第四十六話 「孝霊天皇」(1)

○懿徳天皇退位後の九州王朝

○孝霊天皇即位前の動乱

1.懿徳天皇退位後の九州王朝

   無気力で政治に関心の無い懿徳天皇に対し、最も憂慮を覚えた卑彌呼は懿徳天皇を退位させ、

女王の座に復帰し、後に孫の壱與(いよ)を後継者として宗女に迎えて九州王朝の立て直しを図

りました。

壱與を支えたのは、実兄宇摩志麻遅命(うましまじのみこと、以下ウマシマチと記す)、拝跪神

(はいきのかみ)こと御年神(みとしかみ)、天才速瓶玉命後の大山咋、ウガヤフキアエズの

四人でした。

この四人の血筋を「神々の体系-平成12年考」を熟視すると、四人と壱與の関係が理解できるの

です。

図 故百嶋氏作成「神々の系図-平成12年考」

 

2.孝霊天皇即位前の動乱

・ 建南名方(たけみなかた)の乱

『魏志』倭人伝が記す倭国大乱

父懿徳天皇退位後、政情不安が続き、孝霊天皇は長らく即位できませんでした。

そのような状況下で、大率姫氏に次ぐ格式を持つスサノオの孫建南方は熊襲と呼応して、

AD195年頃に南九州で反乱の狼煙を上げました。

反乱理由は後漢の衰退により、後漢の出張所とも目された倭国がその正当性と後ろ盾を失っ

たと即断したのです。

後漢は西暦184年「黄巾(こうきん)の乱」が勃発し、その反乱は全国に飛び火し、実質支

配者であった10人の大宦官(だいかんがん)の多くが殺され、西暦189年霊帝は没し、その混

乱に乗じた董卓(とうたく)が首都洛陽を支配し、霊帝の後継者少帝弁を廃位後殺害。この時

点で後漢は事実上統治機能を失いました。

故百嶋氏のメモによれば「後漢が滅びて倭国内は大乱の折、大率家の方々を諸(室・村・

群)へお迎えしたのは草香王(くさかおう、仁徳天皇皇子)の御母の先祖諸氏(もろし)でし

た。諸一族(もろいちぞく)の住する所、すなわち後世の俗称ヤマタイです。」と書き残され

ています。

諸一族とは、現宮崎県東諸県郡を支配する大己貴命の一族と考えられ、“ヤマタイ”とは『後

漢書』倭伝が記す「其大倭王居邪馬臺國案今邪摩惟音之訛也(其の大倭王は邪馬臺國に居し、

案ずるに今邪摩惟音の訛なり。)」とある“邪馬臺國(やまたいこく)”と考えられます。

「狗奴国(こうぬこく)の乱」は、球磨川以南を支配地とする狗奴国の統領建南方命を中心

に、北熊本から肥前東・筑後地域を支配する熊襲族が合体し、また朝倉地区を支配していた事代

主も呼応したので、戦いは筑前・筑後・豊前の三地域で開始されました。

迎え撃つのは二系統の物部軍「大矢口ウガヤフキアエズ」と「大水口ウマシマチ」であった

と推測されます。

いち早く戦いの不利を悟った事代主軍はいち早く離脱し、九州王朝に恭順を誓ったものの、

戦いは膠着し数ヶ月に及びました。

次第に疲弊した狗奴国軍は終に降伏の時が近づいてきました。

故百嶋氏によるとこの事態を収拾したのが、建南方命の父草部吉見こと天忍穂耳命です。建

南方命は父の説得を受け入れ、九州から去ることを条件に降伏しました。

そして、降伏後は名を「足下の神 阿須波(アスハ)」に改めます。

ところが、故百嶋氏が作成した「神々の系図-平成12年考」に不思議な系図が遺されていま

す。

建南方命の両親に関して二系統の系図があります。

①父草部吉見こと春日大神、母瀛津世襲足姫

②父彦火々出見命こと饒速日命、母天細女命こと豊受姫

さらに故百嶋氏のメモには

とあり、「外宮様」とは天細女命こと豊受姫です。建南方命の叔母ではなく母である蓋然

性が窺えるのです。

すなわち、ウマシマチ命・卑彌呼宗女壱與は建南方命の弟妹となります。

壱與は後の孝霊天皇の皇后細姫です。

おそらく、故百嶋氏は壱與を反逆者の妹とするには忍び難かったのでしょう。

建御名方による「倭国大乱」が終息した後、饒速日の後継者ウマシマチの妹壱與は西暦

195年頃に孝霊天皇の皇后となりました。

図  宮崎県東諸県郡綾町(推定”室“地区)周辺の地図

次回は「孝霊天皇」(2)です。

 

 

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