第百二十五話  「崇峻天皇」(1)

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写真  四天王寺

○和風諡号「泊瀬部天皇」

○物部守屋大連が穴穂部皇子を天皇位につけるため、三度に渡る軍事デモンストレーションの実施

○蘇我馬子宿禰等、物部守屋大連討伐を決意

○物部守屋大連軍が敗れた理由

○蘇我馬子宿禰大臣の妻は物部守屋大連の妹か?

○炊屋姫皇后とは

 

1.和風諡号「泊瀬部天皇」

穴穂部天皇同様に九州王朝の正統な天皇ではありません。

蘇我氏との対立を調停するため、九州王朝より派遣された人物とも思えません。

 

2.物部守屋大連が穴穂部皇子を天皇位に就けるため、三度に渡る軍事デモンストレーション(示威

  行動)の実施

二年五月、物部守屋大連は何故穴穂部皇子を天皇位に就けることに拘ったのでしょうか。九州王朝か

ら分離独立し、実子の穴穂部皇子をヤマト王権のトップに即位させ、ライバルである蘇我氏を打倒

し、実質的な支配者を目指したのではないでしょうか。

 

3.蘇我馬子宿禰等、物部守屋大連討伐を決意

二年六月 物部守屋大連勢の謀を事前に察知した蘇我馬子宿禰は、何故か「泊瀬部天皇ではなく、炊

屋姫尊」を奉ります。

すなわち、「名目上の旗印炊屋姫尊」を立てる理由があったのです。

『日本書紀』編纂者の認識は以下の不等式と推測します。

炊屋姫尊>蘇我馬子宿禰大臣>泊瀬部皇子

蘇我氏の編成軍は、佐伯連丹経手・土師連磐村(『日本書紀-用命天皇紀』では葛城直磐村と記述され

ており、おそらく葛城氏が本当の名前と考えられます。)的臣眞噛(本当の名前は大伴連噛と考えら

れます。)に詔し、「汝等、兵を速やかに編成して、穴穂部皇子・宅部皇子を誅殺せよ。」と宣う。

彼らは速やかに任務を完了します。

二年七月 蘇我馬子宿禰大臣は、諸皇子と群臣を集め物部守屋大連を滅ぼすことを図ります。

これに賛同したのが、泊瀬部皇子(泊瀬部天皇とは記述していません。)・竹田皇子・厩戸皇子・難波

皇子・春日皇子・男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀陀夫・葛城臣烏那羅等は、物部守屋大連宅へ征

