第八十五話  「第一次九州王朝の終焉」

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第八十五話 「第一次九州王朝の終焉」

写真 ユネスコ無形文化財 八代妙見祭「亀蛇(きだ)」 出典:「八代妙見祭」

「亀蛇」とは想像上の神獣で、亀蛇の背に乗って神々が中国から渡来したとする伝説。

妙見宮(八代神社) 熊本県八代市妙見町

主祭神:天御中主・國常立尊

写真 「亀蛇」の背

 

○仁徳天天皇の後継者は誰か。

○第一次九州王朝の終焉

○第二次九州王朝確立に貢献した「火(肥)の君」

 1.仁徳天皇の後継者は誰か。

百嶋神社考古学では、倭国歴代王を以下のように定義しています。

表 百嶋神社考古学「歴代倭国王」

代位

諡号 『古事記』

『日本書紀』

初代 神武天皇 神倭伊波礼毗古命 神日本磐余彦天皇
第二代 卑彌呼
第三代 懿徳天皇 大倭日子賦斗邇命 大日本根子彦太瓊天皇
第四代 孝霊天皇 大倭日子鋤友命 大日本彦耜友天皇
第五代 孝元天皇 大倭根子國押人命 大日本根子彦國牽天皇
第六代 開化天皇 若倭根子日子大毗毗命 稚日本根子彦大日日天皇
第七代 仁徳天皇 大雀命 大鷦鷯天皇

表 『古事記・日本書紀』が記す仁徳天皇以後雄略天皇までの倭国歴代王

代位

諡号 『古事記』 『日本書紀』

区分

第十六代 仁徳天皇 大雀命 大鷦鷯天皇 正統
第十七代 履中天皇 伊邪本和氣命 去来穂別天皇
第十八代 反正天皇 水歯別命 瑞歯別天皇
第十九代 允恭天皇 男浅津間若子宿禰命 雄朝津間稚子宿禰天皇 ?
第二十代 安康天皇 穴穂御子 穴穂天皇
第二十一代 雄略天皇 大長谷若建命 大泊瀬幼武天皇 ?

 

「贈天皇」は、正統な天皇ではなく藤原氏によって贈られた天皇です。

「宿禰」は天皇の皇子が臣下に降った際の「姓」で一代限りですから、「若子(稚子)宿禰」は正式な

「姓」でなく、私称と推測します。

したがって、仁徳天皇以後の三代は「別天皇または若子宿禰」であり、正統天皇ではないと考えます。

故百嶋氏は開化天皇までを公表していますが、それ以後は鬼籍に入られ、僅かなメモが残されている限りです。

現時点での最大の謎は、講演会で「仁徳天皇で、第一次九州王朝は終わった。」の発言です。

では、何故「仁徳天皇で第一次九州王朝は終わった。」と発言されたのでしょか。

ここからは、あくまで私の推測です。

倭国王仁徳天皇(当時は天皇とは申しません.君長と呼ばれていました。)は近畿地方に「東遷」したまま、九州に戻らず、西暦300年頃に東遷の地で薨去されたと推測します。

仁徳天皇の皇太子大草香皇子の生年は西暦260年頃と推測され、仁徳天皇薨去時の年齢は40歳頃と推測します。

したがって、年齢・経験に不足はなく天皇に即位しても問題は生じなかったと考えられます。

ところが、『記紀』には、大草香皇子が天皇に即位した記述はなく、『日本書紀-安康天皇紀』では、坂本臣の祖「根の使臣」の讒訴によって、無実の罪で誅され、大草香皇子の妃中帯姫は安康天皇によって奪われ、安康天皇の皇后に就きます。

安康天皇は、仁徳天皇より数えて四代後の天皇です。

同記事を信ずるならば、安康天皇と大草香皇子はほぼ同年代と推測されます。

第七十九話で紹介した江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町江田)から出土した「神人車画像鏡(じにんしゃがぞうきょう)」の鏡銘をもう一度ご覧ください。

〔江田船山鏡銘文〕

君羊(むれ) 神宇孫子 尚盛(くさか)此鏡四

東多賀国 安人民息

胡虜殊滅 天下復

風雨時節 五穀熟

長保二親 得天力 得吉

後世樂無 簡乗雲

駆駆参賀 四馬遵従

拙訳は「群神宇(大山祇(おおやまづみ)・神大市姫(かみおちひめ)・大己貴神(おおなむちのかみ))の子孫尚盛(くさか)此の四面の鏡を作る。東多賀国人民安んじて暮らす。殊胡虜(とりわけこりょ)減じ、天下また平穏になる。風雨時に節(かな)い、五穀熟す。両親は天の力を得て長命でめでたく後世を楽しむ。簡(とく)にすることも無く雲に乗る。馳せ駆けて参賀す。四馬(しば)従う。」

