第百五話  「倭の五王」を取り巻く朝鮮半島の情勢(2)

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○百済

栄山江(ヨンサンガン)流域の前方後円墳

 

1.百済

   Wikipediaによれば、百済の建国は4世紀半ばとしています。

故百嶋氏の手描きメモによれば、「北扶余」を前身とし、延陀勃(ヱンダバル)商団長の娘召西

  奴(ソソノ、別名ハンソジン)と延陀勃護衛隊長優台(ウテ)の間に誕生した長男沸流(ピリエ)によ

り、前漢成帝鴻嘉三年(紀元前十八年)広州(現平壌)に北扶余国を建国とあります。

通説は次男の温祥(オンジョ)王としています。

故百嶋氏は兄弟二人の出生地について、朱蒙(チュモン)またの名東明聖王と召西奴が卒本(ソ

ルボン) で暮らしていた時に誕生したとしています。

その後、北扶余は卒本扶余国(ソルボンフヨコク後の高句麗国)に圧迫され、朝鮮半島に南下し

ますが、そこも安住の地では無く朝鮮半島西海岸へと移動します。

国名も何度も代わり、「伯済国」以後、4世紀半ば頃に「百済国」になったようです。勿論、

小国でした。

百済国が、歴史上現れるのは近肖古王(在位346~375年)からです。

(1)西暦371年高句麗と戦い、高句麗の平壌城を陥落させ、故国原王を戦死させる戦果を挙げま

す。近肖古王治世になって、支配領域は現在の京幾道・忠清北道・忠清南道・全羅北道の一部

にまで及び、朝鮮半島における有力な国家の一つとして台頭し、国家体制も整備されました。

小国である百済が台頭した理由は、多様な民族集団が関わるようになり、とりわけ倭国との

連携強化は濃密で倭国系百済官僚が登場し、中国系の楽浪・帯方遺民、高句麗の貴族層解氏(へ

シ)など外来の多様な集団を権力内に取り込み、それらを通じて百済は発展しました。

(2)高句麗広開土王が即位し、百済に占領されていた領土の回復を図り、西暦396年には漢江以

北・大同江以南の地域が奪回されました。

百済は高句麗の圧迫強化をうけ、倭国に扶けを求めます。

阿莘王六年(397)には太子腆支が倭国への人質として出されます。その引き換えに倭国の軍

事介入が行われました。

(3)西暦455年以降、国力を回復した高句麗は長期にわたり百済を攻撃します。百済は北魏に救援を

求めますが、北魏は介入しませんでした。

(4)西暦475年、高句麗の長寿王は略奪されていた漢城を奪回することに成功。逃走を試みた百済の

  蓋鹵王(こうろおう)は捕らえられ、殺害されます。事実上百済は滅亡します。

(5)蓋鹵王の皇太子文周王(在位475~478年)は、現在の忠清南道公州市、錦江(旧名は熊川)のほとり

熊津(ユンジン)へ逃げ込みます。

この時代を「熊津時代(475~538年)」と呼びます。

解氏の解仇(ヘキ)の反逆により、西暦478年文周王は殺されます。皇太子東城王は解氏追討軍を派遣

し、無事解仇を滅ぼしましたが、その際の兵力は僅か2500名に過ぎませんでした。

百済は復興したとはいえ、国力も衰え、権力基盤は脆弱でした。

友好国である任那国から四県の割譲を受け、ようやく息を継いだのです。

(6)東城王の死後、『日本書紀』は、東城王の腹違いの兄武寧王(在位501~523年)が即位し、倭

国側では「扶余斯麻または扶余隆・嶋王」と表記されています。

『三国史記-百済本紀』によると武寧王は即位後、復興に向けて全羅南道南部へ勢力を広げ、伽耶地

方を侵略したとあります。

西暦524年、新羅は伽耶地方へ侵攻を図り、伽耶の中心国家金官国は倭国に救援を要請しますが、近

江毛野臣軍を出兵に躊躇し、動きません。

『日本書紀』によると「任那・新羅・百済国の三者会談による調停を目指した」とありますが、伽耶

地方を勢力下に置きたい百済の思惑と同じく任那諸国を支配下に置きたい新羅国と調停などできるは

ずがありません。

