○懿徳天皇退位後の九州王朝
○孝霊天皇即位前の動乱
1.懿徳天皇退位後の九州王朝
無気力で政治に関心の無い懿徳天皇に対し、最も憂慮を覚えた卑彌呼は懿徳天皇を退位させ、女王の座に復帰し、後に孫の壱與(いよ)を後継者として宗女に迎えて九州王朝の立て直しを図りました。
壱與を支えたのは、実兄宇摩志麻遅命(うましまじのみこと、以下ウマシマチと記す)、拝跪神(はいきのかみ)こと御年神(みとしかみ)、天才速瓶玉命後の大山咋、ウガヤフキアエズの四人でした。
この四人の血筋を「神々の体系-平成12年考」を熟視すると、四人と壱與の関係が理解できるのです。
図 故百嶋氏作成「神々の系図-平成12年考」
2.孝霊天皇即位前の動乱
・ 建南名方(たけみなかた)の乱
『魏志』倭人伝が記す倭国大乱
父懿徳天皇退位後、政情不安が続き、孝霊天皇は長らく即位できませんでした。
そのような状況下で、大率姫氏に次ぐ格式を持つスサノオの孫建南方は熊襲と呼応して、AD195年頃に南九州で反乱の狼煙を上げました。
反乱理由は後漢の衰退により、後漢の出張所とも目された倭国がその正当性と後ろ盾を失ったと即断したのです。
後漢は西暦184年「黄巾(こうきん)の乱」が勃発し、その反乱は全国に飛び火し、実質支配者であった10人の大宦官(だいかんがん)の多くが殺され、西暦189年霊帝は没し、その混乱に乗じた董卓(とうたく)が首都洛陽を支配し、霊帝の後継者少帝弁を廃位後殺害。この時点で後漢は事実上統治機能を失いました。
故百嶋氏のメモによれば「後漢が滅びて倭国内は大乱の折、大率家の方々を諸(室・村・群)へお迎えしたのは草香王(くさかおう、仁徳天皇皇子)の御母の先祖諸氏(もろし)でした。諸一族(もろいちぞく)の住する所、すなわち後世の俗称ヤマタイです。」と書き残されています。
諸一族とは、現宮崎県東諸県郡を支配する大己貴命の一族と考えられ、“ヤマタイ”とは『後漢書』倭伝が記す「其大倭王居邪馬臺國案今邪摩惟音之訛也(其の大倭王は邪馬臺國に居し、案ずるに今邪摩惟音の訛なり。)」とある“邪馬臺國(やまたいこく)”と考えられます。
「狗奴国(こうぬこく)の乱」は、球磨川以南を支配地とする狗奴国の統領建南方命を中心に、北熊本から肥前東・筑後地域を支配する熊襲族が合体し、また朝倉地区を支配していた事代主も呼応したので、戦いは筑前・筑後・豊前の三地域で開始されました。
迎え撃つのは二系統の物部軍「大矢口ウガヤフキアエズ」と「大水口ウマシマチ」であったと推測されます。
いち早く戦いの不利を悟った事代主軍は離脱し、九州王朝に恭順を誓ったものの、戦いは膠着し数ヶ月に及びました。
次第に疲弊した狗奴国軍は終に降伏の時が近づいてきました。
故百嶋氏によるとこの事態を収拾したのが、建南方命の父草部吉見こと天忍穂耳命です。建南方命は父の説得を受け入れ、九州から去ることを条件に降伏しました。
そして、降伏後は名を「足下の神 阿須波(アスハ)」に改めます。
ところが、故百嶋氏が作成した「神々の系図-平成12年考」に不思議な系図が遺されています。
建南方命の両親に関して二系統の系図があります。
①父草部吉見こと春日大神、母瀛津世襲足姫
②父彦火々出見命こと饒速日命、母天細女命こと豊受姫
さらに故百嶋氏のメモには
とあり、「外宮様」とは天細女命こと豊受姫です。建南方命の叔母ではなく母である蓋然性が窺えるのです。
すなわち、ウマシマチ命・卑彌呼宗女壱與は建南方命の弟妹となります。
壱與は後の孝霊天皇の皇后細姫です。
おそらく、故百嶋氏は壱與を反逆者の妹とするには忍び難かったのでしょう。
建御名方による「倭国大乱」が終息した後、饒速日の後継者ウマシマチの妹壱與は西暦195年頃に孝霊天皇の皇后となりました。
図 宮崎県東諸県郡綾町(推定”室“地区)周辺の地図
次回は「孝霊天皇」(2)です。