○河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいおびとあらこ)とは
○さまよえる二十年
1.河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいおびとあらこ)とは
直ぐには、大伴金村大連の説得に応じなかった男大迹天皇は、河内馬飼首荒籠の「貴賤を論 (あげつら)うこと勿れ。ただその心をのみ重みとすべし。」と言う言葉に心を揺り動かされ、終 に樟葉宮で即位します。
物部氏が展開した地には、しばしば「河内」という地名が遺存しています。
おそらく河内馬飼首荒籠も物部氏の係累と推測します。
彼らが馬を飼育していた「牧(まき)」は、現在の四條畷市「讃良(さらら)の牧」が候補地と 推測します。
蔀屋北遺跡から出土した「馬の全骨格(体長127㎝)」は、中型馬「騎馬」として飼育していた
と推測します。
図 古代四條畷周辺地図 出典:四條畷市HP
図 讃良(さらら)の牧 周辺図 出典:四條畷市HP
『日本書紀-天武12年条』に「娑羅羅(さらら)馬飼造」、『日本霊異記』には「河内
國更荒(さあら)郡馬甘(うまかい)の里」が記されています。
四條畷市教育委員会の見解は「讃良地域では、渡来人が伝えた馬飼が盛んに行われてい
た」としていますが、私見は「渡来人ではなく倭人によって九州から船で中型馬が運び込
まれ、騎馬として飼育された。」と考えます。
その証拠に、同遺跡からは鉄製の轡、樫の木製の鐙2点、漆塗りの木製の鞍などが出土
しています。
写真 蔀屋北遺跡(四條畷市蔀屋・砂)から出土した「馬の全身骨格」
体高127㎝の中型馬 出典:大阪府HP
第九十八話で紹介した「中型馬」です。
図 古代の蔀屋北遺跡周辺図 出典:四條畷市HP
2.さまよえる二十年
(1)元年(507)一月 58歳にして樟葉宮(現枚方市楠葉)にて即位
(2)五年(511)十月 都を樟葉宮から山背の筒城(現京都府京田辺市)に遷都
(3)十二年(518)春三月 都を弟國(現京都府長岡京市)に遷都
(4)二十年(527)九月 都を磐余の玉穂宮(現奈良県桜井市池の内)に遷都
(5)二十五年(531)春二月 磐余の玉穂宮で崩御。年82歳
注)『古事記』は43歳で崩御としています。
歴史学者は、継体天皇が「磐余(いわれ)」を目指したものの、在地勢力の妨害により、二十
年間の時日を要したとしていますが、その在地勢力については全く言及していません。
「樟葉宮・筒城宮・弟國宮」のいずれも「古代の交通の要衝」にあり、水運に不便な「磐余
(いわれ)玉穂宮」に遷都する理由がみあたりません。
歴史学者は、在地勢力や敵対勢力が妨害したため、懐柔するのに二十年を要したとしていま
す。
ところが、『日本書紀』は具体的に「在地・敵対勢力」の記述や戦闘事件も記述していませ
ん。
大和川は古代より「暴れ川」として認識されており、特に奈良県から大阪湾へ抜ける「亀の
瀬」と呼ばれる地滑り多発地帯は難所でした。
四條畷市教育委員会が記すような「水運」の利便性は望むべくもありません。
更に言及すれば、武烈天皇の「列城宮」や継体天皇の「磐余玉穂宮」の遺構も未だに出土して
いません。
第八十二話で「仁徳天皇による大和平野開拓の挫折」を縷々述べましたので、経緯はお解りい
ただけると思います。
では、「さまよえる二十年」を『日本書紀』は記述したのでしょうか。
この疑問に応えるには、当時の朝鮮半島と倭国の情勢が欠かせないと推測します。
図 継体関係地図(一部抜粋) 出典:和田莘『大系日本の歴史2 古墳時代』より
次回は「継体天皇」(3)です。