第百四話  「倭の五王」を取り巻く朝鮮半島の情勢(1)

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○正史の『日本書紀』はなぜ、倭の五王に関する記事がないのか。

○倭王武の「上表文」

○朝鮮半島の強国「高句麗」

○五世紀半ば頃から台頭する新羅

 

1.正史の『日本書紀』はなぜ、倭の五王に関する記事がないのか。 

「倭の五王」に関する中国史書

『宋書倭国伝』 西暦487年南朝梁の沈約(しんやく)の撰

『南斉書倭国伝』南朝梁の粛子顕(しょうしけん)が書いた紀伝体の史書。高帝の建元元年

(479)から和帝の中興二年(520)までの歴史が記されている。

『梁書倭国伝』中国南朝梁の歴史書。西暦629年陳の桃察(ようさつ)の遺志を継いで息子の

桃思廉(ようしれん)が成立させた。

以上の史書を『日本書紀』編纂者は目にしているはずですが、思わせぶりの記述はあるもの

の、直接的な記事は皆無です。

編纂を命じた天武天皇について、『日本書紀』編纂者は「倭国」の直系ではないことを知って

いたのでしょう。

 

2.倭王武の「上表文」 

原文は純粋な漢文。訳文は『新丁 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』 石原

道博編訳 岩波文庫』を参考にしています。

「(前略)代々、中国に朝宗し、歳をたがえあやまることはなかった。臣(=倭王武)は下愚ではある

が、かたじけなくも先諸(先人の事業)をつぎ、統(す)べるところを駆り率い、天極に帰宗(きす

う)し、道は百済を経て、もやい船を装いととのえた。(謙遜した表現で、実際は倭国の正装し

た船)ところが、句麗(=高句麗)は無道であって、見呑(けんのん)をはかることを欲し、辺隷をかす

めとり、虔劉してやまぬ。つねに滞りを致し、もって良風を失い、路に進んでも、あるいは通じ、

あるいは通じなかった.臣の亡考(亡父)済は、じつに仇かたきが天路を閉じ塞ぐのを怒り、弓

兵百万が正義の声に感激し、まさに大挙しようとしたが、急に父兄を失い、垂成の功(まさに成ら

んとする功)もいま一息のところで失敗に終わった。むなしく喪中にあり。兵を動かすことも出来

ず、休戦状態に陥り、まだ勝利することができません。今になって甲を練り、兵を治め、父兄の

志をのべたいと思います。(中略)ひそかに、自ら開府儀同三司を仮に与え、その余は仮に授け

て、もって忠節に励んでいます.(後略)」

重要な点は、「倭国は高句麗を征討するため、大軍事作戦を計画したものの、“済と武の兄”は

急に亡くなったことです。

上表文からは、朝鮮半島へ渡海したと言う記述もなく、『南朝史(宋・斉・梁)・北朝史(北

魏)』も同様に倭国が朝鮮半島に渡海し、高句麗軍との戦闘に関する記述はなく、“済と武の

兄”は倭国内で死亡したと推測されます。

死亡原因はわかりませんが、当時、朝鮮半島の強国「高句麗」に戦いを挑むなど無謀としか思

えません。

おそらく、反対派の勢力に暗殺されたのでしょう。その時期は西暦460年前後ではないかと推

測します。

 

3.朝鮮半島の強国「高句麗」

(1)『北朝史』文献からみる「高句麗」と金石文からみる朝鮮半島諸国と倭国

高句麗の広開土王の後継者長寿王(在位413~491年)によって、高句麗は新羅や百済、更に百

済を援軍として助ける倭国軍と戦って、朝鮮半島の大半と遼河以東までに勢力を拡大し、高句麗

の最大版図を形成しました。

その歴史的経過は

①西暦424年 南朝宋の冊封を受ける。

②西暦427年、首都を首都国内城から平壌に移し、南進路線をはっきりとさせ、南方への勢

力拡大を続ける。

③西暦435年、背後の強国「北魏」に朝貢し、冊封を受ける。

『魏書』によると北魏の世祖太武帝から「都督遼海諸軍事征東将軍領護東夷中郎将、遼東

郡開口公高句麗王の称号を拝受された。」とあります。

すなわち、後背の強国「北魏」と通交することによって、高句麗の支配地が担保された

ことになります。

④西暦450年 新羅が高句麗の辺将を殺害するという事件を契機に、高句麗は新羅領であっ

た忠清北道に進出し、新羅は高句麗の「臣民」となる。

⑤西暦455年以降 長期にわたり百済を攻撃。百済は北魏に救援を求めたが北魏は介入しな

かった。また百済の救援要請を受けた新羅・倭国は援軍を送ったが高句麗の勢いは止めら

れませんでした。

⑥西暦475年、百済の漢城(現ソウル市特別区)を陥落させ、蓋鹵王(こうろおう)を殺害

した戦勝により、百済は熊津(ゆんじん)に南遷。

⑦西暦492年 長寿王が死去し、後継者文咨明王(在位492~519年)即位。対外活動が最も

盛んになります。

(2)高句麗と新羅の関係を示す金石文「中原高句麗碑」

1978年に大韓民国忠清北道中原郷(現在の忠州市)中央塔面龍田里で発見された石碑。

(碑文の内容)

