写真 九月開催の秋まつり「おわら風の盆」
洗練された舞が魅力。 出典:オマツリジャパン
○即位前紀記事の不審
○第一次百済救援軍の派遣
○第二次百済救援軍の派遣
○第三次百済救援軍の派遣
○倭国軍は勝算のない唐・新羅連合軍に挑んだのでしょうか。
○「白村江の戦い」の皮肉
1.即位前紀記事の不審
『日本書紀』から検証してみましょう。
(1)斉明七年七月(661年)
「蘇将軍と突厥の王子契苾加刀等と水陸二路より、高麗の城下に至る。」
同記事は、658~659年にかけて唐が高句麗を攻撃した時期と考えられます。この遠征は失敗に終わり、高句麗を攻撃するに当たって、その同盟国となっていた百済を先に滅ぼして高句麗の背後を抑える計画に変更します。
唐は新羅の要請を呑み、660年に水陸併せて13万とする軍勢を以て海路百済に侵攻します。
顕慶五年(660年)熊津道大総督の蘇定方将軍は、軍を率いて百済の討伐に当たり、無事その目的を果たします。
したがって、同記事は『旧唐書百済伝』記事と一致しません。
すなわち、斉明七年は西暦600年で、一年ずれた記事です。
『旧唐書(くとうしょ)巻84列伝第34劉仁軌伝』
「主上(高宗)は高麗を呑滅せんことを欲し、先ず百済を誅せり。兵を留めて鎮守し、その心腹を制す。」 (原文は漢文)
唐軍は百済を滅亡させるのが目的で、倭国とは戦っていません。
斉明天皇は同年7月24日に崩御されています。
(2)天智元年
厳密には「即位前紀」記事ではありませんが、不思議なことに中大兄皇子が天智天皇として即位する記事は見当たりません。
『日本書紀-天智七年春二月条』
「皇太子即位す。」という控えめな記事があるだけです。
NHKの歴史番組と違い、Wikipediaは「天智天皇の即位年を七年春二月(668年)」と明記していることをご存知ですか。
すなわち日本書紀は、斉明天皇崩御後、天智天皇が即位するまで「天皇が不在」であったとしているのです。
『日本書紀―斉明天皇紀七年六月条』
「伊勢王薨せぬ。」
『日本書紀-天智天皇紀七年六月条』に同様の記述があります。
「伊勢王とその弟王薨せぬ。未だ官位を詳(つらびか)にせず。」
同記事は、「官位を明らかにすることが出来ない」としているのです。
また、伊勢王とその弟王の死の原因も気になりますね。
倭国の「暗黒史」かもしれません。
2.第一次百済救援軍の派遣
『日本書紀ー天智元年(662年)五月条』
「大将軍大錦中阿曇比邏夫大連等、船帥百七十膄を率い、豊璋等を百済に送り、その位を継がしむ。」
何故か、百済救援軍には触れていません。豊璋を百済に帰国させ、王位を継がせるため170艘の船団が必要でしょうか。
Wikipediaによると、第一次百済救援軍は斉明七年五月(661年)に派遣されたとし、日本書紀とは一年のずれがあります。
660年7月に百済は滅亡し、百済復興をはかる佐平鬼室福信は新羅に対抗するため、倭国に兵の派遣や戦略物資を求めました。
次に、鬼室福信は倭国に滞在している豊璋を百済王に推戴するため、豊璋の帰国を要請します。
倭国は、新羅軍と百済復興軍との戦いを慎重に分析した結果、百済復興軍に勢いがあると見誤り、662年5月 鬼室福信の要請に応え、豊璋の帰国と百済救援軍を派遣します。
『三国史記―百済本紀』・『旧唐書(くとうしょ)百済伝』では、
「豊璋は662年5月に百済に入国し、このとき福信は王を迎えに出て、国政を委ねます。倭国はこの後福信宛に軍需物資を送り、福信も捕虜の唐人「続守言」等を倭国に送る。」とあります。
『日本書紀』と『三国史記百済本紀』・『旧唐書(くとうしょ)百済伝』記事は一致します。
第一次百済救援軍は指揮官阿倍比邏夫・狭井連檳榔等の活躍により、新羅の城を奪うなど一定の成果を挙げましたが、何故か、その後の消息が不明です。
3.第二次百済救援軍の派遣
「二年春三月、前衛将軍上毛野君稚子・間人連大蓋・中衛将軍巨勢神前譯語・三輪君根麻呂・後衛将軍阿部臣引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄等を遣わし、二萬七千人を率いて、新羅を伐たしむ。」とあります。
後衛将軍阿部臣引田臣比邏夫とはおそらく阿倍比邏夫と同一人物と推測されることから、少なくとも将軍阿倍比邏夫は、一旦帰国していたようです。
では、何故将軍阿倍比邏夫は帰国したのでしょうか。
答えは、第二次百済救援軍は新羅に大敗したのです。そして、敗残兵の多くが捕らわれました。
『三国史記―新羅本紀』に、捕虜となった倭兵が記述されています。
高麗からの情報では、「二年夏五月、糺解(豊璋)が福信の罪を語る。」とあります。
豊璋は帰国後直ぐに、鬼室福信と仲違いします。現状分析も出来ないまま、追従者の意見に耳を傾け、鬼室福信の助言を聞かなかったようです。
そのため、百済復興軍は急速に求心力を失い、統制も徹底しませんでした。
