第百四十五話  「天武天皇」(1)

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写真   東栄町の花祭り  出典:東栄町の時間

 

 図  花祭りの開催地

○天皇専制政治

○官制改革

○氏族・民政統治

○威嚇的な詔

○軍事体制

○外交関係

 

1.天皇専制政治

「壬申の乱」では、戦陣に立たず「高みの見物」を決め込んでいた大海人皇子が、天皇に即位後

は目を見張るほどの働きぶりです。

政治体制は、一人の大臣も置かず、自ら政務を執り、要職には皇族を配しますが、権力はあくま

で天皇個人に集中する「天皇専制政治体制」を構築しているのが特徴的です。

天武天皇は「壬申の乱」に勝利し、「近江朝」を倒しましたが、当時は一地方政権に過ぎず、政

治体制・財政基盤、軍事力強化に格段の能力を発揮します。

では、この格段の能力を如何にして身につけたのでしょうか。

この謎を解き明かすため、天武天皇の諸施策から検証してみましょう。

諸施策の概要については、大変要領よくまとめられたWikipediaを参考にしました。

2.官制改革

・天武二年五月一日

「宮廷に使える者を大舎人とし、才能によって役職に就ける制度を用意。併せて、婦女は夫の有無や

長幼を問うこと無く、宮仕えを望む者は採用した。」

現代で云えば、「人材の登用・能力主義・男女機会均等法」に相当します。

・天武五年一月二十五日

「畿内及び陸奥・長門国を除き、国司には大山下以下を任命。幾外の臣・連・伴造・国造の子と特に

才能がある諸人に宮への出仕を許す。」

・天武七年十月二十日

「毎年、官人の勤務評定を行って位階を進めることとし、一次評定は法官、二次評定は大弁官とするこ

とを定める。これにより、官人に定期的・体系的な昇進機会を与える制度を定めます。」

現代で云えば「勤務評価制度・人事考課制度」に相当します。

・天武十年二月二十五日

「皇后と共に「律令」を定め、「法式」を改める大事業に乗り出しますが、存命中には完成しませんで

した。持統天皇三年六月二十九日「飛鳥浄御原律令」として発布されました。」

おそらく、統一国家「日本国」の統治体制を目指した事業と推測されます。

・天武十一年四月二十三日

「冠を被るのに相応しい髪型に改めます。」

・天武十三年十月一日

「諸氏の族姓を改め、”八色(やくさ)の姓(かばね)”を制定。」

「真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置」の八色

なお、天武天皇の和風諡号は「天渟中原瀛眞人(あめのぬなかはらおきのまひと)天皇です。

敏達天皇の和風諡号「渟中倉太玉敷天皇」と似ていますね。

また、天皇が姓の「眞人」を号するのは奇妙ですね。

さらに、「瀛(おき)」は「瀛氏(いんし)統領金山彦の末裔蘇我氏」との関わりが見えてきます。

・天武十四年一月二十一日

「冠位四十八階を定める。」

実際に授けられた最高位は草壁皇子の「浄広壱」、

皇子以外で、存命中に叙位された最高位は美濃王(三野王・御野王とも表記)と当麻真人豊浜の「小

紫」です。

天武十二年に朝廷の政治に参画した大津皇子の叙位記事が見えないのは不思議です。

さらに「壬申の乱」で大いなる武功を挙げた高市皇子も叙位記事が見えません。

天武十五年に元号を「朱鳥」とした記事は、重大な歴史的事実を隠匿した可能性が濃厚です。

『歴代鎮西要略』記事に「十五年丙戌、改元朱鳥 或説日甲申太宰府献朱雀仍年号改元朱雀」とあり

ます。

拙訳は「天武十五年 (元号を)朱鳥に改元 或説曰く、甲申の年(天武十三年)太宰府(九州王朝

倭国)が朱雀(年号)を献じたので、元号を朱鳥に改めた。」

『歴代鎮西志』記事に「十五年丙戌改元朱鳥」とあります。

日本書紀は「朱鳥改元記事」の理由を記していませんが、上記の文献から代々「元号」を建元してい

た九州王朝倭国がその地位を失い、元号を建元する権威をヤマト王権に移譲した記事と考えられま

す。

すなわち、日本列島の統一国家「倭国」は滅び、天武十五年に「日本国」へ禅譲されたのです。

注)当麻氏(たいまし)

当麻氏は用明天皇御子である麻呂子皇子(別名当麻皇子)を祖とする一族。事跡は不明で天武十年に

「小紫」で没した。子の当麻国見は「八色の姓」が制定された際、当時の「公」姓を改め、「眞人」

の姓を賜る。

日本書紀に記述はありませんが、「壬申の乱」で大いなる功を挙げたと推測されます。

 

