第百四十四話  「壬申の乱」(2)

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図 「壬申の乱」ゆかりの地全体マップ

 

 ○天武天皇軍の勝利

 ○物部連麻呂

 ○戦後処理

 ○『日本書紀-巻第二十八』最後の記事

 

1.天武天皇軍の勝利

・天武元年七月四日条

将軍大伴吹負、近江の将軍大野君果安(本来の名は蘇我果安、蘇我倉山田石川麻呂の弟)と

乃楽山(ならやま)で戦い、敗れる。

近江朝の反撃も窺えます。

・同年七月十三日条

村國男依等、安河(現野州川)の畔で、大いに近江朝軍を破る。

・同年七月二十二日条

村國男依等、近江朝の栗太軍を破り、瀬田に至る。

瀬田川の対岸には大友皇子及び群臣等の陣地があり、天武軍に対して激しく反撃します。

・同年七月二十三日条

反撃も空しく、大友皇子は逃亡の機会を失い、山前に隠れ、自死します。

近江朝の左右大臣及び群臣の多くは逃亡しますが、多くは後に捕らえられます。此処に近江朝が滅亡

します。

是より先に「将軍等、事代主神・村屋坐彌富都比売神・牟狭坐神の三神の教え給う言葉に感謝し、馬

や兵器を供えた。」とあります。

此の三神を祀る神社

  • 河俣神社  奈良県橿原市雲梯(うなて)町

ご祭神:八重事代主

  • 村屋坐彌富都比売神社 奈良県磯城郡田原本町藏堂 別名大神(おおみわ)神社別宮

ご祭神:大物主命(=大国主命)・三穂津姫命(=豊玉姫)

  • 牟佐坐神社  奈良県橿原市見瀬町

ご祭神:高皇産霊神(=高木大神)

以上の三神社から、天武軍には「事代主系物部軍」が多数占めていたと推測されます。

図 「壬申の乱」ゆかりの地全体マップ  出典:村屋坐彌富都比売神社HP

写真 秋の御朱印「秋桜と白いワンピースの女性」 出典:村屋坐彌富都比売神社HP

2.物部連麻呂

・天武元年七月二十六日条

「不破宮で天武軍の将軍等が駐屯していた前に、大友皇子の首を捧げて献上した者あり。」との記事

があります。

日本書紀編纂者は名前を秘していますが、その忠節振りが高く評価され、罪を免れ、その後人臣を極

め、物部から石上(いそのかみ)に改姓し、天武十三年(684年)に制定された「八色(やくさ)の

姓」で、序列第二位の“朝臣”を賜り、慶雲元年(704年)に右大臣、和銅元年(708年)に左大臣に昇

進します。後に石上朝臣麻呂を名乗りました。

 

3.戦後処理

何故か、天武天皇は戦後処理を高市皇子に委せます。

重罪人八人の処分は

・右大臣中臣金連を滋賀県東浅井郡で斬殺

・左大臣蘇我臣果安・大納言巨勢臣比等、及び子孫併せて中臣連金の子、蘇我臣果安の子等

は配流。後に許されます。

・是より先に、尾張国司守小子部連鍬鈎が山に隠れて自死。天武元年六月二十七日条に矛盾する記事

です。

天武天皇は功有る鍬鈎が自死したことを訝り、謀反の心が有ったのではないかと述懐しています。

戦後処理は、新体制を築く上で最も重要な関心事ですが、日本書紀編纂者は具体的な戦後処理に言

及していません。

さらに不思議なことは、戦後処理体制について全く関心を示さず、天武天皇は相変わらず「高みの見

物」です。

天武天皇は、伊勢の桑名郡から鈴鹿・阿閉・名張で停泊し、倭京の嶋宮を経由して岡本宮に入りま

す。その後、岡本宮の南飛鳥浄御原宮に遷ります。

日本書紀の記述では、わずか3ヶ月未満で飛鳥浄御原宮を造営したことになります。信じられません

ね。

 

4.『日本書紀-巻第二十八』最後の記事

・天武元年十二月条

「是の月に、大紫韋那公高見(ゐなのきみたかみ)薨せぬ」

おそらく死亡したことによって「昇階」し、「大紫」の冠位が授号されたと考えられます。それにし

ても何故、この記事が最後を飾ったのでしょうか。

孝徳天皇が定めた「七色十三階」では、「大紫」は序列第五位で、大臣クラスに相当します。

日本書紀は、「韋那公高見」について記述していませんが、江戸時代の明和年間(1764年6月30日~

1772年12月10日 徳川家治の時代)に、二上山麓で、一人の農夫が開墾中に金銅製の骨臓器が出土

し、民間の歴史家の活躍によって其の存在は広く明らかになりました。

刻まれた墓誌「少納言正五位下威奈卿墓誌銘■序」

もし、韋那=威奈であるならば、日本書紀記事は疑問が浮かびます。

 

注)二上山

奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町に跨がる二つの山

 

 

次回は「天武天皇」(1)です。

 

 

 

 

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