第百二十八話  「推古天皇」(2)

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写真 「椿市廃寺跡」遠景

 

○推古天皇治世下の朝鮮半島情勢

○厩戸豊聡耳皇子とは

 

1.推古天皇治世下の朝鮮半島情勢

(1)高句麗

598年 高句麗は抗争中の突地稽の本拠地営州を襲撃します。隋の文帝はこれを領内への侵略行為と

断じ、高句麗に水陸三十万と号する遠征軍を派遣しますが、燎河の洪水により、兵糧の補給が途絶し、

遠征軍は渋滞します。高句麗の嬰陽王(在位590~618年)は全面戦争になることを危惧し、隋に謝罪

することで休戦が成立します。

612年 隋の煬帝は100万とも200万とも称する大軍を派遣しますが、高句麗の抵抗も強く、退却せざる

を得ませんでした。

隋の煬帝は、613年・614年と続けて遠征軍を派遣するも思うような戦果は挙げられませんでしたが、

高句麗も疲弊し、嬰陽王は隋に謝罪し、自らが隋に朝貢するという和議を結び、両国の戦闘は収まり

ます。

しかし、嬰陽王は和議を実行しませんでした。

『日本書紀-推古天皇二六年八月条(618年)』は、高句麗の使いによって上記の事件を知ります

が、598年の隋軍の高句麗侵入事件と614年の隋と高句麗の和議を混同して記述しています。

以上から、高句麗と俀国との外交関係が疎遠であったことは明らかです。

(2)新羅

532年 伽耶地方の任那諸国を併合した新羅は、任那諸国の残兵による抵抗勢力との小競り合いが頻

発します。その対策に苦慮した新羅の眞平王(在位579~632年)は俀国との外交折衝に踏み切りま

す。

その背景には百済の存在があります。百済は俀国の親百済勢力と結びつき、隙あらば、旧任那諸国へ

の侵攻が憂慮されたからです。

新羅は、もし俀国から任那救援軍が派遣されれば、百済や旧任那諸国の残存勢力と戦う不利を悟って

いたのです。

外交折衝は何度も行われ、推古三十一年(623)にようやく決着します。

それは「旧任那諸国から上がる調(税金)を俀国に献上する」ことで合意しました。

『日本書紀-推古天皇紀三一年条』

「仍(よ)りて、両国の調を貢る。」の記事です。

両国とは「新羅・金官伽耶国」を指しますが、実態は金官伽耶国から上がる調」です。

『日本書紀』は、ヤマト王権が任那救援軍を派兵したので、新羅が白旗を揚げて降伏したとしていま

すが、実態は武力ではなく外交でもって「任那問題」を解決したのです。

(3)百済

威徳王(在位554~598年)は、弟の恵(後の恵王)を俀国に派遣し、お土産作戦(仏像・経典・僧の

献上)で親百済政策の維持と援軍の出兵を要請しましたが、俀国の対応は親百済政策を維持するも国

内政策を重視し、援軍の派兵要請を断ります。

602年8月 新羅の阿莫山城(全羅北道南原市)を包囲しましたが、新羅の眞興王が派遣した騎兵隊に

大敗を喫します。

623年 新羅と俀国は「金官伽耶国の調を俀国に貢納する」という和議で、伽耶地方への侵攻が頓挫

します。

628年 高句麗と和議を結び、新羅を度々攻撃します。

 

2.厩戸豊聡耳皇子とは

(1)厩戸豊聡耳皇子の血筋

図 厩戸豊聡耳皇子を中心とする家系図

 

  本人

厩戸豊聡耳皇子

 

 

父 用明天皇

 

 

祖祖父 欽明天皇

 

曾祖父 継体天皇

 

曾祖母 手白香皇女

 祖母 堅盬姫

 

曾祖父 蘇我稲目

 

曾祖母 ?

 

 

母 穴穂部間人皇女

 

祖父 欽明天皇

 

曾祖父 継体天皇

 

曾祖母 手白香皇女

 

祖母 小姉君

曾祖父 蘇我稲目

 

曾祖母 ?

(補足説明)

