興」の後継者(名は不明)を廃し、「興の弟武」が、王位を簒奪したの

かもしれません。

(3)倭王「武」の後継は「倭国王哲」ですが、後継者の「満」に倭国王の表記がみあたりません。

(4)「満」の後継者牛慈(ぎゅうじ)は「金刺宮御宇(欽明天皇の御世)に服属為夜須評督」とあ

り、王族から臣下に降ったようです。

これを物語るのが「騰-讃-珍-興-武-哲-満」と七代続いた「一字名称」が八代目で潰

えたのでしょう。

 

次回は、「倭の五王」を取り巻く朝鮮半島の情勢です。

 

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