第百三十七話  番外編「上岩田遺跡」

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写真 基壇部分から出土した瓦

 

新年明けましておめでとうございます。

本年も宜しくお願い申し上げます。

○上岩田遺跡を訪ねた経緯

○「上岩田遺跡調査概報2000並びに上岩田遺跡Ⅵ2014 小郡市教育委員会

 

1.「上岩田遺跡」を訪ねた経緯

    事前に1ヶ月間小郡市内のアパートを借り、腰を据えての調査です。

    同遺跡の知見を得る目的で小郡市役所を尋ねたところ、不思議なことに小郡市観光協会

を指定されました。

早速、同協会を訪問して分かったことは、同協会の速水事務局長が上岩田遺跡発掘調査

の第一次メンバーの責任者でした、

加えて、私が参加した「菊池地名研究会」の例会の講師を務められたのが小郡市埋蔵文

化財センターの山崎頼人氏でした。このお二方によって、同遺跡への確かな知見が広がり

ました。

 

2.「上岩田遺跡調査概報2000並びに上岩田遺跡Ⅵ2014 小郡市教育委員会」

上岩田遺跡の所在地:福岡県小郡市上岩田字西大添、出口、東野口、大添、平塚、西野口、近

道、東山の後、下蓮輪にかけて所在。

(1)歴史的環境

縄文時代の遺跡も旧石器時代と同様な立地で発見されていますが、これまでまとまった集落

遺跡は発見されていませんが、小郡市内の各所で発見された縄文土器は全期間に及びます。

弥生時代になると遺跡数は膨大で枚挙にいとまがありません。

特に宝満川右岸の丘陵地帯から微高地にかけての集落密度は非常に高い様相を呈していま

す。

三国丘陵の津古・三沢地区を中心とする丘陵地帯は、南北2.5㎞、東西2㎞程の丘陵範囲に集

落遺跡が立地し、三国丘陵より南へ4㎞程の低位段丘上に大板井遺跡、小郡遺跡、若山遺跡と

いったこの時期の大規模な中核的な集落が前期から後期まで展開します。

古墳時代前期の首長墓の系譜は、宝満川右岸である三国丘陵の津古古墳群で、3世紀後半代

の津古生掛古墳(前方後円墳全長33m)に始まり、津古2号墳(前方後円墳全長29m)、4世

紀前半とみられる津古5号墳(前方後円墳全長42m)、4世紀後半とみられる三国の鼻1号墳

(帆立貝式前方後円墳全長66m)が造営されています。

これらの古墳群の後継となるのが、同丘陵の南西部に位置する花聳(はなそげ)古墳群で鉄

鏃や鋤先、鉄挺といった豊富な副葬品が出土しています。

一方、宝満川左岸の花立山周辺では、4世紀後半に焼ノ峠前方後方墳(全長40.6m)が築造

され、同古墳の周辺部には梨園によって削られた前方後円墳がみられ、周辺からは同時期と考

えられる松尾1号墳(方形周溝墓)、同2号墳(円形周溝墓)が発見されています。6世紀後半

には花立山南麓に穴観音古墳が築造され、この花立山南麓には総数287基以上の古墳が群集し

て存在します。

実際に花立山(地元では城山と呼ぶ)を登り、開けたところからは前方後円墳や円墳らしき

古墳が散在しています。

花立山は筑前町域に含まれ、実際はどれだけの古墳が存在するか不明です。

 この膨大な古墳群や周囲に広がる豊かな筑後平野の存在は、濃密な集落を形成する強力な政

 治集団が存在したのは明らかです。

(2)上岩田遺跡の時間軸

Ⅰa期:7世紀第三四半期後半~678年

Ⅰb期:7世紀末~8世紀前半

Ⅱ期:8世紀中ごろ

Ⅲ期:8世紀後半

Ⅳ期:9世紀前半

本稿では、Ⅰa期の建物群を焦点とします。

(3)Ⅰa期の建物群

基壇(東西18.2m、南北は15.3m、現状の高さ1.3m)上に瓦葺の3×2間(推定で東西8.1m×

