第九十三話  「安康天皇(和風諡号穴穂天皇)」

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写真  「金銅製冠」大成洞古墳88号墳から出土。慶尚南道金海市伽耶エキル

大成洞古墳博物館蔵  出典:ブログ「いちご畑よ永遠に」

○暴虐の穴穂皇子

○物部大前宿禰とは

○穴穂天皇として即位

 

1.暴虐の穴穂皇子

雄朝津間稚子宿禰天皇薨去後から、穴穂皇子は婦女を犯し、国人(こくじん)から

反発の声が充満しました。加えて群臣の心も離れていきました。

あろうことか、穴穂皇子を襲う兵舎が続出し、矢で応戦しましたが敵わず、物部大前宿禰の館

に逃げ込みましたが、物部大前宿禰こそが打倒穴穂皇子の首謀者で、穴穂皇子は殺されます。一書

では伊予國へ流されたと記しています。

注目すべきは、『日本書紀』が記す穴穂皇子の戦術です。

「兵を興して、穴穂括箭(あなほのやはず)・軽括箭(かるやはず)、始めて此の時に起れり。」

とあります。

「穴穂括箭・軽括箭」について、補注十は「銅鏃」としています。

銅鏃は鉄鏃に比べ軽く殺傷力に劣り、敵兵を殲滅するまでにはいたりません。

したがって、本格的な戦闘ではなく「小競り合い」程度であったと推測され、穴穂皇子の部隊

と敵対勢力との関係は絶対的な敵対関係ではなかったことになります。すなわち、同族関係にあ

ったのでしょう。

 

2.物部大前宿禰とは 

物部氏の歴史を語る『先代旧事本紀-天神本紀・天孫本紀』を読むと、彼等の歴史観は、以下

のように構成されています。

(1)皇室の先祖神天照大神の御子正哉吾勝々速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめの

     おしほみみのみこと)」を始祖としています。

天照大神の御子正哉吾勝々速日天押穂耳尊は、私が研究を進めた「百嶋神社考古学」で

は、父“阿蘇族神八意耳命(かむはえみみのみこと)”、母は高木大神の娘という血筋で、

青年時代の名は「草部吉見(かやべよしみ)」と呼ばれていました。

(2)葦原中國の敵を防ぐため、三十二人の防衛(ふせぎもり)を派遣

箔を付けるため、物部氏勃興以前に活躍した神々を羅列しています。

(3)物部氏の祖先神を饒速日命と規定。

饒速日命、別名山幸彦・天火明命(あめのほあかりのみこと)

天火明命こと別名彦火々出見命(ほほでみのみこと)と天忍穂耳命の間には血縁関係がな

く、敵対関係が存在しました。

すなわち、物部氏は藤原氏と同様に「山幸彦も海幸彦も祀る」という一族になります。

(4)饒速日命の御子宇摩志麻治命を物部氏の始祖

宇摩志麻治命は饒速日命とスサノオの娘天細女(あめのうずめ)別名豊宇氣姫との間に生ま

れ、妹壱與別名稚日孁尊(わかひるめのみこと)は後に孝霊天皇の皇后と成り、名を細姫に改

めます。

宇摩志麻治命は後に、孝霊天皇によって「大水口」の称を与えられます。

「大」は美称で、「水口」は「海上交易並びに対外折衝の窓口及び現代で云えば海軍の大将」

に任命され、「物部宗家」と呼ばれました。

物部宗家の神紋は「日負鶴」です。

驚くべきことに、『先代旧事本紀-天孫本紀』は、宇摩志麻治命を十八世孫尾治乙訓與止連

(おわりおとくによどむらじ)の弟としています。

『先代旧事本紀』は、物部氏二代目以降、誰が直系なのか判別できません。亦、明らかに四

世孫以降の系譜は、物部宗家ではなく事代主に引き継がれた「大矢口物部」にすり替えられて

います。

「大矢口」とは、「大」は美称で、「矢口は矢で戦う軍団」。現代で云えば前線で戦う陸軍

部隊です。

物部大前宿禰について、『先代旧事本紀-天孫本紀』は「大矢口物部氏」の十一世物部眞椋

連公(ものべまくらのむらじのきみ)の弟」と記しています。

この系譜から、物部大前宿禰が、九州王朝から「宿禰の姓(かばね)」を与えられるはずがあ

りません。

これほど壮大な嘘をつけば、見破られない筈がありません。

『日本書紀』編纂者は、穴穂天皇の素性を「大矢口物部氏ではないか」と疑っているので

す。

写真 物部氏宗家の神紋「日負鶴」 出典:島根県太田市川合町川合 出典:「物部神社」HP

九州王朝を支えた初期の物部軍は、以下の三軍で構成されていたと推測します。

(1)宇摩志麻治命を始祖とし、「日負鶴を神紋とする(大水口)物部宗家」軍

(2)「木瓜紋」神紋とする高良系物部(別名久米物部)軍

(3)事代主を始祖とする「大矢口物部」軍

 

 

3.穴穂天皇として即位

殺されたはずの穴穂皇子が無事に天皇として即位します。その後の軌跡を『日本書紀』から辿

ってみましょう。

都を石上(いそのかみ)に遷し、穴穂宮と言う。

石上穴穂宮の跡地と比定されているのが、「石上穴穂神社」 天理市田町

ご祭神:高龗神(たかおかみのかみ 神沼河耳命、阿蘇族統領)

