図 「壬申の乱」ゆかりの地全体マップ
○天武天皇軍の勝利
○物部連麻呂
○戦後処理
○『日本書紀-巻第二十八』最後の記事
1.天武天皇軍の勝利
・天武元年七月四日条
将軍大伴吹負、近江の将軍大野君果安(本来の名は蘇我果安、蘇我倉山田石川麻呂の弟)と
乃楽山(ならやま)で戦い、敗れる。
近江朝の反撃も窺えます。
・同年七月十三日条
村國男依等、安河(現野州川)の畔で、大いに近江朝軍を破る。
・同年七月二十二日条
村國男依等、近江朝の栗太軍を破り、瀬田に至る。
瀬田川の対岸には大友皇子及び群臣等の陣地があり、天武軍に対して激しく反撃します。
・同年七月二十三日条
反撃も空しく、大友皇子は逃亡の機会を失い、山前に隠れ、自死します。
近江朝の左右大臣及び群臣の多くは逃亡しますが、多くは後に捕らえられます。此処に近江朝が滅亡
します。
是より先に「将軍等、事代主神・村屋坐彌富都比売神・牟狭坐神の三神の教え給う言葉に感謝し、馬
や兵器を供えた。」とあります。
此の三神を祀る神社
- 河俣神社 奈良県橿原市雲梯(うなて)町
ご祭神:八重事代主
- 村屋坐彌富都比売神社 奈良県磯城郡田原本町藏堂 別名大神(おおみわ)神社別宮
ご祭神:大物主命(=大国主命)・三穂津姫命(=豊玉姫)
- 牟佐坐神社 奈良県橿原市見瀬町
ご祭神:高皇産霊神(=高木大神)
以上の三神社から、天武軍には「事代主系物部軍」が多数占めていたと推測されます。
図 「壬申の乱」ゆかりの地全体マップ 出典:村屋坐彌富都比売神社HP
写真 秋の御朱印「秋桜と白いワンピースの女性」 出典:村屋坐彌富都比売神社HP
2.物部連麻呂
・天武元年七月二十六日条
「不破宮で天武軍の将軍等が駐屯していた前に、大友皇子の首を捧げて献上した者あり。」との記事
があります。
日本書紀編纂者は名前を秘していますが、その忠節振りが高く評価され、罪を免れ、その後人臣を極
め、物部から石上(いそのかみ)に改姓し、天武十三年(684年)に制定された「八色(やくさ)の
姓」で、序列第二位の“朝臣”を賜り、慶雲元年(704年)に右大臣、和銅元年(708年)に左大臣に昇
進します。後に石上朝臣麻呂を名乗りました。
3.戦後処理、
何故か、天武天皇は戦後処理を高市皇子に委ねます。
重罪人八人の処分は
・右大臣中臣金連を滋賀県東浅井郡で斬殺
・左大臣蘇我臣果安・大納言巨勢臣比等、及び子孫併せて中臣連金の子、蘇我臣果安の子等
は配流。後に許されます。
・是より先に、尾張国司守小子部連鍬鈎が山に隠れて自死。天武元年六月二十七日条に矛盾する記事
です。
天武天皇は功有る鍬鈎が自死したことを訝り、謀反の心が有ったのではないかと述懐しています。
戦後処理は、新体制を築く上で最も重要な関心事ですが、日本書紀編纂者は具体的な戦後処理に言
及していません。
さらに不思議なことは、戦後処理体制について全く関心を示さず、天武天皇は相変わらず「高みの見
物」です。
天武天皇は、伊勢の桑名郡から鈴鹿・阿閉・名張で停泊し、倭京の嶋宮を経由して岡本宮に入りま
す。その後、岡本宮の南飛鳥浄御原宮に遷ります。
日本書紀の記述では、わずか3ヶ月未満で飛鳥浄御原宮を造営したことになります。信じられません
ね。
4.『日本書紀-巻第二十八』最後の記事
・天武元年十二月条
「是の月に、大紫韋那公高見(ゐなのきみたかみ)薨せぬ」
おそらく死亡したことによって「昇階」し、「大紫」の冠位が授号されたと考えられます。それにし
ても何故、この記事が最後を飾ったのでしょうか。
孝徳天皇が定めた「七色十三階」では、「大紫」は序列第五位で、大臣クラスに相当します。
日本書紀は、「韋那公高見」について記述していませんが、江戸時代の明和年間(1764年6月30日~
1772年12月10日 徳川家治の時代)に、二上山麓で、一人の農夫が開墾中に金銅製の骨臓器が出土
し、民間の歴史家の活躍によって其の存在は広く明らかになりました。
刻まれた墓誌「少納言正五位下威奈卿墓誌銘■序」
もし、韋那=威奈であるならば、日本書紀記事は疑問が浮かびます。
注)二上山
奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町に跨がる二つの山
次回は「天武天皇」(1)です。