南北5.4m)に四面に庇が付く建物が存在し、その北側に東西軸の7×3間(東西16.8m×南北

6.8m)に庇を持つ建物と、3×2間(東西6.3m×南北4.2m)で四面に庇を持つ建物、さらに

9×3間(東西233.4m×南北6m)の規模を持つ掘立柱建物、3×2間の掘立柱建物が配され、さ

らに柵列とみられるピット2条が建物群をL字型に囲む格好で存在し、その柵列の中ほどに門跡

とみられる建物が位置します。加えて倉庫群4棟がみられます。  

 基壇建物は『紀-天武七年十二月二十五日条』が記す「筑紫國大地動之。地裂廣二丈。長三

 千餘丈。」記事が示す「天武大地震(687年)」によって、北東方面に瓦の破片が多数出土、

 基壇倒壊後は再建されなかったようです。

(4)基壇部分から出土した瓦

「単弁六弁蓮華文」軒丸瓦が多数出土し、大野・基肆城で出土した「単弁八弁蓮華文」軒丸瓦

 と弁数こそ違えデザインがとても似ています。

基壇上の建物については、「庇・瓦」より、寺院の可能性が濃厚で、この可能性を後押しす

るのが、基壇に葺かれていたであろう瓦が井上廃寺に再利用された痕跡が確認され、「山田寺

系捶先瓦」も出土しています。

私見は、この基壇部分を「寺院ではなく、日本書紀が記す“飛鳥河邉行宮”」と推定します。

行宮(かりみや)ではなく、当時造営半ばであった「飛鳥河邉宮」と推定します。

井上廃寺跡は「井上地区」にあり、二箇所の寺院が存在したとは考えられません。おそらく

井上廃寺も飛鳥河邉宮と同時期に造営が開始されていたと推定します。

  写真 基壇部分から出土した瓦  出典:小郡市観光協会HP

(5)上岩田遺跡「評衙」説

「評衙」の意味は「評(こおり)は、古代日本の行政単位」「衙(が)は役所」の意で、評の上位

行政単位は「國」、評の下位行政単位は「里(り)」と考えられます。

井上薬師堂遺跡(小郡市井上字南薬師堂)の北西には7世紀後半~8世紀に存続した井上廃寺が、東

には6世紀末~8世紀後半の集落である井上薬師堂東遺跡が、南東には7世紀中頃~8世紀後半を中心

に寺院・柵列・倉庫群・竪穴住居群などが確認された上岩田遺跡に隣接しています。

同遺跡から発見された木簡は六点で、そのうちの1号木簡に、

・訂正釈文

・丙家搗米宅津十丙ア里人大津夜津評人

とあり、「評人」「里人」の記載から、7世紀まで遡る評制下の木簡であることが確認できました。

 「評制」の定説は、藤原宮などの発掘によって、「大宝律令」制定以前に書かれた木簡は全て「評」

と記され、逆に「郡」表記のものが存在しないことから、日本書紀が記す「大化改新で郡が成立し

た」という表記は、誤認であることが明らかになりました。

疑問は、上岩田遺跡の規模からみて「評衙」とする見解にはいささか無理があるように見えます。こ

れほどの規模を持つ「評衙」の類例が管見には見えないからです。

隣接する上記の遺跡群は全て上岩田遺跡に包含すると仮定すれば、上岩田遺跡は孝徳天皇によって造

営された「倭国の官衙」と見ても良いのではないかと推測しています。

上岩田遺跡は前述した「天武大地震」後も、竪穴建物や側柱建物の倉庫が、Ⅱ期まで建築されていま

すが、Ⅰb期後半には、西方2.1㎞の御原郡衙に比定される小郡郡衙遺跡第Ⅱ期(7世紀末~8世紀初

頭:形成期)に官衙の中枢機能が移転したと考えられています。

私見は、「小郡郡衙遺跡」は当初の小郡市教育委員会が提起した「武器庫と兵員宿舎跡」と見るべき

で、「天武大地震」以後に、「上岩田官衙」の中枢機能が狭小な「小郡郡衙」に移転したとは考えら