また、この有様を見て倭国救援軍も新羅の軍事力に危機意識を高め、さらなる増派に踏み切ります。
4.第三次百済救援軍の派遣
「二年六月、上毛野君稚子等の奮戦により、新羅の二城を攻略します。ところが、百済王豊璋は、謀臣
達の意見を聞き入れ、鬼室福信に謀反の心があるとして虐殺します。」
このような豊璋の所業により、復興百済軍の士気はさらに低下しました。
「二年(662年)八月、新羅は復興百済軍の体たらくをみて、州柔(ツヌ)に進撃を開始し、城を囲
みます。」
唐軍の劉仁軌将軍は、陸軍の兵を州柔に集結させ、さらに戦船百七十艘を率い、白村江河口に陣列を
揃えます。
これにより、唐・新羅連合軍は陸・海に強力な攻撃態勢を構築します。
沖から押し寄せた倭国軍は四波に分け、復興百済軍の助言もあり、先制攻撃を仕掛けます。
これを待ち受けていた唐軍は「大戦船」で倭国軍の船を両側から挟撃します。
その結果、倭国軍の船は押しつぶされるように転覆し、溺れた倭国兵は相当数にのぼったようです。
加えて、唐軍の火計(火矢・焙烙)によって、1000艘のうち400艘が炎上しました。
まさしく倭国軍の大敗で。唐軍に降伏しました。
そして、有力な将軍は捕虜と成り、洛陽に連行されます。
従軍した農村出身の兵は、「賎民」として同じく洛陽に連行されます。
故古田武彦氏が注目したのは、捕虜となった「筑紫君薩夜麻」です。詳しくは後述します。
他方、倭国軍の壊滅的状況を尻目に百済王豊璋は船で高句麗へと逃亡する始末です。
図 「白村江の戦い推定地錦江」
図 白村江の戦い「海戦図」 出典:Wikipedia(2022/09/04 11:00)
Baekje Remains 百済復興軍
Tamna Force 耽羅軍
5.倭国軍は勝算のない唐・新羅連合軍に挑んだのでしょうか。
大きな原因は二つの派閥の存在です。
(1)百済擁護派
西暦475年、高句麗の長寿王が自ら大軍を率い、百済の王都「漢城」を囲みます。これに抗しきれなかった蓋鹵王は脱出を試みますが、捕縛され殺害されます。
日本書紀は『百済記』を引用し、「蓋鹵王の乙卯年冬、狛(高句麗)の大軍が襲来し、攻めること七
日七夜、遂に王城は陥落し、慰礼(百済)の国を失った。王及び大后王子達は皆、敵の手に没した。」とあります。
倭国が百済復興のために尽力した記事
『日本書紀-雄略天皇紀二十一年春三月』
「前年、百済が高麗のために破れた」ことを知り、久麻那利(くまなり)を割譲。また汶州王の元に
救援兵を派遣し、百済を救援すると共に復興に尽力します。
当時の倭国王は、「倭の五王“武”」です。
紆余曲折はありますが、総じて「倭国王が百済擁護派の筆頭」でした。
(2)任那復興派
紀元前後から倭国の主たる豪族は、朝鮮半島に縁がありました。
彼らは一様に「任那復興」に特別の思いを抱いていました。
具体的な豪族名は以下の通りです。
・紀元前後から韓半島との交易を重視した白族白川伯王家、後の紀氏(きのし)・阿倍氏・大伴氏・ 安曇氏・膳臣氏など
・金官伽耶国から日本列島へ進出した越智族金氏。後の越智氏。
・越智族金氏の側近で、元は「大伽耶国王」の許氏「高木大神」
・許氏の側近となった阿蘇族。
・辰韓国と縁のある昔(そくし)スサノオ。後に百済擁護派から離脱します。
・弁韓国と縁のある瀛氏金山彦。後の蘇我氏。蘇我氏は後に百済拒絶派に転じます。
6.「白村江の戦い」の皮肉
白村江の戦いで壊滅的な敗戦を喫した倭国軍、とりわけ古代から勇名を馳せた豪族達の多く
が戦死しました。
『日本書紀―雄略天皇紀六年十二月条』
「百済、使いを遣わし、任那國の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四縣の割譲を願い出ます。
これに対して、穂積臣押山は「後世に災いを起こす恐れあり」として反対。大伴大連金村も天皇を諫めましたが、天皇は百済の申し出を許します。」
『日本書紀―雄略天皇紀七年六月条』
「伴跛(はへ)国が百済領の己汶を略奪したので、お返し願いたい」との嘆願書を提出しますが、天皇は却下しました。
穂積臣押山は任那国王で、戦略上の要地である「己汶(現忠清南道の錦江流域)」を百済に割譲することは「後世に災いを起こす恐れあり」と反対します。
己汶(上哆唎・下哆唎地名は任那国の認識地名)は、伴跛(はへ)国の飛び地で、海上交易
基地でもありました。
すなわち、任那諸国にとっても極めて戦略性の高い地でもありました。
倭王“武”の戦略は百済を擁護すれば、より任那諸国にとって戦力面で貢献できると考えたの
かもしれません。
ところが、百済の戦略は違いました。
倭国王“武”が、穂積臣押山や大伴大連金村の諫言を素直に聞いていれば、違った歴史が動い
たのかもしれません。
注)伴跛(はへ)国
慶尚北道星州郡に存在した任那諸国の一つ「星山伽耶」と考えられます。
次回は「天智天皇」(2)です。