3.氏族・民政統治

基本的には、豪族・寺社の土地と人民に対する私的支配を否定した政策です。

・天武四年二月二十五日

「天智三年(664年)から諸氏に認められていた部曲(かきべのたみ)と皇族・臣下・寺院に認めら

れていた山沢・嶋浦・林野・池を取り上げる詔。」

有力者が私的に支配を及ぼすのを否定し、官位・官職や功績に応じて個人に封戸(食封)を与える形式

に改めます。

・天武五年四月十四日

「諸王・諸臣に支給される封戸の税は、西国を除き、今後は東国に支給する。」

現代で云えば、西国を除き「地方税交付金」を東国に支給し、積極的に東国経営に乗り出した様子が

窺えます。

・天武八年四月五日

「寺の食封の調査を命じる。九年四月には寺の食封の年限を30年に限定した」が、この調査は徹

底しなかったようです。

寺は既得権益を守るため、その抵抗は予想以上だったのでしょう。

4.威嚇的な詔

・天武四年二月十九日

「群臣・百寮及び天下の人民は諸悪を止めよ。もし犯すことあらば、事にしたがいて罰する。」

・天武六年六月

「東漢直(やまとあやのあたい)等に「小墾田宮の御代より近江朝に至るまで七つの誤りを犯してい

るので、その罪を責めるも大恩を下して今回は許すが、今後は許さない。後に東漢直等を復権させ、寛

容性を示します。」

おそらく、軍事力に優れた東漢氏が近江朝に与していたこと、また蘇我氏の藩兵であったことを揶揄

したものと推測されます。

・八年十月二日

「巷や里に悪人多くあり。これは王卿等の怠慢が原因であり、今後は国家安寧のために治安を強化せ

よ。」

 

5.軍事体制

基本的には、政治の要諦は軍事にあり、文武の官人は連携して武器の調達・在庫管理・規律重視・鍛

錬を怠らぬようにする体制作りと考えられます。

・天武四年十月二十日

「諸王以下、初位以上の官人武装を義務づける。」

・天武五年九月十日

「武器を検査」

・天武九年九月九日

「大山下以下の騎馬による騎射の鍛錬振りを長柄神社で見学」

・天武十三年閏四月五日

「来年の九月に百寮の軍隊の進退・威儀を見学する。また、政治の要は軍事にあり、文武官の

諸人も武器を携え、騎乗することを習えと命じ、武装に欠ける者は罰を与える。」

 

6.外交政策

 (1)新羅

一般的には「親新羅」政策と呼ばれていますが、果たしてそうでしょうか。

新羅の使節派遣記事は九回にも上りますが、そのうち七回は「調を進(たてまつ)る。」記事です。

倭国と新羅国は「任那復興問題の現実的解決策として旧任那諸国からあがる調(税)を倭国に送

る。」ということで解決しました。

2で紹介した「天武十五年 元号朱鳥元年 九州王朝倭国が滅び、禅譲を承けて日本国が誕生した」

経緯から、新羅による「七回の調進上記事は、新羅から倭国への調進上記事」と考えられます。

調進上記事以外は新羅使節派遣記事と考えられます。

・天武元年11月24日

「新羅の客金押寅等を筑紫で饗応」

・天武閏6月15日

「新羅韓阿湌金承元・阿湌金祇山等を遣わし、天武即位を慶賀し、併せて先皇の喪を弔う。」

おそらく日本書紀編纂者の潤色記事と考えられます。

(2)高句麗

四回の朝貢記事があります。

高句麗は西暦668年 唐によって滅亡していますので、正式な使節とは考えられません。

(3)耽羅国

・天武閏6月15日

「王子久麻藝・都羅・宇麻羅を遣わし朝貢」

以上の検証から、天武天皇は「国家の体制が財政基盤の確立・軍事力の強化」を通じて、政治体制

を確立し、国家体制を盤石にすることが最大のミッションと自覚していたようです。

おそらく若い頃から「国家の課題」を明確にし、課題を克服するためのミッションを明確に目的化

したのでしょう。

また、若い頃からの豊富な軍事経験から、兵站(戦時に調達する糧食・武器の補充)を強化するた

め、財政基盤を強化することが肝要だと理解していたようです。

戦時における命令系統を一本化するため、兵の鍛錬や有能な人材の育成が急務だと理解していたの

です。

 

 

次回は「天武天皇」(2)です。

 

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