第三十八話  「倭女王 卑彌呼」(1)

○卑彌呼の系譜

○共立経緯

○卑弥呼を擁立したのは誰か。

○「卑弥呼は邪馬壹国の女王か」

 

1.卑彌呼の系譜

「神々の系図-平成12年考」によると、父倭国王師升(わこくおうししょう)と母高木叔母と

の間に生まれた皇女で、神武天皇の腹違いの姉。年齢は神武天皇よりも10歳年長です。

卑弥呼として即位するまでは大日孁貴(おおひるめむち)と云い、退位後は天照大御神として

崇められました。

『古事記・日本書紀』が記すスサノオとの誓約により、天照大神がスサノオから借り受けた剣を

折って誕生したのが、通称宗像三女神です。

表 「宗像三女神」

順番 『古事記』 『日本書紀』本文
多岐理毗売命またの名奥津島比売命 田心姫
市杵島比売命またの名狭依毗売命 湍津姫
多岐都比売命 市杵島姫

『古事記』と『日本書紀』の記述は微妙に相違しています。故百嶋氏作成の「神々の系図-平成

12年考」では、以下の序列が見られます。

表 「宗像三女神の序列」

序列

名前

  • 系列

生年

第1位 市杵島姫またの名瀛津島姫 天皇家に次ぐスサノオの御子 AD147年
第2位 多岐理姫またの名田心姫・豊玉姫 白族嫡女 アカル姫の御子 AD153年
第3位 湍津姫=鴨玉依姫 瀛氏 櫛稲田姫の御子 AD167年

三女神は天照大神の御子ではありません。

生年は故百嶋氏の推定です。

2.共立経緯

『魏志』倭人伝は、「卑弥呼と弟(=神武)の共立」としていますが、『後漢書』東夷伝は、

「卑弥呼と男王の共立並びに飲食や連絡係りの男子」が王居に住んでいたと伝えています。

この飲食係りの男子を、故百嶋氏は大倭彦(おおやまとひこ)、後の懿徳(いとく)天皇と述

べています。

故百嶋氏のメモによれば『後漢書』倭伝記事から類推し、西暦167年に即位としています。卑弥

呼55歳の時です。

おそらく神武天皇では九州王朝を維持できない政治状況にあったと考えられます。

この政治状況を作り出した原因は神武天皇にありました。

「賢人会議」の評定結果を基にようやく西暦165年に実施した「神武天皇御神霊護送船団」が早

くも瓦解したのです。主な原因を挙げると

・阿蘇耳族統領神沼河耳命は、山梨県甲府市の天津司(てんづし)神社で奉納舞「天津司舞(てん

づしまい)」を拒否し、離脱。

・有力部族の統領は次々に新天地へ進出し、九州王朝の防衛力低下。

・神武天皇一行は「邪馬臺国(やまたいこく)」へ避難し、政治的空白状態。

・税負担による農民の疲弊

これらの政治的課題に手をつけられない神武天皇へ非難の矛先が向かったのでしょう。

3.卑弥呼を擁立したのは誰か。

卑弥呼として即位する前の名は大日孁貴(おおひるめむち)です。父は大率姫氏君長師升、

母は大伽耶国王の姫。弟神武天皇の母は白族統領大幡主の姉「神玉依姫(かみたまよりひ

め)」です。

血縁関係から、「高木神・白族」系ですが、高木神系はニニギノミコトで評価を落とし、九

州王朝を擁護する力はほとんどありませんでした。

『古事記・日本書紀』が特筆する「三女神」を中心に、彼女らの父並びに夫たちが大活躍し

たと推測します。

具体的には、以下の三部族と二人の英雄「海幸彦こと天忍穂耳命」、「山幸彦こと彦火々出

見命」です。

白族・・・・・・大幡主・豊玉彦親子

昔氏・・・・・・スサノオ

瀛氏・・・・・・金山彦

天忍穂耳命は各部族間の調停能力

彦火々出見命は民政の調停能力「五公五民から四公六民」への税改革

ただし、湍津姫(たぎつひめ)こと鴨玉依姫(かもたまよりひめ)は当時赤子でしたので、

母の櫛稲田姫またの名瀬織津姫が活躍したと推測します。

4.「卑弥呼は邪馬壹国の女王か」

『魏志』倭人伝から検証してみましょう。

  • 景初二年(238)六月倭の女王遣使大夫難升米(なしめ)等を(帯方)郡に派遣し、天子に詣りて朝献せんことを求めた。
  • 其年十二月詔書して報じていわく。「親魏倭王卑彌呼に制詔す。」
  • 正始(せいし)元年(240)太守弓遵(たいしゅきゅうじゅん)・建中校尉梯懏(けんちゅうこういていしゅん)等を遣わし、詔書・印授を奉じて倭国に詣り、倭王に拜假(はいか)し、ならびに詔(みことのり)をもたらし、金帛などを賜う。
  • 其四年(244)倭王復使大夫伊聲耆(たいふいせき)・掖夜狗(えきやく)等八人を遣わし、倭錦などを上献す。掖夜狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。
  • 其六年(246)詔して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して假授せしむ。
  • 其八年(248)太守王頎(たいしゅおうき)官に到る。倭の女王卑彌呼狗奴國男王卑彌弓呼(ひみゆか)と素(もと)より和せず。」

以上から一貫して「倭女王・倭王」は「倭国王卑弥呼」を指しています。

通説は「南至邪馬壹國女王之所都」の記述から、「邪馬壹國女王卑弥呼」と解釈する説が敷衍し

ているのが実情です。

但し、原文を忠実に読めば「邪馬壹國は女王が居住する地域が国家名」と理解するべきでしょう。

故百嶋氏は「邪馬壹國とは君長の住まわれる国」あるいは「神々が住まわれる国」の意と述べて

います。

写真  卑彌呼の再現像  出典:大阪府立弥生博物館

次回は「倭女王卑弥呼」(2)です。

タイトルとURLをコピーしました