第百二十二話  「敏達天皇」(2)

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写真  「亀石」

○崇仏派と廃仏派

○物部氏は排仏派ではなかった

○蘇我氏と物部氏が対立した原因

 

1.崇仏派と廃仏派

『日本書紀』記事から検証してみましょう。

話の舞台は突然「筑紫から奈良県のヤマトに移ります。」

(1)崇仏派 蘇我馬子宿禰大臣

①十三年条

「鞍部村主司馬達等。池邊直氷田を四方に遣わし、修行者を探していたところ、唯一播磨國に還俗し

ていた高麗の恵便という僧がいたので早速、師として迎えます。司馬達等の十一才の娘嶋こと善信尼

とその弟子漢人夜菩(あやひとやぼ)の娘豊女(とよめ)こと禅蔵尼、錦織壺(にしきおりつぼ)の

娘石女(いしめ)こと恵善尼を崇敬します。

馬子は自宅の東に仏殿を建て、弥勒の石像を安置し、三人の尼に拝ませます。司馬達等がありがたい

仏の舎利を入手したので、馬子宿禰・池邊氷田・司馬達等は深く仏法に帰依し、修行を怠りませんで

した。また、馬子宿禰は石川の自宅にも仏殿(法興寺に比定されています)を造営します。

「仏法の初め、是より興る。」

高句麗の仏教公伝は、西暦372年前秦の符堅(ふけん)から僧順道・仏典・仏像などが高句麗に贈ら

れた年としています。

高句麗は、西暦427年平壌へ遷都後以降、仏教寺院が造営されたと考えられています。

九州では、第百十九話で紹介した北魏の僧善正上人が英彦山に入山し、仏法を興したという伝承が残

っています。

高麗の僧恵便が還俗した理由や何故播磨國にいたのか、その理由は不明ですが、おそらく、馬子は恵

便を匿っていたと推測します。

鞍部村主司馬達等。池邊直氷田の両名を帰化人とするのが通説ですが、第九十六・九十八話で紹介し

た「古代馬の鞍」が、少なくとも四世紀末には技術が確立していたので、鞍部村主司馬達等は帰化人

の裔かもしれませんが、帰化人とは断定できません。

馬子宿禰が、最初に拝んだのが「石仏」ですから、池邊直氷田は石仏製作の技術者である可能性が濃

厚です。

蘇我馬子は倭国を欺く百済に強い不信感を持ち、高麗僧恵便を重用したと推測します。

写真 「亀石」奈良県高市郡明日香村川原 出典:なら旅ネット

長さ3.6㍍、高さ1.8㍍   周辺には「猿石」も見られます。

図  古代寺院伽藍配置図

法興寺の伽藍配置は②四天王寺式と同様に南北に一直線の配置で、若草伽藍・山田寺・大官大寺と同

じです。

九州の古代寺院は③法隆寺式と同じで、東西に一直線の配置で「法起寺式」とも呼ばれています。

(2)廃仏派

蘇我馬子宿禰大臣が病に倒れ、同時期に疫病が蔓延し、これを契機に排仏派の物部弓削守屋大連と中

臣勝海大夫は「疫病の蔓延により、多くの民の命が奪われているのは、蘇我臣が仏法を興した所為で

ある。」と天皇に直訴し、天皇は直訴を受け入れ、「仏教廃止」の詔が発布されました。

天皇の詔に勢いを得た物部弓削守屋大連は、舎利を納めた塔を打ち壊し、火を付けて焼き、併せて仏

像と仏殿を焼き払います。焼け残った仏像を難波の堀江に投げ棄てました。

また、善信尼を含む三人の尼を海石榴市(つばきち)の馬小屋に監禁します。

その後、天皇は病に伏す蘇我馬子宿禰大臣を哀れみ、「汝一人で仏法を行うべし。余人に仏法を薦め

ることは控えよ。」との言葉を与えました。

蘇我馬子宿禰大臣は三人の尼を奪還し、新たに精舎を建て、三人の尼に供養させます。

これに対して収まらない物部弓削守屋大連・大三輪逆君・中臣磐余連は共に仏法を滅ぼさんとして寺塔

を焼き、併せて仏像を棄てる暴挙を繰り返します。

勿論、蘇我馬子宿禰大臣は黙っていません.彼らと壮絶な戦いが勃発します。

ところで、皆さんは『日本書紀』が記す「崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の対立」を信じますか。

