第百二十四話  「用明天皇」

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写真 「三枝祭」

○和風諡号「橘豊日天皇」とは

○仏法を信奉し、神道を尊ぶ

○穴穂部皇子の暴虐

○「蘇我氏と物部氏の対立」は、物部氏による下克上

○用命天皇の皇后並びに嬪と皇子皇女

 

1.和風諡号「橘豊日天皇」とは

古代における「橘と豊」について検証してみましょう。

(1)豊玉彦の末裔「橘氏」

既に何度も紹介していますが、豊玉彦は古代における「豊・火ノ國」を支配した王です。橘氏は豊玉彦

と木花咲耶姫またの名前玉(さきたま)姫との間に誕生した「神主玉(かんぬしたま)の裔が橘氏の

」と故百嶋氏は解説されています。

通説は和銅元年(708)、元明天皇から縣犬養三千代に橘宿禰姓を賜ったことに「橘氏」は始まるとされ

ています。

はじめ、縣犬養三千代は敏達天皇の後裔美奴王に嫁ぎ、葛城王(後の橘諸兄)を含む三人の子をもう

け、美奴王の死後、藤原不比等の後妻と成り、二人の子に恵まれます。

藤原不比等は阿蘇族の庶流中臣氏を祖としていますが、素性はよくわかりません。橘三千代を後妻に

迎えてからは、妻の後ろ盾もあり、出世の階段を登ります。

 

(2)「橘紋」を神紋とする代表的な神社

①「橘紋」を神紋とする最も古い神社 大和神社 奈良県天理市新泉町星山

中殿に祀られるのが「日本大国魂大神(やまとおおくにたまおおかみ)」で、神武天皇あるいは孝霊

天皇と推測します。

同社が、九州王朝家の神紋「木瓜紋」を採用せず、何故「橘紋」を神紋としたのか判明していませ

ん。

②石清水八幡神社

同社の御縁起によると「平安時代の初め貞韓元年(859)南都大安寺の氏出身の僧、行啓和尚が豊前国

宇佐八幡宮に籠り、日夜熱禱を捧げ、八幡の神様の「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せ

ん。」とのご託宣を承け、同年男山の峯に御神霊を奉安申したのが神社の起源という。

「紀氏(きのし)」は、百嶋神社考古学では「大率姫氏(きし)」系統と、豊玉彦系統の「紀氏」が

あり、行啓和尚は豊玉彦系統の「橘氏」で、豊玉彦の紋章である「橘紋」を選択したと推測されま

す。

図 「橘紋」  出典:Wikipedia(2022/07/03  14:50)

(3)「橘豊日王(用明天皇)」

佃収氏は『新「日本の古代史 158~159p」で西暦586年 用明天皇は阿毎王権(九州王朝)から独

立し、「豊国王権」が発足したと記述しています。

私見は、九州王朝が「西暦581年の赤浦鉄人来襲」の教訓から、関門海峡から瀬戸内海の防御態勢を

堅固にするため「豊国」に分家をたてたのではないかと推測します。

橘豊日王の血筋は、父系が「倭国王阿毎氏」、母系は、「紀氏」出身の人物と推測します。

 2.「仏法を信奉し、神道を尊ぶ」

(1)「仏法を信奉」

二年夏四月、天皇、群臣に詔して曰く。「朕、三寶に帰依しようと思う.郷等で図ってほしい。」と。

物部守屋大連と中臣勝海連は「謂れもなく國神(くにつかみ)に背いて他神を敬う理由もない。開闢

以来、かくの如きを知らない。」と、天皇の詔に対して猛烈に反論しました。

この反論を聞いた蘇我馬子宿禰大臣は「天皇の詔に従い、助け奉るべし。誰が異なる謀を企んでいる

のか。」と、声を荒げ、皇弟皇子(穴穂部皇子)・豊國法師を引き連れ、内裏に入室し、物部守屋大連を

睨み付け大いに怒ります。

この不穏な状況下に押坂部史毛屎(おしさかべのふみけくそ)が物部大連に「群臣達が大連を葬ろう

と待機し、逃げ道を塞ごうとしています。」と物部守屋大連に忠告します。

慌てた物部守屋大連は別業の阿都に遁れ、兵を集めます。また、中臣勝海連も兵を集め、太子彦人皇

子と竹田皇子の像を作り、呪詛のまじないをします。

しかし、状況の不利を悟った物部守屋大連は馬子大臣のもとへ使いを遣わします。

内容は「吾、群臣われを謀ると聞いている。我、故に大連を退く。」との伝言でした。

以上の記述から、用明天皇は仏法を信奉していたことは明らかです。

(2)「神道を尊ぶ」

用明天皇と葛城直磐村の娘廣子との間に生まれた酢香手姫皇女は三代を経て日神(ひのかみ)に奉

る。

『日本書紀』編纂者は頭が良いですね。「日神」と記述すれば、読者は「天照大神を祀る神社」と連

想すると考えたのでしょうね。

残念ながら、伊勢神宮内宮はまだ造営されていません。

 