討軍を進め、別働隊の大伴連噛(おおともむらじくい)・阿倍臣人・平群臣神手・臣糠手・春日

は志紀郡から渋河の別業を襲います。

一方、物部守屋大連軍は子弟や奴軍(直属部隊)を率い、稻城を築き、峻烈な攻撃力は別働隊の大伴

連噛軍等を三度にわたって、撤退させました。

蘇我馬子宿禰大臣軍の危難を救ったのが厩戸皇子でした。

「今、もし我をして敵に勝利するならば、必ず護世四王の御為に寺塔を立てん。」と誓いの言葉を叫

びます。同時に蘇我馬子大臣も「凡そ諸天王・大神王等、我を助け守り、勝利を得るならば、諸天と大

神王の御為に、寺塔を立て、三寶を流布せしめん。」と誓いを叫びます。

この誓いの言葉に奮起し、迹見首赤寿(とみのおびとあかい スサノオ系)が先陣に立ち、大連やそ

の子弟を射殺。その後、大連軍はたちまち自壊し、蘇我軍の一方的勝利が決定づけられました。

時の人は口々に「蘇我大臣の妻は物部守屋大連の妹で、大臣は妻の謀を実行し、大連を殺したの

だ。」という噂が蔓延しました。

この乱の平定後、蘇我大臣は摂津國に四天王寺、飛鳥の地に法興寺を立てます。

戦功第一の迹見首赤寿は田一万貫を褒賞として与えられました。

『日本書紀』編纂者は見事に「崇仏派と排仏派の抗争」に決着をつけ、真相をねじ曲げました。

この事件を歴史用語では「丁未の変(587年)」と云います。

「丁未の変の舞台は九州ではなく、ヤマト」です。この点に関しては、異論を聞きません。

「丁未の変」の背後には、「九州王朝俀国(大いなる倭国(いこく))の意向が反映されていたと推

測します。

その証左となるのが、古代豪族の名門「紀・阿倍・平群・巨勢・葛城氏」等がこぞって蘇我馬子宿禰大臣

側に与(くみ)していました。

なお、蘇我馬子宿禰大臣は物部氏の祭祀権を奪うことなく存続させました。

流石ですね。「死者に鞭打つ」愚挙をしない古代人の配慮には感心します。

写真  「四天王寺」   出典:四天王寺公式HP

写真 四天王寺「聖霊会舞楽大法要」 出典:四天王寺公式HP

4.物部守屋大連軍が敗れた理由

物部軍は最初から一枚岩ではなく、本来ならば、事代主系物部軍の長“大三輪君白堤”を中心とする軍

が蘇我軍との戦いに出動していません。

蘇我氏との戦いにおける兵や武器といった戦力が蘇我軍に劣っていたのでしょう。

なぜ、大神君白堤(おおみわきみはくてい)は参戦しなかったのでしょうか。

おそらく「下克上の戦いに理はない。」という判断力に従ったのでしょう。

 

5.蘇我馬子宿禰大臣の妻は物部守屋大連の妹か?

『日本書紀』が記す噂話「蘇我馬子宿禰大臣の妻の謀」について検証してみましょう。

『日本書紀』編纂者は、物部守屋大連の妹の名をわざと洩らしています。

したがって、蘇我馬子宿禰大臣の妻太媛の素性はわかりません。

しかし、夫に決断を迫ったのは妻だという噂を一概には否定できません。

名門瀛氏の後継者蘇我氏に大きな影響力を与える妻は九州王朝直系の皇女である可能性が濃厚です。

では、その皇女とは誰でしょうか。

 

6.炊屋姫皇后とは

  『日本書紀』記事から炊屋姫皇后について検証してみましょう。

表 炊屋姫尊を中心とした家系

名前 血縁 参照事項など
欽明天皇 九州王朝正統天皇
堅盬媛 父 蘇我稲目宿禰
炊屋姫尊 本人 別名豊御食炊屋姫、額田部皇女
敏達天皇 藤原氏によって贈られた贈天皇
彦人大兄王 後の用明天皇 藤原氏によって贈られた贈天皇
磐隈皇女
臘嘴烏皇子
椀子皇子
大宅皇女
石上部皇女
山背皇子
大伴皇女
櫻井皇子
肩野皇女
橋本稚皇子
舎人皇女
莵道貝鮹皇女 長女 後に東宮聖徳に嫁ぐ
竹田皇子 長男
小墾田皇女 次女
鸕鷀皇子 次男
尾張皇子 三男
田眼皇女 三女 後に舒明天皇の皇后
櫻井弓張皇女 四女

 

第百十八話で紹介した仮説「欽明天皇と妃日影皇女との御子、(宗賀の)倉王は臣下に降り、蘇我氏

を継ぎ、九州王朝から「宿禰の姓」を賜り、蘇我稲目宿禰と名乗った。」を紹介しました。

「宿禰の姓」を継承するためには、継承者蘇我馬子の妻は九州王朝の皇女が必要条件と推測します。

したがって、「炊屋姫皇后は泊瀬部天皇の皇后ではなく、蘇我馬子宿禰大臣の妻であった。」と推測

します。

すなわち、形式上、蘇我馬子宿禰は「九州王朝の入り婿であった」と推測します。

蘇我馬子宿禰は物部氏との戦いに「錦の御旗として炊屋姫尊」を奉ったのです。

この「錦の御旗」の下に、炊屋姫尊の兄弟や皇子達が参集しました。

 

 

次回は「崇峻天皇」(2)です。

 

 

 

 

 

 

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