図 大宰府羅城想定図 中央部は大宰府
○皇后忍坂大中姫とは
○忍坂大中姫を支える政治集団とは
○新任那国王「葛城襲津彦」
○「都紀女加王墓」とは
○允恭天皇の宮
○不自然な中臣烏賊津臣の登場
1.皇后忍坂大中姫とは
『日本書紀』は、応神天皇の皇子稚渟毛二派皇子(わかぬけふたまたおうじ)の娘とし、他方
『古事記』は意富本杼王(おおどおう)の妹としています。
『古事記』は、明らかに継体天皇の系譜を念頭に捏造したと推測します。
百嶋神社考古学では、応神天皇を「正統な天皇ではなく別王(わけおう)」と規定していま
す。
『日本書紀』によると、雄朝津間稚子宿禰は再々周囲から天皇位即位を勧められたにもかかわ
らず、固辞していました。
ところが、忍坂大中姫の説得には応じて天皇に即位します。
これが事実であるならば、正統な天皇でもない応神天皇の孫に発言力があったとは考えられ
ず、おそらく忍坂大中姫は九州王朝家の中にあって相当な発言力があった政治集団の娘であるこ
とを物語ります。
2.忍梭大中姫を支える政治集団とは
『日本書紀-応神天皇二十年条』に
「倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖阿知使主(あちおみ)、其の子都加使主(つかおみ)、
並びに一族が支配する十七縣(の人々)を率いて帰国した。」との記事が見えます。
時代は西暦290年頃、正統天皇仁徳天皇時代の出来事でしょう。
背景にあるのは、仁徳天皇は東遷後、長らく九州へ戻ることが出来ず、不在の間の軍事力強化
を図る必要性に迫られ、急遽任那国王の「阿知使主」と其の子「都加使主」を九州へ帰国させた
と推測します。
「使主(おみ)」とは、第八十六話で紹介した「大臣」を指し、天皇家と血縁の深い政治集団
から選任されていたようです。
阿知氏は天皇家と血縁の深い有力豪族でもなく百済からの渡来民と推測され、「使主」に抜擢
されるはずがありません。
おそらく「紀氏(きのし)の阿倍臣を阿知使主」に改変したと推測します。
3.新任那国王「葛城襲津彦」
新しく任那国王として赴任したのが「肥(火)の君ナンバー2の葛城襲津彦」と推測します。
推測の根拠となる『日本書紀-応神天皇14年是歳条』に
「弓月君、百済から来朝し、己が国の人民百二十縣を率いて帰化しようとしましたが、新羅の邪
魔立てによって、皆加羅國に留まっていますと天皇に訴えました。そこで、応神天皇は葛城襲津
彦を加羅國に派遣しましたが、三年経過しても帰国しなかった。」とあります。
朝鮮族による新羅建国は西暦356年で、新羅の妨害などあり得ません。百済の建国は通説によ
ると3世紀末であり、当時は高句麗の圧迫によって南下し、金官伽耶国から割譲された朝鮮半島
西南海岸部に本拠を移動していました。
したがって、『日本書紀』が記すような「新羅と百済」の緊張関係は疑問です。
弓月君とは、故百嶋氏の講演会録によると越智族金氏を構成する一族で、将来性の見込めない
朝鮮半島から大挙して、倭国へ移動した一族と推測します。
また、任那国王に任じられた葛城襲津彦がわざわざ加羅(任那)まで難民を迎えに行く理由も
ありません。
葛城襲津彦は「阿倍使主・都加使主」の後任として任那国王として派遣されたのでしょう。
4.「都紀女加王(つきめかおう)の墓」
皆さんは「都紀女加王の墓」をご存知ですか。
『肥前風土記』・『先代旧事本紀』によると「竺志米多(めた)国造の祖」と記されていま
す。
「米多」は現在の佐賀県三養基(みやき)郡上峰町周辺とされています。
地図を見るとこの狭い領域が「国」といえるでしょうか。
『和名抄』では、「米多は三根郡の南米多郷」とあります。
Wikipediaによると、都紀女加王墓(佐賀県三養基郡上峰町坊所)は、前方後円墳で墳丘長
は49㍍で五世紀の築造と推定され、一帯の丘陵地には目達原(めたつばる)古墳群がありました
が、昭和17~18年にかけて目達原飛行場建設に伴い、破壊されています。
同古墳は、理由は不明ですが宮内庁が管理しています。
都紀女加王の後裔と見られる「米多氏」の姓は「君」です。
「都紀女加王」はもしかすると「都加使主」の後継者「「肥(火)の君」かもしれません。
「都紀女加王」は、表記から女性の首長と考えられます。「
写真 「都紀女加王墓」 出典:Wikipedia(2021/11/15 14:12)
きれいに整備されています。
図 三養基郡上峰町坊所周辺地図
5.允恭天皇の宮
何故か、『日本書紀』には記述がありません。『古事記』は「遠飛鳥宮(とおつあすかみや)」
と記していますが、その遺構は出土していません。
雄朝津間稚子宿禰こと允恭天皇は大草香皇子との摩擦を避けるため、高良大社を出て、大宰府
周辺に宮を遷したと推測します。
他方、大草香皇子は菊池川流域へと遷ったと推測します。
現在の筑紫野市筑紫・若江地区の前畑遺跡の発掘が最近始まり、土塁状遺構が出土しました。
土塁状遺構は長さ390㍍に及び、さらに南へ伸びているようです。
土塁は二層から成り、上層は土と砂を交互に積み重ねた版築工法で造られています。最大幅は13.5㍍、高さ1.5㍍で水城跡や大野城跡と類似しています。
土塁は東側が急斜面となっており、東から侵入して来る敵への防備を固めたと見られています。
東側への敵とは、阿蘇外輪山に近接する地域朝倉郡東峰村に進出を窺う阿蘇族と推測します。
同土塁は、阿志岐山城から南部に延伸しているように見えます。阿志岐山城は坂本命の弟安志奇命(あしきのみこと)が築造したと推測します。
安志奇命の支配地阿志岐村は古代高良の登り口の一つで、高良大社の北側に位置し、最も重要な所でした。
同土塁は允恭天皇による「防衛ライン」として築かれた可能性を推測します。
図 大宰府羅城想定図
6.不自然な中臣烏賊津臣の登場
皇后忍坂大中姫は妹の弟姫こと衣通郎女を允恭天皇の妃に推薦します。允恭天皇は衣が透き通
るほど色白で、あまりの美貌に一目で衣通郎女に心を奪われます。
衣通郎女は姉忍坂大中姫の嫉妬心が強いのを憂い、実家に戻ります。
允恭天皇はなんとしても衣通郎女を手に入れるため、中臣烏賊津臣に説得を依頼します。説得
は成功し衣通郎女は藤原宮に匿われました。
中臣烏賊津臣はツヌガアラシトこと贈崇神天皇が「高良宮」で神功皇后にお仕えした際のハン
ドルネームです。
したがって、衣通郎女が匿われた「藤原宮」は九州内と想像がつきます。
中臣烏賊津臣の生年は、故百嶋氏作成の「神々の系図-平成12年考」によれば、西暦195年で
す。
允恭天皇の生年は、私の推定では西暦270年頃ですので、允恭天皇と中臣烏賊津臣の接点はあ
り得ないとみるのが妥当でしょう。
しかし、全くの作り話とは思えません。名は不明ですが、ある時期の天皇の説話ではないでし
ょうか。
次回は「安康天皇」です。