○『日本書紀-孝徳天皇紀』逐条記事の検証(2)
○白雉年号は九年間
○百済の滅亡
1.『日本書紀-孝徳天皇紀』逐条記事の検証(2)
(1)白雉元年春正月
「味経宮(あじふみや)で賀正禮の実施」
味経宮について、補注で「難波長柄宮に近い地」としていますが、いずれも万葉集からの孫引きで確
定的ではありません。加えて、「新年を祝す賀正禮を難波長柄宮で行わず、味経宮で行う必要性」が
あるのでしょうか。
「味経宮が難波長柄宮よりも賀正禮に相応しい宮」と考えれば、この疑問は氷解します。
では、「味経宮」は何処に存在したのでしょうか。
私見は「飛鳥河邉行宮(あすかかわべかりみや)=味経宮」と推測します。小郡市を流れる宝満川東
岸に造営中の「飛鳥河邉行宮で賀正禮を実施した」と推測します。
写真「賀正禮を実施したと推定される「飛鳥河邉行宮の基壇」 出典:九州の古墳遺跡巡り
寺の基壇と推定されていますが、近くに井上廃寺があり、私見は「飛鳥河邉行宮」の基壇部分
と推定します。 同基壇は、東西約18㍍、南北約15㍍、高さ1㍍
写真 小郡市大字井上字村囲「井上廃寺跡」案内板 出典:古墳巡りウオーキングin福岡
「大化六年が突如白雉元年に年号が改まった」理由について『日本書紀』は、白雉が瑞兆の「シンボ
ル」と記述しています。
皆さんは、「白雉年号が元号として認められていない」ことをご存知ですか。
おそらく『日本書紀』編纂者は、今は失われて存在しない『日本紀』から、「白雉年号」記事を挿入したと推測します。
故古田武彦氏は多くの著書の中で「白雉年号は九州年号の一つ」として提起しています。
私がいわゆる「九州年号」を知ったのは、丸山晋司氏の著書『古代逸年号の謎 古写本「九州年号」
の原像を求めて 発行所アイピーシー』です。
丸山晋司氏は、故古田武彦氏が提起した『二中歴』の「継体」を実在した年号としていることに対し
て、『古田武彦九州年号論―『市民の古代』第十一集で、その非を批判しています。
現在、丸山晋司氏は「古田史学の会」から離れ、悠々自適の生活を過ごされているようです。
驚いたことに、数年前から私の妻と丸山晋司氏は、所謂「メル友」として、情報交換を頻繁に交わして
います。
丸山晋司氏に九州年号問題について尋ねると「偽年号だと思う」と述べています。
注)『二中歴』
Wikipediaによると、鎌倉時代初期に成立したとされる事典。その内容は平安時代後期に成立
した『掌中歴』と『懐中歴』の内容を合わせて編集したものとされています。現代では『掌中歴』が一部現存するのみです。
なお、『二中歴』では「大化年号を西暦695年~700年」としています。
『続日本紀-神亀元年冬十月条』
聖武天皇の詔「白鳳より以来、朱雀以前のことは、遙か昔のことで明らかにすることは難しい。」と
あります。
『二中歴』によると、
白雉年号 651~660年 (孝徳五年~斉明六年)
白鳳年号 661~683年 (斉明七年~天武十二年)としています。
(2)白雉二年冬十二月
「味経宮に2,100余の僧尼を招いて、一切経を読経する。」
同記事は「飛鳥河邉行宮」で落成前の大デモンストレーションを実施したと推測します。
(3)白雉三年秋九月
「味経宮(飛鳥河邉宮)の造営が完成。」
(4)白雉四年是歳
「太子(中大兄皇子)、天皇に対し倭の京(みやこ)に移ることを願い出ますが、」天皇は却下します。
太子は天皇の判断を拒み、皇祖母尊・間人皇后・皇弟等を率いて飛鳥河邉行宮に遷ります。その後、
公卿大夫・百官の官吏も同行します。この行動に対して、孝徳天皇は失意の底に陥った。」とありま
す。
突然、舞台が筑紫から摂津難波宮に移ります。
翌年(654)冬十月に孝徳天皇は薨去されたのを奇貨として『日本書紀』編纂者による“「辻褄袷の記
事”が創作されたと推測します。
同記事を冷静に読めば、「中大兄皇子の謀反」といえます。この謀反に寶王女後の皇極天皇と間人皇
后や公卿大夫・百官の官吏が一斉に同行するでしょうか。
(5)白雉五年是歳
「孝徳天皇、正殿で薨去。中大兄皇子は倭河邉行宮に遷る。」
不思議なことに、白雉五年のいつ薨去されたのか、『日本書紀』は語っていません。
九州王朝「倭国」による蘇我宗家並びにその後継蘇我倉山田大臣の誅殺により、中大兄皇子はもぬけ
の殻となった「摂津国難波」に拠点を築き、交易によって徐々に経済力を養い、同時進行で兵力も蓄
えていきます。
山根徳太郎博士が発掘した「前期難波宮(大阪市中央区法円坂)」は中大兄皇子が造営したと推測し
ます。
倭国と蘇我宗家の対立原因は「外交戦略、とりわけ百済外交」と推測します。
写真 「前期難波宮」模型 出典:Wikipedia(2022/08/25 14:50)
私の印象では「飛鳥河邉行宮」と比較し、随分と小規模です。
2.白雉年号は九年間.
『二中歴』は白雉年号を九年間とし、最後の白雉九年は西暦660年です。
西暦660年、百済は唐・新羅連合軍によって滅亡します。
倭国は、百済滅亡に際し、どのような戦略を練ったのでしょうか。
3.百済滅亡
Wikipediaによると、西暦643年、百済は長年の宿敵高句麗と同盟を結び、新羅への侵攻を続け
ます。
善徳女王の死後、後継者となった金春秋は武烈王として即位し、唐へ援軍要請を続けます。この
要請を受けた唐は高句麗の背後を抑えるため、西暦660年高句麗の同盟国百済に向けて水陸併せ
て13万人を派兵します。
これに呼応した新羅も金瘦信の指揮の下、百済に出兵します。
同年3月、唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡り、百済に上陸し、侵攻を開始します。
百済はこの軍事進出を巡って有効な戦略を見いだせず、個別の戦闘では奮戦したものの、7月に
は王都泗沘が占領され、義慈王は熊津に逃れますが、間もなく唐・新羅連合軍に降伏します。
この事態を知った倭国は、孝徳天皇薨去後の体制整備が喫緊の課題となります。
次回は番外編「上岩田遺跡」です。