西暦532年、金官国は新羅によって滅亡します。

私見は、「磐井の乱」によって「倭の五王家」は滅んだと推測します。

『日本書紀』が記す近江毛野臣軍の存在は疑問です。

注)「磐井の乱」

通説は西暦531年ですが、私見は『古事記』が記す西暦527年を採用しています。

(7)西暦538年 王都を熊津から泗泚(さび)城(忠清南道扶余郡)へ遷し、国号を「南扶余」に改め

ます。この時代を「泗泚時代(538~642年)」と呼びます。

(8)武寧王の後継者聖王(在位523~554年)は新羅に対抗するため倭国からの支援を強固にすべく諸

博士や仏像・経典などを送り、見返りとしてより一層の軍事支援を求めました。首尾良く大伽耶や倭

国からの援軍を得、西暦554年新羅の函山城を攻撃しますが、伏兵にあって戦死します。

写真 宋山里古墳群(忠清南道公州市)にある武寧王陵 出典:ソウルナビ

写真 武寧王陵墓出土「環頭太刀」 出典:ソウルナビ

日本でも同様のデザインが施された「環頭太刀」が出土しています。

写真  九州国立博物館蔵「環頭太刀」  出典;九州国立博物館

「武寧王陵墓出土の環頭太刀」と違い「二疋の龍」

写真  武寧王陵出土の「金製冠装飾品ほか」 出典:武寧王博物館

2.栄山江(ヨンサンガン)流域の前方後円墳

(1)前方後円墳の発見

『「異形」の古墳 高田貫太著 角川選書P236』

「1983年 姜仁求(カンイング)氏は固城松鶴洞(コソンソンハクドン)1号墳などが前方後円墳である

ことを主張しました。

1987年 固城松鶴洞1号墳に加えて海南長鼓峰(チャンポコ)古墳・同龍頭里(ヨンドウリ)古墳、霊岩

チャラポン古墳などの詳細な墳丘測量図を提示しました。

そして1990年代にはいり、チャラポン古墳・光州月桂洞1・2号墳、同明花洞古墳、咸平新徳1号墳な

どが発掘調査された。それによって、栄山江流域における前方後円墳の存在は確実なものとなり、そ

の衝撃は日本考古学会にも広まりました。

(2)栄山流域の古墳群の歴史

『「異形」の古墳 高田貫太著 角川選書P205~216』

①梯形墳(ていけいふん)

3世紀後半から5世紀の終わり頃にかけて栄山江流域に広がる.平面が楕円形や台形の低い墳丘に、い

くつもの木棺や専用甕棺を設置し、それに合わせて墳丘を長く拡張していく墓。

「多葬」の伝統が特徴。この梯形墳が群集する古墳群は、これまでのところ、60箇所ほど確認され、

栄山江流域のほぼ全域にまんべんなく分布する。

中心となる埋葬施設は木棺。甕棺は木棺を取り巻くように、あるいは周溝の中に配置されています。

古墳群を営んだ集団に貧富や権威の差は余り顕著ではなく家族や親族がいくつかまとまって構成され

ていたようです。

私見は、下図の「2~3世紀頃の朝鮮半島の勢力地図」から、確固とした国の存在は無く、甕棺からも

わかるように倭人を含めた多民族が雑居していたと推測されます。

②五世紀前半高塚古墳の出現

「多葬」の習慣は基本的に維持され、大型の専用甕棺のほかに、堅穴系横口式石室や箱式石棺の埋葬

施設で、5世紀後半になると円墳も広まり、横穴式石室が新たに広まります。

③五世紀後半から六世紀前半

「二つの墓制」

ア.多葬を前提とする「高塚古墳」

イ.倭系の「前方後円墳と円墳」

私見は、倭人が伽耶地方から全羅南道へ移動したことが推測できます。

写真 「三ツの円墳に改造された固城松鶴洞(コソンソンハクドン)1号墳」

「円墳」は独立して築造されるはずですが、何故か「前方後円墳を三つの円墳に改造しています。暴

挙としかいえません。  出典:だるまさんが転んだ

写真 光州市光山区月渓洞古墳 出典:東亜日報 04/11/2018

 

次回は 「倭の五王」を取り巻く朝鮮半島情勢(3)です。

 

 

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