高句麗と新羅との関係を兄弟になぞらえながらも、高句麗を「大王」、新羅王を「東夷の

寐錦」と位置づけています。

注)寐錦(=法興王)在位(514~540年)

写真 「中原高句麗碑」 出典:Wikipedia(2022/04/12 13:30)

図  遼河(LIAO)  出典:Wikipedia(2022/04/12 13:30)

河北省・内蒙古自治区・吉林省・遼寧省を流れ、渤海に注ぐ。

歴史的地名として遼河以西を遼西、以東を遼東と呼びます。

図 忠州市周辺地図

図 「高氏系譜」故百嶋由一郎氏作成

4.5世紀半ば過ぎから台頭する新羅

新羅建国後の歴史的経過を検討してみましょう。

(1)西暦356年「新羅」建国 初代王奈勿尼師今(在位356~402年)

『三国史記-新羅本紀』では、新羅第十七代としていますが、私見は「辰韓や斯廬国」の歴

史を剽窃したと推測しています。

第十六代訖解尼師今の姓「昔氏(そくし)」から「金氏」に変わっています。

『三国史記-新羅本紀』が記す倭人の侵入記事

①奈勿尼師今九年(364)

夏四月、倭兵が大挙して侵入したが、不意打ちが功を奏して倭兵を撃退。

②奈勿尼師今三十八年(393)

夏五月、倭軍が侵入して金城を包囲。持久戦により倭軍は退却。

『韓国歴史地図-平凡社』によると、倭軍は北のポハンから侵入しています。

③実聖尼師今元年(402)

倭国と国交を結び、奈勿王子未斯欣(みしきん)を人質に送る。

④実聖尼師今四年(405)

夏四月 倭兵が侵入し、明活城を攻めたが、王が騎兵を率いて倭軍を破る。

⑤実聖尼師今六年(407)

春三月 倭人が東部を、また六月には南部を侵略した。

⑥実聖尼師今十四年(415)

八月、倭人と風嶋で戦い、勝利。

侵入記事はまだまだ続きますが、侵入地域は「釜山より北部の現在の慶尚南

道の東海岸部」と推定されます。

5世紀半ば過ぎからの倭人侵入記事の実体は、新羅による任那諸国への侵入記事と推測さ

れ、新羅は朝鮮半島中央部の慶尚北道・忠清北道に支配地を広げていきます。

(2)西暦377年 前秦への遣使が高句麗と共同で行われたことに見られるように、新羅の登場は高

句麗と密接に関わっています。

「広開土王碑」は新羅を高句麗の属民として記述しています。

その後、「高句麗や倭」につくなど「自立への道」は容易ではありませんでした。

(3)西暦454年 高句麗が新羅に侵入して戦闘となり、翌年には高句麗と百済との戦いで、百済へ

援軍を送る(「羅済同盟」)など新羅は高句麗に対する自立姿勢を明確にしていきます。

(4)5世紀末、新羅は慶州盆地の丘陵に「月城」と呼ばれる王城を築いた。

図 智證麻立干が建てた王都「月城」 出典ひもろぎ逍遥05/03/2012

場所は慶州国立博物館 太白山脈をこえた盆地

(5)5世紀末に即位した智證麻立干(在位500~514年)は、それまで不定であった国号を正式に

「新羅」とし、王号を旧来の「麻立干から王」へと変更したようです。

注)新羅の「原国号」

「徐那原(そなばる)」

(6)智證麻立干の後継者法興王(在位514~540年)は、西暦521年、百済との「羅済同盟」を背景に

伽耶方面への勢力拡張を図る。

(7)西暦523年 金官国を滅ぼす.金官国王金仇亥の一族を王都に移住させ、金仇亥の末子金武力

を重用する。新羅は服属させた周辺小国の王を貴族階級に取り込み、対外伸張政策の特徴とし

ています。

(8)西暦528年 仏教を公認。

(9)法興王之後継者真興王(在位540~576年) 新羅は高句麗と争い、西暦551年

小白山脈を越えて高句麗の10郡を奪う。翌年には高句麗と百済の争いの中で、漁夫の利を得

る形で「漢城」を手中に収め、朝鮮半島の西海岸まで勢力を伸ばします。

(10)西暦562年 伽耶地方の大伽耶を滅ぼして占領し、洛東江下流域の任那諸国が新羅の支配下

に入ります。

 

 

次回は「倭の五王」を取り巻く朝鮮半島の情勢(2)です。

 

 

 

 

 

 

 

 

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