布留川に対する用水の守護神として貴船大神(高龗神=高龗神)を勧請しており、穴穂天皇

の宮とは考えられません。

図  天理市田町周辺地図

写真 「穴穂神社」案内板 出典:宮内庁管理陵墓探記録「新陵墓探訪記」

(2)大泊瀬皇子が、瑞歯別王の娘を迎えたいとの要請を受け、皇女達に話をしたところ「常に暴力的

で、憤懣が絶えず、誰も要請には答えなかった。」と記しています。

不思議なことに候補者である皇女達の名前は不明としています。

この不思議な記事は、まるで即位前の穴穂皇子の事跡と共通しています。

(3)穴穂天皇は、坂本臣の祖根の使臣(おみ)を大草香皇子のもとに遣わし「汝の妹幡梭皇女(は

たひめおうじょ)を大泊瀬皇子のために見合いさせたいので承諾されたい。」と申し出まし

た。大草香皇子は快く承諾され、礼物として、家宝“押木の珠鬘(たまかずら)”を差し出しまし

た。

ところが、根の使臣は押木の珠鬘に目がくらみ、自らの家宝とするため隠匿し、あろうことか

「大草香皇子は勅命を拒絶するだけでなく、同族といえども、我が妹を妻とするなど、もっての

外だと云っています。」と、穴穂天皇に復命しました。

この讒言を真に受けた天皇は大いに怒り、兵を起こして、大草香皇子を殺すだけでなく、正妻

の中帯姫を奪い取り、後に皇后に迎え入れました。

大草香皇子に仕えていた難波吉師日香蚊(なにわのきちしひかか)親子は「吾が君、罪無く

して死にたまふこと、悲しきかな。(後略)」と述べて、親子三人は殉死し、その後幡梭皇女は

大泊瀬皇子の妃に迎え入れられます。

上記記事には数々の不審点があります。

第八十五話でも触れましたが、仁徳天皇東遷時に、九州王朝の留守居役を担当したのが坂本命

(さかもとのみこと)であることは紹介しました。

坂本臣はおそらく坂本命の後裔と考えられ、根の使主が坂本臣の先祖ではありえません。

『日本書紀-履中天皇二年冬十月条』に、

「圓大使主(つぶらのおおおみ)、大臣と共に國事を執(と)れり。」とあり、「大使主=

大臣」と考えられます。

おそらく「坂本臣ではなく坂本大臣」として國事を執務していたのでしょう。また、本来の

名が伏せられた可能性もあります。

(4)押木の珠鬘

故森浩一氏は『敗者の古代史 (株)中経新書 143~144p』で、「押木の珠鬘は宝冠であ

るとし、枝のついた木の幹の形を冠の立飾にし、勾玉などの宝石を垂下させた金冠・銀冠・金

銅製冠は出字形立飾冠と呼ばれ、五・六世紀の新羅・百済・伽耶などで国王たちが好んで所持

し、儀式などに着用したもので、大日下王は冠を珍しい物として入手したのではなく、百済王から

贈られた冠の可能性が強い。また大日下王誅殺事件の真相はこの冠を取り上げることにあっ

た。」と記しています。

 

写真  「金銅製冠」大成洞古墳88号墳から出土。慶尚南道金海市伽耶エキル

大成洞古墳博物館蔵  出典:ブログ「いちご畑よ永遠に」

慶尚南道金海市は、金官伽耶国の首都であることは既に紹介しました。

大成洞古墳群は、金官伽耶国の支配者達の王墓であると韓国研究者は発表しています。

しかし、彼らにとって、都合の悪い遺物が出土しました。

一昨年(令和2年)6月1日、金海市大成洞古墳博物館は、108号墳から日本製と推定される青銅

矢尻(鏃)30点あまりが束で出土したことを明らかにしました。

同古墳群からは既に日本製とみられる「巴型銅器・漆塗革製盾・石製紡錘車・ヒスイ製勾玉」

などが出土しています。

最も立派な88号墳の被葬者を、金官伽耶国の傭兵であった倭人の墓ではないかとしていますが、

国王よりも立派な副葬品が出土した墓を傭兵隊長の墓とする見解をどのように思われますか。

以上から、「韓国考古学々会は、科学する心を忘れ、歴史歪曲の道」へ突き進んでいるようで

す。

以前は「新羅の属国あるいは分国日本」と声高に叫んでいましたが、今回の発表は「金官伽耶

国の属国倭国」に代わるかもしれません。

私見で既に述べていますが、3世紀初頭宇摩志麻治命によって、金官伽耶国内に任那国を建国

したと推測しています。

(3)・(4)の記事は、金官伽耶国との濃厚な関係を映し出しているようです。

(5)二年の春正月、大草香皇子の妻中帯姫を妃として宮中に入れ、後に皇后とします。中帯姫に

は、既に大草香皇子との間に誕生した眉輪王がおり、宮中で眉輪王を養育していました。

同記事には年代的な隔たりが見られます。

  • 穴穂天皇の父允恭天皇は坂本命の御子
  • 坂本命は仁徳天皇の弟
  • 大草香皇子は仁徳天皇の御子      

年齢は、大草香皇子>坂本命>允恭天皇>穴穂天皇となります。

以上の不等式から、中帯姫の前夫大草香皇子と穴穂天皇には年齢的に相当な隔たりがあること

が確かめられます。

したがって、同記事には信憑性がありません。

(6)三年の秋八月天皇、中帯姫皇后の連れ子、大草香皇子の御子眉輪王によって暗殺されまし

た。

『古事記』眉輪王の年齢を当時七歳としています。「寝首をかく」という諺もありますが、

果たして七歳の子供が大の大人である穴穂天皇を暗殺できるでしょうか。

同記事も不審な記事です。

以上の検証から、穴穂天皇の実在性は疑問です。

 

次回は「雄略天皇」です。

 

 

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