故百嶋氏は鏡銘にある「尚盛(くさか)」を仁徳天皇の皇子大草下王(大日下王とも表記)としています。

同鏡銘を信ずるならば、仁徳天皇の後継者は「大草香皇子」となります。

したがって、仁徳天皇薨去後の「履中天皇~安康天皇」までの天皇は正統天皇とは考えられません。

2.第一次九州王朝の終焉の真相

仁徳天皇が「東遷の地難波」で薨去後、九州王朝の政治地図は、以下のグループに分裂したと推測します。。

(1)九州王朝を祭祀する「高良玉垂宮の支配者、仁徳天皇の弟坂本命」

(2)仁徳天皇の皇太子「大草香皇子」

(3「摂津難波宮の支配者、仁徳天皇の皇子住吉中皇子」

それぞれのグループには、当然後援部族が就いています。調整は簡単ではありませんでした。

その結果、第一次九州王朝は統制力を失い、その期間は五年程続いたと推測します。

最終的には、九州島の最大の支配地を持つ「火の君(現在の佐賀県・熊本県・長崎県を併せた領域の支配者)」の支持を得た「大草香皇子」によって、第二次九州王朝が成立したと推測します。

この政治的混乱時期に乗じて、『記紀』編纂者は正統天皇ではない贈天皇を濫発したのではないかと推測します。

仁徳天皇の後継者大草香皇子は輝かしい「高良の地を離れ、火ノ國」へと移動しました。

図  大草香皇子の本拠候補地の一つ「八女市岩戸山古墳」周辺

現地では、徒歩で約四時間かけて乗場古墳をはじめとして八女古墳群を見学しました。小高い丘

陵地区で坂を何度も登ったり下ったりで大変でした。古墳が、丘陵を開削して築造したことが一目

でわかります。

写真  岩戸山歴史文化交流館の展示物 出典:八女市HP

館内は無料です。同館直ぐ近くの高台から筑後平野が一望できます。

写真 岩戸山古墳

注)八女古墳群

八女丘陵には4世紀から7世紀にかけて築造された古墳約300基が存在します。

八女丘陵では、4世紀は方形周溝墓や円形周溝墓の時代で、前方後円墳とみられるのは5世

紀前半の石人山古墳としています。

3.第二次九州王朝確立に貢献した「火(肥)の君」

(1)「火の君」とは

『古事記』が記す「別天(ことあま)つ神のトップランナー、天乃御中主」が支配した地

について、故百嶋氏は「肥國」とし、その中心地を熊本県八代郡氷川(ひかわ)流域と述べ

ています。

氷川の「氷(ひ)」は“とうとい”という意味です。

後に「倭国の君長となる呉國王の末裔“大率姫氏(だいそつきし)」が中国から渡来した記

念すべき地が八代海に面した氷川河口です。

その後、同地は白族(ぺーぞく)天乃御中主の支配する地となり、続いて豊玉彦(ヤタガ

ラス)の後裔に引き継がれ、統領は「火の君」と呼ばれ、また、後裔氏族は「橘氏」と呼ば

れました。

「火の君」は、熊本県八代郡から北上し、3世紀末頃までに有明海周辺地域(佐賀県・長崎

県)まで支配地を広げていったようです。

その原動力となったのが、白族の繁栄を知った中国に住む白族は陸続と渡来し、軍事・労

働・交易力は充実しました。

加えて、「火の君橘氏」の下には、安曇氏(=九州の鰐族)・日置(へき)氏も集合し、後

に彼らは本州を目指します。

注)熊本県八代郡氷川町

熊本県の中央部に位置し、北西部は八代海に面する。八代市 との境界に沿って南東から

北西へと氷川が流れています。

図 熊本県八代郡氷川町周辺図

写真 健軍神社  熊本市東区健軍本町  出典:Wikipedia(2022/03/19 19:50)

主祭神:健軍大神(=建緒組命たけおくみのみこと、初代火國造・火の君の始祖ともい

われる)・健盤龍命(=手研耳命)

阿蘇族の健盤龍命は、後に祭祀されたもので本来の祭神ではありません。

 

写真 ユネスコ無形文化財 八代妙見祭「亀蛇(きだ)」 出典:八代妙見祭

「亀蛇」とは想像上の神獣で、亀蛇の背に乗って中国から渡来したとする伝説と推測します。

妙見宮(八代神社) 熊本県八代市妙見町

主祭神:天御中主・國常立尊

図 「火ノ國の領域」 出典:ひぼろぎ逍遥545「火の君とは歴代の橘一族だった

注)○で囲っている部分が「火ノ國」

 

 

次回は「空白の四世紀」です。

 

 

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