第四十七 話  「孝霊天皇」(2)

写真  諏訪大社   出典:Wikipedia(2022/02/14 10:30)

「上社の川越し」(式年造営御柱大祭)

「下社の木落し」

○建御名方命の乱後の顛末記

○孝霊天皇の皇后・妃と御子

1.建御名方命の乱後の顛末記

故百嶋氏は、建御名方命の乱後の顛末記として「建御名方は父春日大神こと天忍穂耳命に説得

されて改心し、叔母天細女命に連れられて豊玉彦にお詫びをするため山代を訪ねました。周囲か

ら世話をしてもらい、奈留多姫を娶り、奈留多姫これを機には名を八坂刀女に改めます。二人し

て新天地の信州・諏訪へ赴かれましたが、奈留多姫は一族の熊襲及び阿蘇の人たちを福岡県早良

に残していかれました。」と述べています。

建南方命は降伏後、名を阿須波に改めます。

阿須波は、一命を許され諏訪に逼塞することになりましたが、建御名方命の名「御名」が示す

ように、諏訪では農業をはじめとする産業革命を起こし、多くの民を導き「諏訪大神」として祀

られています。

・諏訪大神として祀る神社

諏訪大社 長野県の諏訪湖周辺4ヶ所にある神社

秋田諏訪宮 秋田県仙北郡美郷町武居

主祭神;建御名方富命・八坂刀売命

写真 秋田諏訪宮境内で行われる「六郷カマクラ行事」2020年ポスター

指定重要無形民俗文化財 出典:美郷町観光サイト

諏訪神社  長崎市上西山町  出典:長崎伝統芸能振興会

主祭神:諏訪大神 建御名方神・八坂刀売神

何かと宮司に関するトラブルが続いています。

写真 国重要文化財「長崎くんち」

 

2.孝霊天皇の皇后・妃と御子

『古事記』記事は信頼が置けませんので、『日本書紀』から辿ってみましょう。

(1)皇后細媛命(ほそひめのみこと)との間に大日本彦國牽尊(おお やまとひこくにくるのみ

こと)の一柱。

細姫命の父は、饒速日命(にぎはやひのみこと)こと彦火々出見命(ひこほほでみのみこ

と)、母は息長津姫とあります。

皇后になる前の名は壹與(いよ)は、『魏志』倭人伝が記す「13歳 で王となった壱与」と同

一人物と故百嶋氏は指摘しています。

また、「卑弥呼宗女壱与(ひみこそうじょいよ)」と注意書きをしています。

「宗女(そうじょ)」とは直系の娘を指し、「神々の系図-平成12年考」によれば、壹与は天

照大神こと卑弥呼の直系の孫娘であることが確認できます。

大日本彦國牽尊は、孝霊天皇の後継者、後の孝元天皇として即位 します。

(2)妃倭國香媛(ひやまとのくにかひめ)、またの名紐某姉(ハエイロネ)との間に倭迹迹百

襲姫命(やまととももそひめのみこと)・彦五十狭芹彦命(ひこいそさせりひこのみこと)

またの名吉備津彦命、倭迹迹稚屋姫命(やまととわかひめのみこと)の三柱。

紐某姉の両親に関する記述がないのは不思議ですね。

私見は、父ウマシマチ(皇后細媛命の実兄)、母は大幡主系出雲の葉江一族の娘と推測し

ます。

倭迹迹百襲姫命は孝霊天皇の後継者孝元天皇の皇后となります。

彦五十狭芹彦命またの名吉備津彦は、岡山市北区の備中国一宮「吉備津神社」のご祭神と

して祀られています。

また、「桃太郎伝説」の主人公でもあります。

主祭神:大吉備津彦大神、若建吉備津彦命

大吉備津彦大神は文字通り「吉備王国」を打ち立てた業績を讃えられた人物と考えられま

す。

(3)紐某姉の妹紐某弟(ハエイロチ)との間に彦狭嶋命・稚武彦命の二柱。稚武彦命は吉備臣の

始祖。

彦狭嶋命は姉紐某姉の御子吉備津彦の別名で、ハエイロチの御子ではありません。

稚武彦命またの名吉備武彦は、ハエイロチとの御子です。

 

次回は「孝霊天皇」(3)です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○懿徳天皇退位後の九州王朝

○孝霊天皇即位前の動乱

 

1.懿徳天皇退位後の九州王朝

   無気力で政治に関心の無い懿徳天皇に対し、最も憂慮を覚えた卑彌呼は懿徳天皇を退位させ、

女王の座に復帰し、後に孫の壱與(いよ)を後継者として宗女に迎えて九州王朝の立て直しを図

りました。

壱與を支えたのは、実兄宇摩志麻遅命(うましまじのみこと、以下ウマシマチと記す)、拝跪

神(はいきのかみ)こと御年神(みとしかみ)、天才速瓶玉命後の大山咋、ウガヤフキアエズの

四人でした。

この四人の血筋を「神々の体系-平成12年考」を熟視すると、四人と壱與の関係が理解できるの

です。

図 「神々の系図-平成12年考」

2.孝霊天皇即位前の動乱

(1)建南方(たけみなかた)の乱

『魏志』倭人伝が記す倭国大乱

父懿徳天皇退位後、政情不安が続き、孝霊天皇は長らく即位できませんでした。

そのような状況下で、大率姫氏に次ぐ格式を持つスサノオの孫建南方は熊襲と呼応して、AD193

年頃に南九州で反乱の狼煙を上げました。

反乱理由は後漢の衰退により、後漢の出張所とも目された倭国がその正当性と後ろ盾を失った

と即断したのです。

後漢は西暦184年「黄巾(こうきん)の乱」が勃発し、その反乱は全国に飛び火し、実質支配

者であった10人の大宦官(だいかんがん)の多くが殺され、西暦189年霊帝は没し、その混乱に

乗じた董卓(とうたく)が首都洛陽を支配し、霊帝の後継者少帝弁を廃位後殺害。この時点で後

漢は事実上統治機能を失いました。

故百嶋氏のメモによれば「後漢が滅びて倭国内は大乱の折、大率家の方々を諸(室・村・群)

へお迎えしたのは草香王(くさかおう、仁徳天皇皇子)の御母の先祖諸氏(もろし)でした。諸一

族(もろいちぞく)の住する所、すなわち後世の俗称ヤマタイです。」と書き残されています。

諸一族とは、現宮崎県東諸県郡を支配する大己貴命の一族と考えられ、“ヤマタイ”とは『後漢

書』倭伝が記す「其大倭王居邪馬臺國案今邪摩惟音之訛也(其の大倭王は邪馬臺國に居し、案ずるに

今邪摩惟音の訛なり。)」とある“邪馬臺國(やまたいこく)”と考えられます。

「狗奴国(こうぬこく)の乱」は、球磨川以南を支配地とする狗奴国の統領建南方命を統領として、北

熊本から肥前東・筑後地域を支配する熊襲族が合体し、また朝倉地区を支配していた事代主も呼応

したので、戦いは筑前・筑後・豊前の三地域で開始されました。

戦いは小規模な戦闘に終始しましたが、事代主は戦いの不利をいち早く察知し、九州王朝に恭順を

誓い、戦線を離脱しました。その結果、狗奴国郡は劣勢に立たされ、建南方命の父草部吉見こと贈孝

昭天皇の説得を受け入れ、建南方命は九州を去ることを条件に降伏しました。

図 南方神社  鹿児島県枕崎市鹿篭麓町

出典:Wikipedia(2022/02/13 10:15)

ご祭神:健御名方神・八坂刀女神

 

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