2.物部氏は廃仏派ではなかった

大豪族としての地位を確立した物部氏の権力基盤を支えた支配地はどこにあったのでしょうか。

この支配地域を示唆するのが『日本書紀-崇峻天皇即位紀』が記す「丁未の変」です。同記事によると

本拠は渋河(現在の八尾市渋川町周辺)、別業は難波とあります。

現代の地図で云えば、淀川が木津川に分岐する摂津国三島郡から淀川河口部難波までの淀川ラインを

北限とし、大阪市住吉区・住之江区を除く全域、高槻・茨木・吹田・摂津・枚方・交野・寝屋川・守口・門

真・大東・東大阪・八尾・松原・藤井寺・富田林・柏原市を含んだ地域で古代の河内国のほぼ全域と摂津国

の東部が該当するようです。

交易の重点基地難波と流通ルートの淀川を支配し、多くの渡来系集団を抱えていました。

物部氏の氏寺とされるのが渋河廃寺跡です。

考古学者は、創建時期を七世紀初めとし、出土した「単弁八弁蓮華紋軒丸瓦」について、科学的根拠

も明示せず、相変わらず「相対的編年説」を持ち出し、物部氏と仏教の関連を否定しています。

皆さん、よく考えてみてください。

倭国の宗主国である中国王朝は仏教を篤く信奉し、朝鮮半島の高句麗・百済・新羅も五世紀初め頃ま

でに仏教を保護しています。

そのような北アジアの政治状況下で、一豪族にすぎない物部氏が国家権力に対して、廃仏派の姿勢を

貫徹できるでしょうか。

いや、敏達天皇は「廃仏派」であり、物部氏は蘇我氏に対抗することが出来たのではないかとする意

見もあるでしょう。

しかし、敏達天皇が「廃仏派」とするのはあくまで『日本書紀』編纂者の記述であって、それを証拠

立てる文献はありません。

加えて敏達天皇による具体的な治世が全く窺えないのです。

『新訂魏志倭人伝他三篇 石原道博編訳―岩波文庫』に収められている『隋書俀國伝』が理由もなく

「倭国伝」へ改竄しています。

「開皇二十年(600)倭王の姓は阿毎(あめ)、字は多利思北孤、阿輩鶏弥(おおきみ)と号す。

(中略)王の妻鶏弥(きみ)と号する.後宮には女官が六、七百人いる。太子を名付けて利歌弥多弗利

(りかみたふり)」と云う。(中略)文字はなく、ただ木を刻み縄を結ぶだけ。仏法を敬う。(後略)」

注)「文字はなく、ただ木を刻み縄を結ぶだけ」

中国独特の”中華思想“に基づく慣用句です。

倭国は.時の中国王朝に漢文で「上表文」を奉じています、

以上の記述から、西暦600年の時点では、仏教を敬仰しているのが確認できます。さらに、仏教は百

済から求得したとあります。

百済の仏教公伝は、『三国史記』・『三国遺事』・『海東高僧伝』などの記述に基づき、枕流王元年

(384)に東晋から胡僧摩羅難陀を迎えたことで伝えられたとするのが一般的です。

九州の倭国への仏教公伝は少なくとも六世紀初め頃と推測します。

なお、物部宗家と言われる物部弓削守屋大連は宗家ではありません。物部宗家は宇摩志麻遅命より始

まり、代々九州王朝の倭国に仕えており、当時は「火の國」に支配地を置いていました。

写真 扶餘陵山里出土百済金銅大香爐 出典:Wikipedia(2022/06/25 15:45)

写真 泗泚城時代の弥勒寺の「塔」出典:Wikipedia(2022/06/25 15:45)

3.蘇我氏と物部氏が対立した原因

瀛(いん)氏金山彦の裔、蘇我氏は九州王朝「倭国」の外交政策の失敗の原因が「百済国」を信頼し

すぎたことにあるとみていました。仏教についても「百済仏教一辺倒」に疑念を抱いていたと推測し

ます。

他方、物部氏は「百済擁護派」で、両氏の対立は必然的でした。

「ヤマト王権」を定義すると、九州王朝「倭国」から執政官(『日本書紀』では大臣と記す。)とし

て派遣されたのが「蘇我氏」と推測します。

渡来系氏族を多く抱えた(事代主系)物部氏は、淀川と難波を抑え、その力は強大で、しばしば蘇我

氏の政治運営に異議を唱えていたと推測します。

蘇我氏は着々と物部氏の勢力を削ぐことに力を注ぎます。

必然的に両氏は対立します。

『日本書紀』編纂者は、この対立を利用して「崇仏派と廃仏派の対立」を思いついたのでしょう。

 

次回は「敏達天皇」(3)です。

 

 

 

 

 

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