私見は、用明天皇を正統な九州王朝の天皇とは認めていません。厩戸豊聡耳皇子の血筋は正統な九州

王朝欽明天皇からはじまり、「母系」は蘇我氏からはじまります。

したがって、厩戸豊聡耳皇子は「九州王朝並びに蘇我氏の血筋」を曳く人物と推測されます。

(2)厩戸豊聡耳皇子の略歴

『日本書紀』から検証してみましょう。

ア.「推古紀」では橘豊日天皇の第一子として誕生とありますが、「用命天皇紀」は、第二子

して記述しています。

どちらが、正いいのでしょうか。

私見は第二子です。

イ.用明天皇三年「丁未の変(587)」に参軍

当時15才と仮定すると、生年は西暦572年となります。

厩戸豊聡耳皇子の父用明天皇は『日本書紀』の記述から生年は541年と推測されます。

ウ.推古元年四月(593年) 厩戸豊聡耳皇子は皇太子に任命され、摂政として政治を担うことを

命じられます。

高麗僧慧慈に内教(うちの教え=仏教)、外典(とつふめ=儒教)を博覚カに学ぶ。

斑鳩に移るまでは上宮(桜井市上之宮周辺?)で居住していました。

エ.推古三年五月 高麗僧慧慈帰化し、皇太子の師になります。

オ.推古九年二月 皇太子、独立して斑鳩宮(現在の法隆寺周辺)に転居します。

カ.推古十二年四月 憲法十七条の制定

キ.推古十四年七月 皇太子「勝鬘経・北華経」を講演。

ク.推古二十八年 皇太子・嶋大臣と協同して天皇紀・国記を録(しる)す。

ウの記事に相違して、政治(まつりごと)に関わる記事は全くありません。

同様に推古天皇も政治(まつりごと)に関わる記事は皆無です。

政治の実権は蘇我馬子宿禰大臣が“君主然”として独占しています。

皇太子厩戸豊聡耳皇子は「仏法興隆の広告塔」として存在されたのではないでしょうか。

(3)厩戸豊聡耳皇子が建立されたとする四天王寺

天王寺の伽藍配置は、南北100㍍、東西74㍍の回廊に囲まれ、中門・塔・金堂・講堂を南から北へ一直

線に配置する様式から「四天王寺式伽藍配置」と呼ばれています。

同様の様式を持つ古代寺院跡は三箇所が知られています。

・若草伽藍(法隆寺西院とも呼ばれています)

・豊前(現在の福岡県遠賀川右岸は、古代は豊前国と呼ばれていた)の「椿市廃寺跡(福岡県行橋市大

字福丸)」

・豊前の「垂水廃寺跡(福岡県筑上郡新吉富村大字垂水)」

何故、遠く離れた豊前に「四天王寺式伽藍配置」を持つ古代寺院跡が見られるのでしょうか。

ヒントは『日本書紀-用命天皇紀二年夏四月条』にあると推測されます。

天皇、病を得、「三寶(仏・法・僧)に帰依しようと思う」と、群臣に諮ります。賛否両論が巻き起こり

ますが、蘇我馬子宿禰大臣が賛成したので、皇弟皇子に案内されて内裏に入ったのが豊国法師と記述し

ています。

『日本書紀』編纂者は、ご丁寧にも「名を洩らせり」と記述しています。

豊国とは「豊前・豊後」を総称した国の名です。おそらく、豊国は仏教を信奉する政治集団が存在し

たことが窺えます。

九州王朝では「仏教を国教として保護」する政策を取っており、「ヤマトにおける崇仏派Vs廃物派」

問題は看過できませんでした。

そこに登場したのが「豊国法師」です。

豊国法師とは九州王朝の天皇(正確には君長)の弟皇子で、豊国を支配地とする絶対的な権力者の一人

です。

排仏派は豊国法師には逆らえません。逆らえば身の破滅です。

豊国法師は「ヤマト王権の内裏」に入り、「仏教を国教にする」詔を宣言したのでしょう。

『日本書紀』編纂者は、豊国法師の実名を知っていたはずですが、「ヤマト王権」の正当性を主張する

ためには、名前を秘する必要があったのです。

この行動により、仏教排仏派は黙り込んだのでしょう。

当然、豊国には仏教寺院が建立されていたと推測します。

図  四天王寺式伽藍配置   出典:Wikipedia(2022/07/23 21:00)

写真 「椿市廃寺跡」遠景  出典:行橋市HP

図 「椿市廃寺」復原図  出典:行橋市HP

(4)厩戸豊聡耳皇子の財力

『日本書紀-推古天皇元年条(593)』

「始めて四天王寺を難波の荒陵(あらはか)に造る。」

『聖徳太子古今目録抄下巻本文』

「法隆寺と天王寺は同年の造営で、完成まで法隆寺は十五年、天王寺は八年を要した。」

注)「四天王寺は天王寺とも呼ばれていた」

厩戸豊聡耳皇子は四天王寺を創建する財力はどこにあったのでしょうか。

通説は、その所領について『荒陵寺御手縁起(別名 四天王寺御手印縁起とも称し、平安時代後期に作

成された四天王の縁起資材帳』に不思議な記述があります。

それは、物部守屋の所領や奴婢を寺財とした具体的記述に見ることが出来ます。

・守屋子孫従類二百七十三人 寺の永奴婢となる。

・没官所領田園十八万六千八百九十(しろ)

・河内国 弓削、鞍作、祖父間(中略)、総て集めれば千二万八千六百四十

・摂津国 於勢、模江、鵄田、熊凝等散地総て集めれば五万八千二百五十

注)「代(しろ)」について、藤原宮出土の木簡に「五百代」などがあり、古代の田の単位には「班

田収授法(大化改新の詔646年)」以後は、「町段歩」の体系が施行され、それ以前には「代(厳密に

は面積の単位ではなく、一束の稻を得ることの出来る田圃の広さを一代という)が施行されていたとい

うのが通説です。

上記「代」合計は10273780代で、「代」の単位となる稻一束が何本の稻を要するのか、また一本の稻

にどれだけの米粒が稔かはわかりませんが、仮に十トンとすると、相当な財政基盤を有していたこと

が確かめられ、七年を要した四天王寺建設費に事欠かなかったといえます。

私見は、儒教を学んだ厩戸豊聡耳皇子が何故、荒陵に四天王寺を創建した理由が飲み込めません。

「荒陵の被葬者」は誰かわかりませんが、「儒教の教え“禮”」に反しているのではないでしょうか。

 

 

 

次回は「推古天皇」(3)です。

 

 

 

 

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