れません。

『上岩田遺跡調査概報第142集2000』所収の「上岩田遺跡の基壇の地割れと天武七年筑紫国地震 西

南学院大学教授松田時彦41p」に、「地割れは基壇の内部にだけ分布して、基壇を離れて周辺の遺構

確認面にまで続くものではなかった。」と記されています。すなわち、国衙の中枢機能を担う建物群

に目立った被害がなかったことになります。

したがって、小郡郡衙への移転説には根拠がなく、地元では、小郡郡衙は軍事倉庫群であったと囁か

れています。

(6)上岩田遺跡は「飛鳥宮」或いは「飛鳥浄御原宮」説

『季刊古代文化第51巻1999古代学協会編所収253p~269p「朝倉橘廣宮と筑紫-元興寺文化財研究所

副所長狭川真一」に、「近年調査された上岩田遺跡を見ると7世紀の宮の配置に近似しているだけでな

く、西側に小郡遺跡が配置され、両者は同時期に併存していたことも明らかになりつつある。これら

の遺跡は前者を朝倉宮、後者をその軍事関連施設と見立てると、神籠石式山城がそれらを取り巻いて

建設されていることもわかり、斉明期における大規模な軍事計画の存在が浮かび上がってきたのであ

る。」と要旨を記し、基壇を朝倉宮の内裏正殿としています。

 九州歴史資料館の小田和利氏は『九州歴資料館研究論集39所収-磐瀬宮における諸問題33p』を

参照し、同遺跡が「飛鳥宮」である可能性をお話ししてくださいました。

古田史学の会の正木裕氏は、故古田武彦氏の「明日香は小郡の飛鳥」とする仮説を継承し、

「古田史学会報103号所収「筑紫なる飛鳥宮」を探る」に、上岩田遺跡を「飛鳥浄御原宮」に

する論考を発表されています。

基壇部分出土瓦は建物の屋根に葺かれていたことは確実ですが、飛鳥時代の宮には瓦葺きの事実が

なく、瓦葺きは藤原宮にその開始を求めるのが通説です。

この難点を解決するのが、先述した(4)で、同岩田遺跡出土の古瓦と大野城出土古瓦は類似し、ま

た、前述した「4.大野城出土の古瓦」の造瓦時期が655年以前とする仮説から、3氏が指摘する「飛

鳥宮・飛鳥浄御原宮」とする説を補強できます。

(7)上岩田遺跡は誰が造営したか

同調査概報は、評衙設定の当初に併設された基壇仏堂に蘇我氏の大和・山田寺系古瓦を採用した点

で、当時筑紫大宰であった蘇我赤兄の関与を指摘しています。

前述した小郡市観光協会の速水事務局長によると、造営者は「蘇我氏」と考えられています。

私見は「孝徳天皇」です。

上岩田遺跡は、「飛鳥河邉宮」の中核を成し、隣接する下高橋官衙遺跡・小郡官衙遺跡・井

上廃寺跡を包含する大規模な「宮」と推定しています。

写真 小郡市小郡「小郡官衙遺跡」 出典:小郡市観光協会

写真  福岡県三井郡大刀洗町下高橋 「下高橋官衙遺跡」  出典:古墳めぐりウォ-キング

8世紀の郡衙跡。東側の下高橋厩元遺跡と西側の下高橋上野遺跡の大きく東西二つの方形区画に分

けられています。

東側は約170㍍の方形から成る30棟以上の大型掘立柱建物、西側は170㍍以上、東西150㍍の長方形

の範囲から18棟以上の大型掘立柱建物が確認され、うち13棟は高床式倉庫で米を収納した「正倉院」

と見られています。

写真 小郡市松崎「松崎六本松遺跡」“古代役所を結ぶ「官道」幅6㍍

出典:西日本新聞(2021/2/4 6:00)

図 故古田武彦氏が推定した「飛鳥(あすか)地区」

出典:宮原誠一氏神社見聞牒No21「老松神社シリーズ③」

図 官道の推定位置

 

次回は「斉明天皇」です。

 

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