3.穴穂部皇子の暴虐

父は欽明天皇、母は蘇我稲目の娘小姉君。異母兄に敏達天皇と用明天皇。同母姉に穴穂部間人(あな

ほべはしひと)皇女(用明天皇の妃で厩戸皇子の母)、同母弟に崇峻天皇という華麗な血筋を持ち、

天皇位への野望は並大抵のものではなかったようです。

穴穂部皇子は皇后炊屋姫を犯そうとしたので、炊屋姫皇后は殯宮に逃げ込みます。門を守っていた寵

臣三輪君逆(さかふ)は門衛の隼人を集めて穴穂部皇子の侵入を阻止します。

穴穂部皇子は七度「門を開け」と命じますが、三輪君逆は応じませんでした。この対応に逆恨みをし

た穴穂部皇子は両大臣に「三輪君逆は我に対する礼儀を知らない。よって三輪君逆を斬り殺した

い。」と許可を求めます。

両大臣は「命のままに」と応えます。

その答えに満足した穴穂部皇子は物部守屋大連と共に、磐余の池邊を取り囲んだので、三輪君逆は難

を逃れるために隠れ家を転々とし、終には炊屋姫皇后の別業へ隠れました。

この隠れ家を同姓の白堤と横山が穴穂部皇子に密告します。

穴穂部皇子は物部守屋大連に「三輪君逆と其の子二人を殺害せよ。」と命じます。この謀を知った蘇

我馬子宿禰は穴穂部皇子を説得しましたが、時既に遅く、物部守屋大連は「三輪君逆とその子二人」

を殺害していました。

蘇我馬子宿禰は、この惨劇について「天下の乱は近い。」と感想を洩らします。

この感想を伝え聞いた物部守屋大連は「汝のような小臣が口を出すべきではない。」と蘇我氏を無視

します。

この事件以来、炊屋姫皇后と蘇我馬子宿禰は穴穂部皇子への恨みを深くしました。

不思議な記事が延々と続きますね。

(1)穴穂部皇子に「部」がある理由

天皇の皇子に職掌を表わす「部」はあり得ません。

通説は、安康天皇が「穴穂部」の名代(なしろ)を設けたとする説ですが、具体的な地名はなく、ま

た『日本書紀』は穴穂部皇子の宮を記述していません。

(2)穴穂部皇子の暴虐

第九十三話の1で同名のタイトルを紹介しました。

穴穂部皇子はあろうことか、炊屋姫皇后を襲ったのです。三輪君逆の行動は評価されるべきです。

逆ギレした穴穂部皇子が「三輪君逆を斬殺する」という行動は、両大臣が誰か不明ですが、「諫める

立場であるにも拘わらず、黙って容認します。」

両大臣が容認した理由が全く飲み込めません。

(3)三輪君逆

名前からもわかるように「三輪君」は事代主系大矢口物部氏の一族と推測されます。穴穂部皇子の暴

虐的行動に義憤を感じ、穴穂部皇子の侵入を阻止したと推測されます。

密告者の大三輪君「白堤」は三輪君逆の上司にあたる人物で、本人を呼んで叱責するならともかく密

告するなど考えられません。

(4)物部守屋大連は、蘇我馬子大臣を「小臣」と侮ります。

蘇我馬子宿禰大臣は物部守屋大連よりも一段と高い地位にあり、「小臣」との暴言は腑に落ちませ

ん。

4.「蘇我氏と物部氏の対立」は、物部氏による下克上(クーデター)

上位者である蘇我氏を打倒し、政権を奪うことにあったと推測します。

詳しくは次号で説明します。

 

5.用命天皇の皇后並びに嬪と皇子皇女

(1)皇后穴穂部間人皇女

父 欽明天皇 母 蘇我稲目宿禰大臣の娘小姉君

四人の皇子

・厩戸皇子またの名豊聡耳聖徳あるいは豊聡耳法王大王

・来目皇子

・殖栗(あくりの)皇子

・茨田皇子

(2)嬪石寸な(いしきな)

父 蘇我大臣稲目宿禰  母 不明

一人の皇子

・田目皇子 またの名を豊浦皇子

(3)廣子

父 葛城直磐村  母 不明

一男一女

・麻呂子皇子 (継体・敏達天皇の皇子として重複)

・酢香手皇女 「日神を祭祀する斎王」

 

写真 大和国一宮大神(おおみわ)神社摂社 「率川(いざかわ)神社」

毎年6月17日に行われる「三枝祭(さいくさのまつり)

「三枝(さいくさ)」とは「笹百合」です。

出典:同社公式HP

推古天皇元年(598)の勅命により大三輪君白堤が創建

ご祭神:媛蹈鞴五十鈴姫命(神武天皇の皇后ではなく贈崇神天皇ことツヌガアラシトの

妃)・父神 狭井大神こと事代主命・母神 玉櫛姫命こと活(はえ)玉依姫

図 斑鳩の里案内マップ

 

次回は「崇峻天皇」です。

 

 

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